第7話 零せない本音
なーんで階段上ってんの?
帰るんじゃ無かったの?
ほっとけ、帰っちゃえ!忘れちゃえー!!
心の中でもう一人の自分が帰宅の旗を振る。
できるもんならそうしたいわよ!!
でも無理なの。そういうのは出来ない。
だって、あのバカのことだ。
いつまでも、こっちのこと待ちかねない。
誰かを待ちぼうけさせたまま、1人あったかい布団にもぐり込めるほど、図太い神経していない。
舌打ちしつつ、ヒールをふみ鳴らして待ち合わせ(ものすごく不本意ながら)の場所へ。
恋心?忘れました。
懐かしさ?そんなもん同期の誰しもに持ってます。
気安さ?相良や亜季と同じくらいには持ってます。
同じ会社に勤める同僚としての、社会人同士の大人のお付き合い。
そう自分に言い聞かせる。
もう、泣いたり、嘆いたり、悩んだり、しない。
見るのは前。行くのは明日。進むは未来。
それも、正しい未来だ。
二度と間違えたりしない。
守るべきはこの日常。
母と子の2人で、そこそこな余生を送るためにひたすら今は働くのみ。
自分の人生を、自分の足で歩く。
”お母さんは、女手一つを理由にして、逃げたりしないからね。お母さんとふたりで良かったって、絶対佳織に思わせてみせる。だから、一緒に頑張ろう”
どうして父親がいないのか。
そう問いかけた4歳の佳織の手を握って、母が言った言葉だ。
佳織の胸の真ん中に、いつだってある、強い記憶。
母にとって、胸を張れる子供であろうと決めたのはいつだったか。
出来ないなんて言えなかった。
自分の幸せは、この人の幸せにまっすぐに続いている。
だから、2度と裏切れない。
同じ理由で、泣くなんて、絶対あってはいけないのだ。
だから、恋は、しない。
★★★★★★
古びた木製のドアを開けると、多恵の深みのある声に包まれた。
今日は喉の調子が良いらしい。
絶妙のタイミングで入ったピアノの伴奏に拍手が起こる。
小さいステージで、のびのび歌う彼女を見るたび、思う。
多恵にとっての歌。
それは、自分の全部で表現したい、生きがい。
なら、私にとっての歌はなんだろう?
自分の全部で成し遂げたいこと。
一番に浮かんだのは、やっぱり母親のこと。
でも、それは娘としての当然の義務なのだ。
そうするのが当たり前。
ここまで育てて貰った、同じだけの時間をかけて、私はあの人を守っていく。
生まれた時から決まっていること。
・・・じゃあ、何が生きがいになるんだろう?
曲が変わる数十秒の間に、多恵に視線で挨拶をしてから店内へ。
馴染みのカウンターの席で、とりあえず、ビール片手にポテトを摘む。
夕方に部署のみんなでおやつを食べたから、めちゃくちゃ何か食べたいわけでもない。
時計を見ると8時半過ぎ。
誘っておいて、人待たせるってどゆこと?
大人の男としてどーなのよ?
あ・・違うか、もっと仕事してから来たら良かったんだ。
わざわざ8時前でキリ上げずに、溜まってた書類片付けてきたら良かった・・・別に楽しみでも何でもないのに・・・
いや、飲むのは楽しいよ?多恵の歌も聴きたい。
でも、ひとりだって構わない。
そう・・・早足でやってくる必要なんてなかったのだ。
佳織は、一言だって”行くからね”なんて言って無い。
約束なんて、していないのだ。
・・・なのに・・・ロッカーで無意識に化粧を直してグロスを塗って、会社を出た。
時計を見ながら早足でここまでやってきた。
・・これは・・・突きつめれば・・・どこに行くの?
