第14話 潜入と再会

「出ない……出ないぞ……アイツ、どこで何やってるんだ?」

 速足で路地を歩きながらORCAシステムで御影を呼び出すアルだったが、いくら呼び出しても応答は無かった。ORCAシステムが感情を読み取り、「焦った表情」を彼の公共アバターに与える。

 失敗した。なぜそもそも外出を許してしまったんだ?。アイツが、明らかに参っているように見えたからか?いや、無制限に使える公共アバターを見てみたいという自分の好奇心か?それとも、そのどちらもか……?

 俺は知りたかっただけなんだ。この世界を支配するシステムの謎を。だから、あの人に従った。何かが分かるはずだった。別に、イルカが世界を支配しようと、人間が支配しようと、共存しようと、興味はない。俺は知りたかっただけなのに。

 その時、視界に着信を告げるウィンドウが現れた。御影からの連絡かと思ったが、表示されていた名前は、今一番話したくない相手だった。

「ムロメさんか……」

 無視するわけにもいかず、アルは立ち止まって着信に応答した。

「はい。」

「ウィムアルゼムィンスェ君……浦幌御影は今どうしている?」

 落ち着いた、だが安心感よりは威圧感を感じる声が、まさに今訊かれたくないことを尋ねる。

 アルは御影と外出し、しかも見失ったことをこの「支援者」にまだ話していなかった。返答に窮するアルに対し、何かを感じ取ったのか、「支援者」がまた口を開く。

「何か、私の支援が必要な状況ではないのかね?」

 見られてはいないはずだった。知らないはずだ。

「いえ……そんなことは……ありません。」

「そうか。」

「はい、何の問題もありません。予定通り、今夜ミカゲを迎えに来てください。」

「私は、君のことを評価している。」

「……はい。」

「だから君に色々な物を貸し出した。そして君は見事に私が求めていたものを確保してくれたね。大変なお手柄だ。やがて君が知りたいと思っている事が分かるだろう。私たちが知っている事、私たちもまだ知らない事だって。」

「ええ、感謝しています。いつも、あり――」

「では、ちゃんと自分の仕事には責任を持ってくれたまえ。最後まで。」

「……ええ。もちろんです。」

「では、今夜、迎えに行くのを楽しみにしているよ。9時だ。」

「わかりました。」

 そうして、「支援者」からの通信は途切れた。タイムリミットは午後9時、そして今は、もう午後3時を回っていた。


 帰り着いた秘密基地の入口の前で、アルはユリネに連絡した。呼び出しの音がもどかしい。幸い、今回はユリネは気付いてくれたようで、すぐに通信が繋がった。

「ユリネ、俺だ。開けてくれ。」

 扉が開いていくが、アルにはその速度がいつもより遅く感じられた。この扉がゆっくりと開いていく時間は、自分の理想の秘密基地を手に入れた事の満足感を感じられる時間だった、普段なら。

 だが、状況はそんな遊び気分を許さなくなってきている。

 俺は何に首を突っ込んでしまったんだ?俺は責任を取れるだろうか?アルはバンダナの頭を抱えた。

 開いた入口をくぐると、ブン、という音とともに姿はスマートなホビーアバターの姿に変わる。だが、眉間に寄ったシワは姿は変わってもそのままだった。早足で階段をかけ降り、廊下の突き当りの扉まで走る。金属の扉を開けると、ウィリーとユリネの二人が、少し不安そうな顔でこちらを見つめていた。

 手に抱えていた、さっき買ったばかりのポッドの部品が入った袋を机の上にドンと置いた。

「おかえり。先輩はやっぱりいないの?まさか昨日の奴らに?」

「わからん。俺が迂闊だった……」

 いつも余裕のある男を演じているような幼馴染から漂う気配に、ウィリーも深刻さを感じ取る。重い空気を無理やりはねのけようとしたのか、わざとらしい笑みを浮かべてアルが言った。

「まま、だが、すぐに見つけるさ。俺はスーパーハッカーになる男だからな。ユリネ!」

「市中センサー。」

「ああ、そうだ。さすがだな。ID特定は出来なくても、俺と一緒にいた場所から辿ればどこに行ったか分かるはずだ。」

「……どういうこと?」

「ORCAシステムの公共エリアでアバターを正確に表示するため、街中にはセンサーが配置されているのは知っているだろう?それでミカゲの場所を見つける。」

「うん、それは知ってるよ。私、ORCAシステム管理局職員なんだからね。でも一般の人が見られるものじゃないよ。」

「あたりまえだ。だから、ハッキングするんだろ。」

 人間やイルカの本当の姿に重ねて正確な位置に公共アバターを表示するためには、空間上のどの位置に対象がいるのかをシステムが知る必要がある。そのため、この時代の街中には多数のカメラやセンサーが配置されており、その管轄はORCAシステム管理局になっていた。

