第9話 それは夢か幻か
「山下さーん」
新作の打ち合わせから戻ったら、名前を呼ばれた。
書類の束と電卓にペン。
両手が塞がったままの状態で、電話片手に自分の姿を探す女子社員の呼びかけに答えた。
「はーい」
「営業部から内線入ってますー」
「げっ・・・まーた納期変更かなぁ・・・さっき工芸に文句言われたばっかなのに・・」
商品作成から納品までの工程処理を円滑に行うための部署に所属されているので仕方無いのだが。
それでも、こうも毎日納期の督促が重なると嫌になる。
忙しいのも、急ぎなのも承知はしているけれど・・・
何もかも要望通りというわけにはいかない。
溜息を吐きつつ、点滅している2番のボタンを押す。
「もしもしお電話かわりました」
「亜季ちゃん?」
受話器越しに聞こえてきた声に、眉根を寄せて亜季はゲッソリと答える。
「・・・気持ち悪いよ、樋口」
「お前酷くねえかぁ、なんちゅー言い草だよ。あれだな。ウチの代の連中の共通点は口の悪さだな」
ちっとも酷いと思っていない明るい口調で言われて、亜季は片手で抱えていた書類その他諸々を机に放り投げた。
「口悪くさせてんのはそっちでしょーが?んで、この忙しい時期に何のご用でしょうか」
売り言葉に買い言葉でいつも言い合いになるのは、佳織と紘平だ。
寂しいならこっちじゃなく、ストレートに佳織の所に行けばいいのに。
思わず口をついて出そうになった一言をぐっと飲み込む。
「佳織から何か訊いてるか?」
「・・・何って何を?」
質問し返すと、微妙な間の後で紘平が切り出した。
「頼みがあるんだけどな」
「・・・どのような?」
「あいつの話聞いてやってくれないか?」
「あのねえ・・・それはあんたの」
”仕事でしょ”
の言葉は出てこなかった。
正しく言えば、言わせて貰えなかった。
紘平が先に口を開いたからだ。
「俺じゃダメらしいわ」
「・・・・・なによそれ」
「言いたくないんでしょ、佳織が」
「・・・どしたのよ、急に」
★★★★★★
昼過ぎに内線電話が鳴ったと思ったら、受話器を取るなり。
「7時半に本社ビル前ね」
と一言。
きょとんとしている間に、亜季は電話を切ってしまった。
・・・いったいなんだって言うのか?
疑問に思う間もなく、次々回ってくる書類の処理に追われてしまう。
待ち合わせってことは、夕飯食べに行こうってことで。
まあ、会った時に訊けばいいかぁ・・・
お互い忙しいのは知っているから、簡潔に用件を済ませようと(簡潔すぎる気がするけど)したんだろう。
とにかく、7時半までに何とか今日の分の仕事の目途をつけなきゃならない。
すぐに気持ちを切り替えた佳織は、亜季のお誘いの裏に紘平の一言があったんなんて気付く由も無かった。
☆★☆★
「えーっとー・・・何食べる?あ、今日は日本酒やめときなさいよ。ここんとこ食欲無いらしいじゃない」
メニューを広げながら亜季にビシッと言われて、お絞りを持ち上げた佳織は動きを止めた。
「食欲無いっていうか・・え!?なんで知ってんの」
「決まってるでしょうが」
呆れ顔で言われて、佳織は思い浮かんだ紘平の顔に思わず頭を抱えたくなる。
「・・・要らんことしー・・・」
「心配してるんでしょうが。こういうとこの判断力はさすがだわよ。自分じゃダメだってのも瞬時に分かったみたいで、こっちに電話きたからさ」
「・・・なんで、こういうときばっかり気が利くのよぉっ・・・」
佳織が何かあったとき、頼れる相手が誰かってことを、佳織より知っている。
意地でも紘平を頼る訳にいかないことも。
佳織がとにかく必死で逃げたがってるってことも。
みんな知ってて、そのくせ、こうやって優しくする。
「・・・あんたのことずっと見てきたからでしょ」
頬杖をついて、亜季が言った。
頷くことも、否定することもできない。
”無かった事に”は不可能。
それは理解している。
でも、この状況を受け入れて整理できるほど、気持ちに余裕があるわけじゃないのだ。
「やっぱり、仕事になると・・・ダメだー・・」
割り切っても、割りきっても、甦る思い出。
あの人が、上司としての姿勢を崩さないことにホッとしながらも、切なくなる自分がいる。
どんどん、自分が惨めになる。
過去に振り回されてるのは、自分ひとりだって。
その現実に直面するたびに、泣きたくなる。
どっかで、道を間違えたのかな?
