第29話 葡萄

何か忘れている。


バスタブに身を沈めた時から考えていた。


帰宅した時には覚えていたのに。


何だったっけ、と考えているうちに忘れてしまった。


結局そのまま脱衣所に戻って、パジャマに袖を通してドライヤーで髪を乾かす。


まあ、物凄く大事な事という訳でもなかった筈なので、そのうち思い出すか。


その位に思っていた。


それよりも、考えるべくは明日の夕食のメニューと、朝一の会議の事だ。


頭はフル回転させつつ、ドライヤーは小刻みに動かして一刻も早く髪を乾かさなくてはいけない。


ドライヤーの熱風で肌が乾燥してしまうからだ。


入浴後は、先に髪を乾かして、それからスキンケアをすると決めている。


濡れた髪のままで動くのが嫌いだからだ。


何度か髪を切ろうかと思ったが、ふと思い立ってお伺いを立てたら、紘平から反対された。


短くすると跳ねたりうねるので、ある程度の長さは必要だと思っていたが、あっさり”切るな”と言われた時には驚いた。


佳織の選ぶスタイルに、今まで一度も口を挟まなかった紘平が、珍しく意見したからだ。


「短い髪、嫌いだったの?初耳なんだけど」


「別に嫌いじゃねぇよ。お前は長いほうが好きなだけ」


「・・・なにそのよく分かんない理屈は」


眉根を寄せた佳織の言葉はスルーして、紘平はなし崩しに髪を触って来た。


結局うやむやになってしまったけれど、それ以来セミロングの長さを維持している。


髪を切ったとしても、怒ったりはしないだろうが、佳織の髪に触れる紘平は、嫌いではないのだ。


勿論、こんな惚気以外の何物でもない話は、誰にもしたりしないが。


それでも、乾かす手間を面倒に思う事は少なくない。


亜季のショートボブが羨ましいと感じる事もある。


綺麗な襟足と癖の無いショートボブがトレードマークの亜季は、首筋のラインが綺麗なのだ。


女の自分でも時々触れたくなるくらい、滑らかでしなやかな肌は、夫である丹羽は生唾ものだろうとこっそり思っている。


でも、紘平はこの髪が好きだっていうし。


亜季のようにストレートでもないし、別段綺麗な髪質でもない。


トリートメントはかかさないし、下ろしていても綺麗に見える様に緩いパーマを当てているが、結局ひとつに結わえて終わる事の方が多い。


あまり気に入っていないこの髪を維持しているのは、結局”彼”のせいだ。


どこまでも自分を翻弄する夫の存在を、こういう時改めて思い知る。


なんだかんだ言って、紘平に愛される自分でいたいのだ。


どうしようもない位、女だな・・・


結婚してからの方が、そう実感することが増えた。


価値観が変わってきたのかもしれない。


許せなかった色んな事を、許容できるようになったということか。


他人と暮らす毎日の中で、少しずつ、樋口佳織を作っていく。


辻佳織だった過去の自分を消してしまうんじゃなく。


土台になっていた昔の自分を、発展させていく。


積み木みたいに重ねて、深みをましていく。


”変わってやる”っていう頭ごなしな強い意志ではなく。


”変わるのもいいな”と思える。


歳を取った。その分、変わっていく自分を認められるようになった。


誰かに左右される生き方を、数年前のあたしは、きっと許容できなかっただろうから。


結果オーライだ、うん。と小さく鏡の中の自分に頷く。


と、同時に廊下の向こうで声がした。


「佳織ー!お前の見てたドラマもう始まるぞ!」


週に2度は半身浴で、1時間程バスルームに籠る佳織に時間を知らせる紘平の声だ。


「はーい!すぐ戻るから!」


ドライヤーを切って、コードを巻き付けながら返事をする。


と、そこで忘れていた事を思い出した。


「あーっ!」


「なんだ!?どうした!?」


突然の妻の大声に仰天した紘平が飛んで来る。


勢いよく脱衣所のドアを開けた紘平を振り向いて、佳織が言った。


「冷蔵庫!」


「は!?」


「冷蔵庫に、葡萄冷やしてたのよ!」


「はあ?急に大声出すから、何かと思えば・・・葡萄だぁ?」


思い切り眉を顰めて紘平が呆れた顔をする。


そんな夫を押しのけて廊下に出た佳織は、髪をいつものようにゴムで纏めながら言い返す。


「なによその言い方はー。夕飯の準備でバタバタしてて忘れたの。いいわよ、あんたが食べないなら、私一人で食べるから」


「食わないとは言ってねぇだろ!」


「食べるのね?」


「食うよ」


「なら、冷蔵庫からお水と一緒に持ってきて」


もうすぐドラマ始まるし、と言って真っ直ぐ佳織がリビングへと向かう。


目的地はテレビ前のソファだ。


シリーズ化されて、映画にもなった人気の刑事ドラマを佳織は毎週欠かさず見ていた。


上手く使われる事になってしまった紘平が、顰め面のままで佳織の後ろ頭に手を伸ばす。


緩く纏められた髪を留めているゴムを引っ張った。


「あ、もう、邪魔だから解かないでよ」


振り向いた佳織が不満げに言った。


けれど紘平は取り上げたゴムを後ろ手に隠してしまう。


「いいだろ、どうせ寝る時解くんだ」


「テレビ見てる時が邪魔なの」


「ほら、いいから行けよ。もう始まる」


顎でリビングを示して、紘平が佳織の背中を押した。


尚も言い募ろうとした佳織が、時間を気にして渋々リビングへと入る。


テレビを見ているとき、紘平が髪を触ってくるのが気になるから纏めているのに。


と顔には書いてある。


が、勿論、紘平はそれを綺麗に無視した。


佳織の癒しのひとつであるテレビタイムを邪魔せず、自分も楽しむための方法がコレだ。


風呂上りも大抵髪を纏めてしまう妻の髪を解くのが、紘平の結婚してからの楽しみのひとつでもある。


ぶつくさ文句を言いながらも、佳織が好きにさせてくれるのは、紘平に気を許しているからだと分かっているから、それがさらに嬉しい。


トリックを暴くための推理タイムが始まると、鬱陶しがって佳織が手を払ってくることもあるが、懲りずに髪に触れていたら、そのうち諦めて、紘平の好きにさせてくれるようになった。


少しずつ、佳織の中身が自分寄りになっていく。


全部を塗り替える事は出来なくても、近づくことは出来る。


佳織が紘平に許せる場所が増えれば増えるだけ、それは信頼であり、安心になる。


佳織の為に、葡萄とミネラルウォーターを用意してソファに移動すると、彼女の視線はテレビにくぎ付けになっていた。


「ほら、水」


「ん、ありがと。葡萄、食べていいからね」


こちらを見向きもせずに言った佳織の腕を掴んで引き寄せる。


尚も佳織の視線はテレビから動かない。


紘平は風呂上がりのほんのり赤い頬にキスをする。


水を飲んだ佳織が、擽ったそうに身を捩った。


さて、どこまで許して貰えるのか?


妻の機嫌を伺いつつ、紘平は先ほど解いた佳織の髪に手を伸ばした。


かき上げた髪を手で押さえて、首筋に唇を寄せる。


反対の手で良く冷えた葡萄を摘まんで、佳織の口元に運んでやる。


唇に触れた冷たい感触に、佳織が驚いたように目を見張って、微笑んだ。


「ありがと」

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