第12話 鏡合わせの時間
佳織が彼に、自分の気持ちを伝えたとき。
彼がくれた言葉は
「ありがとう」
だった。
その意味を知ったのは、初めて朝を迎えた日。
自分のとった行動の重さと生まれた強い愛情と、寂しさと。
ごちゃまぜの気持ちを抱えていたのにやっぱり佳織は、彼の前では泣けなかった。
いつだって”綺麗な”自分でいたかった。
必死に背伸びした。
ヒールを履きならすみたいに、いつしか体になじんでいくと信じていた。
歩き方と同じように、生き方も。
でも、違った。
背伸びは、結局背伸びでしかなかったのだ。
頑張って、頑張って、疲れて、嫌になって、でもまだ好きで。
距離を理由に、逃げたのは自分。
あの関係に終止符を打てて、ほっとしたのは自分。
・・・弱かったのは、わたし・・・なんだ
☆★☆★
「佳織」
自販機の前で腕を掴まれた。
振り向くまでも無い。
相手は分かり切っている。
できれば、今、一番、会いたくない相手。
「お疲れ」
距離を取ろうとして、体を引くがそれも僅かなものだ。
先に腕を掴んだ彼は、やっぱりどこまでもこっちの行動を読んでいる。
「週末、ウチ来るよな?」
「・・・あのね・・」
しなくちゃいけないことがある。
自分の中で、けじめをつけなきゃいけないことがある。
中途半端に終わらせた恋の、最終決着。
もう一度、誰かを好きになるための。
”なにもなかった”
紘平はそう告げた。
すでに熟睡していた佳織を亜季から預かっただけ。
その言葉にほっとしたのはほかでもない自分。
肩の力を抜いた佳織を見つめて、紘平は言った。
”でも、あのとき、佳織の記憶があったら。どうなってたか、わかんねぇよ?”
”もしも、の話はいいの。無かったんだから、問題ないよ”
何もかも手つかずで、居心地のよい場所に逃げ込むわけにはいかないのだ。
きっぱり言った佳織を抱きしめて、彼は言った。
”・・・寝かせてやるんじゃなかった”
そんなこと言いながら、紘平がああ見えて誠実なことを佳織自身が誰よりも知ってる。
間違っても、酔って記憶を無くしてる相手をどうこうしようなんて思わないだろう。
この、彼の優しさに、昔の自分は縋ってしまった。
そして、土壇場で逃げた。
そのことを、今も謝れずにいる。
言いかけた佳織を制して、紘平が口を開いた。
「話なら、2人の時に聞く」
どうあっても、このまま逃がしてはくれないらしい。
ここで一瞬でも迷う視線を見せたら、すかさず付け入られることは分かっていた。
だから、強気を総動員して口を開く。
「・・・ちゃんと、整理させて」
「過去を?」
「・・・色々」
かぶせるように、紘平が言う。
「そんなことする必要ない」
揺れないで。
佳織は胸を押さえて必死に足を踏ん張る。
ここで流されるわけにはいかない。
どんなに心地よいか知っていていも。
「・・・私は、このままでいられないの」
「そのままでいいって言ってんのに?」
「・・・どうしてもダメなの」
これ以上、弱くなる魔法なら
ひとつだって欲しくはなかった。
それがどんなに甘くても。
溜め息を吐いた紘平が、一歩距離を詰めて、腰に腕を回した。
けれど、抱き寄せる事はせずにそのまま告げる。
「佳織・・・俺は、お前が選んだ答えなら、何があっても全力で、正解にしてやる」
「・・・っ」
「だから、お前が次にどの答えを差し出しても、俺は絶対に逃がしてやらない。安心しとけ」
「っ・・馬鹿・・」
★★★★★★
「来週ね・・・また日高さんこっちに来るのよ」
佳織の発言に目を剥いたのは亜季。
お昼時のカフェは混雑している。
ラジオの洋楽が、ざわめきに紛れて僅かしか聞こえない。
オープンサンドを飲み込んで、落ち着いた彼女がヨレた口紅をナプキンで拭う。
大きく2回瞬きしてから口を開いた。
「・・それって・・・会議よね?」
「もちろん。こないだから本社と関連会社行ったり来たりしてるの。忙しいの承知で、無理言って・・・夜に時間作って貰った」
「はあ!?なんでよ!?あんた・・また昔に戻るつもりなの!?」
表情を険しくした親友を見返して、佳織は首を振る。
亜季が心配してくれる気持ちは痛いほど分かる。
泣き崩れた佳織を、最初に抱きしめてくれたのはほかでもない彼女だったから。
「違うよ。先に・・・進むつもりなの・・・・」
「・・・それって・・・」
「今度こそ・・・ちゃんと紘平と向き合ってみようって思う。ウダウダ悩んで、迷って、でも、やっぱり私アイツと一緒に居たいの。こんな、私でもいいって、受け入れてくれるって、ずっと言い続けてくれた紘平の事、信じたい。そのためにも、私の過去はきちんとしなきゃ。・・・日高さんに、何も言えなかった。背伸びだけして、大人ぶってた弱い私じゃ、中途半端なままだから。だから・・・ちゃんと、あの人と会って話してくる。26歳で言えなかったこと、ちゃんと全部伝えてくる。それからでなきゃ・・・紘平のとこには行けないよ」
「・・・決めたのね?」
亜季が確かめるように訊き返す。
「・・・うん」
この答えに、もう迷いはなかった。
今度こそ、本物の恋がしたい。
不安も孤独も全部投げ捨てて、紘平に愛されたい。
幸せになるって、胸を張って言いたい。
「よかった・・うん、それが一番いいよ。うん、ほんっとに・・・佳織、よく決めた!あんたたち、すっごく似合ってるよ。佳織の隣には、あたしか樋口が一番しっくりくるのよ!口は悪いし、強引だし、あんたに関してはかなりしつこい男だけど・・・片意地張って、強がってばっかのあんたのこと、最後までちゃんと見ててくれるのは、やっぱり樋口だけだと思うよ」
まるで自分の事のように喜んだ亜季が、最後に口にした一言が、嬉しかった。
「・・・それと、亜季もね」
弱いとこも、強いとこも、みんな知ってくれてる。
どんな自分も見守って来てくれた、泣いて、笑って、悩んで、共に過ごしてきたかけがえのない人。
唯一無二の親友だ。
佳織の言葉に、亜季が笑って言った。
「誉めても何も出ないわよおー」
亜季らしい裏表のない笑顔に、これまで何度も救われてきたのだと、実感する。
こうして背中を押してくれる親友の為にも、絶対に、ちゃんと”最後”にしよう。
そう、思った。
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