ぼんやり浮かんだ見たくない言葉に目を伏せる。
考えるのは、やめた方がいいのだ。
★★★★★★
カウンターの馴染みの席で、マスターと話し込んでいる佳織を発見した。
予想通りの展開に思わずほくそ笑む。
ああ見えて佳織はかなり義理がたいし、情に脆い。
下の人間は意地でも守ろうとするし、筋道の通らないことが大嫌いなので、間違っていると思えば上司にでも意見する。
口約束でも必ず守るし、側にいる人間を無碍に出来ない。
見た目通りの部分と、真逆の部分がある。
ハタから見るとアンバランスで仕方無い。
上手く折り合わない気持ちが彼女の中に透けて見える時がある。
だから、離れられないと思った。
今日、ここに佳織が来るかどうかは、ちょっとした賭けだったのだけれど。
まだあきらめなくて済みそうだ。
彼女の中に秘める気持ちに触れる場所には入り込めないけれど。
「来てると思ったよ」
カウンターの椅子を引くと同時に、佳織がこちらを見て言った。
「その言い方がムカつく」
「だってお前、人待つのも待たせるのも嫌いだし」
さも当然とばかりに言ってやると、佳織が眉根を寄せてビールを飲んだ。
久々に会うマスターが、懐かしそうに目元を細める。
と同時にマイク越しに多恵の声がした。
「あっ樋口さん!」
「おーご無沙汰ぁ」
ひらひら手を振ってやると、人見知りな彼女が珍しく柔らかい笑みを浮かべた。
「常連さんの久々のご来店に、懐かしい曲やっちゃいますー」
佳織とこの店で待ち合わせるのが日課みたいになっていた頃。
俺がよく彼女にリクエストした曲が流れる。
なんとなく雰囲気が変わったかな?
絋平の視線を追っていた佳織が、グラスをカウンターに戻してから言った。
「こないだ婚約したのよ。あの子」
「へえ・・・あの例の?」
マスターがビールを出しながら頷く。
「そう。幼馴染の彼とね」
「纏まるとこに纏まったってワケか」
「正直、ホッとしたよ」
彼女の兄とも仲の良いマスターは、色々と気をもんでいたらしい。
「でも、幸せになってくれてよかった・・」
まるで自分のことのように呟く佳織。
そんな彼女をチラリと見て、マスターが絋平に気遣わしげな視線を寄越す。
「ようやくこっちに戻って来れたんだって?博多はどうだった?」
「んー・・美味いもん多いよ。ラーメン然り、明太子然り、あ、酒も美味いしね」
「なにそれ・・・食べもんばっか」
呆れた顔で言って佳織が笑う。
「博多美人はいなかったのか?」
小さく笑ってマスターが問いかけた。
「気立ての良い博多美人は沢山いた。でも、ほら。俺の好みコレだから」
「・・・んなっ・・・」
ぎょっとなって佳織が目を剥く。
けれど、知ったこっちゃ無い。
マスターは絋平の気持ちなんてとっくの昔から知ってる。
「紘平は相変わらずだなぁ」
「もう変わりようがねーよ」
肩をすくめて見せる。
考え方も、性格も、佳織に対する気持ちも。
離れた分だけ、思い知ったから。
予想以上に、自分が佳織に焦がれていたことを。
だから、抱きしめられる距離にいるにも関わらず、その手すら繋げない状態なのに。
いまだこの場所にこだわっているのだ。
「振り回されるのはもう沢山」
ピシャリと言って、マスターに2杯目のビールを頼んだ後で席を立つ佳織。
1人になった絋平は、頬杖をついてマスターに問いかける。
「・・・佳織さぁ。この店に他の男連れてきた?」
「いや・・来ないよ。来るわけないだろう・・・」
その言葉にホッと胸をなでおろす。
この店を最初に教えたのは絋平だったのだ。
「あ・・・そういやまだ言って無かったな。おかえり、打たれ強い紘平くん」
「・・・・マスター・・それってイヤミ?」
「励ましだよ・・・・辛抱強いのもいいけど・・・・いつまで待つつもりなんだ?」
嘆息交じりで言われて、絋平は自信を持って答える。
「今度こそ・・・佳織が手ェ伸ばして来るまで」