選ぶ未来を、とり違えたのかな?
なりたいと、望んだのは、こんな自分じゃなかったことだけは確かで。
今さら引き返せない。
立ち止まったり、振り返ったり出来ない。
でも、振り返らなくても、もう足もとまで忍び寄ってる記憶。
「終わってから3年、会わずに居れたことが奇跡だと思うわよ・・・正直」
亜季が苦い顔でビールを飲み干した。
黒糖梅酒を一口飲んで、佳織は頷く。
「うん・・・」
「・・ねえ・・・まだ、好きなの?」
こちらを窺うような彼女の視線。
いつもの勝気な瞳は、間接照明の柔らかい光に包まれて穏やかに揺れる。
小さく息を吸って、しっかり、首を振った。
「ううん・・・思い出して、しんどいだけ」
時折、潰れそうに心が痛むだけ。
焦がれているわけじゃない。
そんな気持ちは、とうの昔に捨ててしまった。
「・・・樋口・・・いいと思うけど?」
「そんな簡単に、戻れるわけないよ」
「でも、少なくともあの1年間は・・・付き合ってたわけでしょう?」
「・・・そう呼んでいいのか、わかんないよ」
曖昧で、おぼろげで、形のない12ヶ月間。
思えば、日高と佳織の関係に一番に気づいて、まっさきに止めたのも彼だった。
”先が見えない付き合いなんか、続けたってお前が傷つくだけだ”
誰も言えなかった、一番深いとこに突き刺さった一言。
あの頃から紘平は、物事をきちんと見ることができる人だった。
彼には見えていたのかもしれない。
2年後、恋が終わって、声を殺して泣く佳織の姿が。
食べたくないと言った佳織の前に、遠慮なく卵雑炊をよそった器を置いて、亜季は言った。
「どっちにしても、逃げも隠れも出来ない立場なんだから・・・もうこうなったら、新店オープンまで頑張って逃げ切るしかないよ。後、1か月だっけ?」
「うん・・・・」
「泣いても喚いてもいいけど、これだけは食べなさいよね」
「・・・泣いたって喚かないわよ」
「ならいいけど・・・」
れんげを手に取って、卵雑炊を一口。
なぜかぼやけて見える、濃紺の小鉢。
あれ・・・・なんでだろ?梅酒1杯しか飲んでないのに・・・
「んー・・・なんか美味しい」
「なんかってねェ・・・そりゃあ美味しいわよ。それだけは食べちゃいなさいよ」
「すいませんねェ、忙しいのに」
「本当よ。まあ、あんたがいつか結婚したら披露宴で話すネタにしてやるから」
「そりゃー・・・残念、結婚しないよ、私」
「・・・それは、今の気持ちでしょう」
「そうだけど、変わらないわよ」
だんだん口に運ぶのも面倒くさくなって、れんげを器に戻してしまう。
亜季は顔を顰めたけれど、何も言わなかった。
「私の意思は固いぞー岩をも砕くよ?」
「あんたより、強情な男がいるじゃない」
「そんな人いません」
「気付いてるから、見ない振りしてるのね」
「知らんしらーん!」
ぶんぶん首と手を振って、全否定。
ちゃんと眼は開けて、周りを見て日々生きてますし。
「・・・知りたくないんでしょ」
頬杖ついた亜季が、そう言って柔らかく笑った。
仕事で躓いて、お互い愚痴言いあって潰れるまで飲んだ翌朝。
重たい頭を抱えつつ目を覚ました亜季が、いつも見せるあの顔と同じ。
”でも、がんばろ”
言葉にしなくても、ちゃんと分かる。
佳織をちゃんと見ててくれる、あの、笑顔だ。
★★★★★★
「とにかくっ・・・それだけは全部食べて・・・え・・・・ちょ・・ちょっと!」
食事監督宜しく指示を飛ばすなり、目の前の親友の体が急に傾いて、亜季は慌てた。
立ち上がって、回りこむと同時に自分の方に倒れこんできた肩を抱きとめる。
「・・・佳織ぃ・・・どんだけ飲んでなかったのよ」
梅酒1杯で沈没なんて・・・ありえない。
カバンを置いてある壁側に、佳織の体を預けてから席に戻る。
金曜日の居酒屋は、人いきれを起こしそうなほどにぎわっている。
不景気なんて信じられない位、活気にあふれた店内。
テーブル席も、カウンター席も埋まっている。
平日はちらほら空席が目立つけれど、さすがに今日は満員御礼らしい。
半分残った2杯目のビールを一口飲んで、カバンを引き寄せる。
こうなったら、いつものように家に連れて帰るほかない。
店内を歩くスタッフに声をかけようとしたら、携帯のバイブ音が聴こえてきた。
仕事終わりと同時にサイレントを解除したよね?
ロッカールームを出る時の自分の行動を思い出しながら、亜季は視線を佳織の方に向けた。
・・・なんとなく、そんな予感がする・・
身を乗り出して、佳織の右腕持ちあげて、彼女のカバンを引っ張り出す。
中を覗くと、すぐにピカピカと着信を告げるランプが点滅しているのが見えた。
それを引っ張り出して、相手を確認。
「・・・・やっぱり」
呟いて、通話ボタンを押す。
「もしもしー?」
「あれ、亜季?・・・ってことはもしかして・・」
「そーよ。潰れた」
聴こえて来た紘平の声にかぶせるように続ける。
「潰れるまで飲ますなよなぁ・・」
「失礼ねえ・・・ちゃんとセーブさせたわよ。こっちだってまさか梅酒一杯で眠っちゃうとは思わなかったのよ・・」
「あちゃー・・・そんな弱ってんの?」
「そうみたい。明日も仕事だから、このままウチ泊めるわ」
「・・・悪いな」
「いつも強気なあんたにしては珍しい・・いいの?」
”私が連れて帰ってもいいの?”
返ってきた言葉は。
「頼むよ」
★★★★★★
「終わらせたから」
馴染みのバーで届いたばかりのアンバサダーを一口飲んで、あの日の佳織は言った。
マスターがシェイカーを振る仕草をじーっと見ていたから、隣にいた紘平がいったいどんな顔していたのか佳織には分からない。
それには答えず、紘平が切りだしたのは先週の水曜日のことだった。
「見送り行ったのか?」
「行かないワケにいかんでしょ」
「・・・・・・そっか」
納得したのかそうでないのかよく分からない、曖昧な声で告げられた。
もっと、色々言われると思ったのに。
例えば、ちゃんと別れて偉かった。とか。
きちんと話し合えたのか?とか。
何も言われなかったのが、腑に落ちなくて、佳織はちらりと紘平の横顔を窺う。
ジントニックのグラスを持ったままで、ぼんやりカウンターの奥を眺めていた彼が、視線に気づいてこちらを振り向いた。
「何か言いたそうだけどな?」
「・・・紘平こそ、なんか言いたいことあるんじゃないのー?」
「・・・・それなりには」
「何よ、言えば良いじゃない。聞くけど」
「そんな顔しといて、良く言うなぁ」
「・・・・はい?」
いたっていつも通りのつもりだったし、何も変わってないって思ってたから・・
怪訝な顔をした佳織をまっすぐに見て、紘平が右手を伸ばしてきた。
疑問に思う前に、彼の手に髪を撫でられる。
「辛かったな」
偉かったな。じゃ・・・なくて。
左耳から聞こえた声が、胸に落ちて広がった。
ずっと前から見えてた結果だったとしても。
自分で選んだことだとしても。
やっぱり、寂しくて、苦しかった。
それを、言えない自分がいた。
承知の上での恋だったから。
紘平の一言に、自分でも信じられない位素直に頷いてしまう。
「・・・・・・・・うん」
肯定したら、止まらなかった。
俯いたまま握った掌に零れた涙。
拭うこともできずに、佳織は何度も頷いた。
励ましでも、慰めでもなく。
今、一番欲しいのは、佳織を認めてくれる言葉だけだったから。
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