「・・・転勤が決まった時点で諦めるのかと思ったよ」
「そう出来たら楽だったんだけどさぁ・・・なんだろ・・俺にとって佳織は実はめちゃくちゃデカイ存在だったらしーわ・・」
「あの時の約束はまだ反故になってないよ」
穏やかな口調で告げられて目を伏せる。
佳織がくたくたになってまで追いかけようとした恋を終わらせて、初めてやっと泣いた夜。
クローズの札が掛かった店内で、カウンターに倒れ込むように眠ってしまった佳織の隣で、マスターに向かって呟いた言葉。
ステージのライトは落とされて、間接照明も半分は消えていた。
薄暗い店内の、オレンジの僅かな明かりに照らされた泣きはらした頬をそっと撫でて。
「マスター・・・俺、佳織が思いっきり笑って一緒に過ごせる相手になるよ。佳織が、ちゃんと弱いとこ見せて、手を伸ばして甘えられるような男になる」
閉店準備をしながら、二人のことを黙って放っておいてくれたマスターが、穏やかに微笑んだ。
「・・・約束ってことだろ?覚えといてやるよ」
彼の言葉に頷いて、改めて思った。
佳織はどんな些細な約束も守ろうとするから。
言葉にしたなら、必ずやり遂げなくてはいけない。
そうしなければ、佳織のそばにいる資格はない。
それでも、この距離にいられるならば、それは不可能ではないような気がしていた。
少なくとも、ここにいる佳織は、会社で見せるしっかり者で完璧主義な彼女ではなかったから。
僅かに見えた、もろい部分を繋ぎ合せて行けば、いつか、彼女が抱える不安や寂しさも和らげてやれると。
そう、信じていたのだ。
多恵と笑いながら話をする佳織を見ながら、マスターがグラスを戻した。
「・・・待つのは、しんどいぞー?」
噛みしめるような彼の一言。
「覚悟のうえ。あの時、待ってやれなかった分、今度はちゃんと佳織の気持ちを優先させたいし」
「・・・あの日、潰して、強引に連れて帰ったこと、後悔してるのか?」
「いーや。それは無い。ああでもしなきゃ、俺のもんになんなかったし」
目が覚めた時の、佳織の取り乱しようといったらなかったが。
あれがあったから、異動までの短い時間を、曖昧でも一緒に過ごせたのだ。
でなかったから、常識とか、良識とか、順序とかいった固定観念でがっちがちに固められた佳織は、一生かかっても絋平の手の中には落ちてこない。
良心は傷んでも、欲しいものの前には後悔は皆無。
「なんでだろうなぁ・・・?お前ら見てると不思議で仕方無いよ。どっちも欲しいものは一緒なのに、なんで転がってか無いんだ?」
「・・・・せき止めてる、でっかい石があるんだよ」
昔の絋平がどうしても越えられなかったもの。
佳織の中に大きく根付いて、彼女の気持ちの出口を塞いでしまっているもの。
それは、終わった恋の影なのかもしれないし、
残った大きな傷なのかもしれない。
「ふーん・・・なら、割ろうとしないことだな」
「え?」
「無理やり壊したら、中に溜まってる苦い記憶が出て来るんだろ?なら、押して転がしてしまうことだ。それも一緒に持ってく自信あるのか?」
佳織の中にある、記憶も一緒に。
初めて腕の中に彼女を抱き寄せた瞬間、予想以上に華奢で驚いたっけ。
どれだけ虚勢を張って、これまで生きて来たのか一瞬で分かってしまった。
だから、余計愛しくなったんだ。
「・・・・あの日から、ずっとあるよ」
「なら、大丈夫だ」
頷いて、マスターが席を離れる。
と同時に佳織が戻ってきた。
流れ出した、絋平の好きな曲。
「・・・帰って来た同僚への、餞よ」
どうやら多恵にリクエストしたらしい。
同僚、の言葉をやたらめったら強調されたことは目を瞑ることにする。
絋平は笑って、グラスを持ち上げた。
「なら、ちゃんと言えよ」
意味を理解した佳織が呆れたみたいに笑ってグラスを鳴らす。
「おかえり」
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