「本気?出来るの?」

「やったことは無いが……」

 アルはユリネの方をちらっと見た。

「管理局のセンサーデータ管理はORCAシステムとは別。セキュリティレベルは比較的低い。」

「じゃあ、何とかなるな、きっと。仮想世界内のバーチャルオフィスに潜入して、そこから直接、市中センサーのデータにアクセスしよう。外部からアクセスするより確実だし、本物の管理局に侵入するより楽だ。ユリネ、出来るな?」

「オフコース。」

 もちろん、と答えたユリネは無表情に親指をぐっと立てた。

「え、ユリネちゃんが行くの?」

「俺は仮想世界には入らず、指示を出しながら、ミカゲの場所が分かったらすぐそこに行く。本当はお前がいれば荒事になったら強いんだが、今は動けないしな。ポッドを修理している時間もない。」

 アルはウィリーのポッドから伸びるケーブルをちらっと見て言った。

「わかった。じゃあ、私はユリネちゃんと一緒にバーチャルオフィスに行くよ。私の職場だし、ハッキングはできないけど、力になれると思う。早く先輩を見つけなきゃだからね。」

 バーチャルオフィスは、その名の通り仮想世界内に作られたオフィスだ。規模は様々だが、ORCAシステム管理局のような公的機関や大企業では、現実の高層ビル一棟分ほどの規模のバーチャルオフィスを現実世界のオフィスとは別に構えていた。今は現実世界のオフィスに出社して仕事するのが「流行り」ではあったが、業務内容に応じてバーチャルオフィスも併用されている。

「……そうか、じゃあ頼む。侵入はユリネに任せておけば問題ないが、道案内がいたほうがスムーズだかろう。」

「さあ、迷子の先輩を探しに行こう!」

 仮想世界へ入る準備をてきぱきと始めたユリネとウィリー。見つかるのが生きているミカゲなら良いが……アルは喉元まで出ていたその言葉を飲み込んだ。


                  ◆ ◆


 一方その頃、御影はまだ生きており、病院の階段の踊り場でガラスに映る自分の姿に見とれていた。

「美しい……」

 どの角度から見ても破綻しないバランスの顔立ち、自然な大きさの胸から腰、臀部から足へと繋がるラインは、まさにこれしかない、という線で繋がる。どの方向に1mmずれても印象が変わる世界で、優雅に、正確に、力強く、美を選び取っていた。整っていると一言で言ってしまうのは簡単だが、そこには数値で表せない美と、造形の強さが生み出す凄みがあった。これが一流の作家が生み出す造形物。シロキさんが作ってくれた公共アバターは、完璧だった。

 天然の遺伝子が生み出す芸術にはまだ及ばない、とシロキさんは言ったが、美術の授業など受けたことの記憶すら怪しい僕ですら、美しいという感情が想起される、見事な物だった。

 アバターの印象にマッチした、少し低めの大人っぽい声もシロキさんのチューニングだ。脳に直接情報を上書きするORCAシステムのおかげで、骨を伝わってくる僕の肉声も含めて、今は完全に女性の声になっている。

 人類を守るためと言って、親子で得体の知れない実験をしていた謎の存在のシロキさんだったが、表の顔のデザイナーとしての才能は本物だった。

「しかし、こんな美人の姿で潜入したら、逆に目立つんじゃ?」

 僕はシロキさんに協力し、あることをするために、生まれて初めての女装をする羽目になっていた。路地裏でのやり取りを思い出す。

 

 シロキさんが僕に協力してほしいこと、それは、鹿追士郎――シロキさんの父親であり、僕を治療した医師――の病院の個室から、コードVに関わる資料を回収してくること、だった。

「父は、情報を紙で保管していた。君にも組み込んだ遺伝子配列のデータが、病院の自室に保管されている。それを回収してきてほしい。あえて電子的な情報のコピーは作っていない。絶対に回収しなければいけない。共存派や、イルカ中心主義者の手に渡る前に。」

「なぜ、僕ではないと出来ないんですか?」

「ふむ……私は一応有名人だから、目立つ。父の正体がバレた以上、私も警戒されている。君は公共アバター制限が無いから、私が変装用のアバターを作れば、怪しまれず侵入出来る。看護師になりすますんだ。」

「……本当に変装用のアバターを作るんですね。ただの口実だと思ってました。というか、あなたがアバターデザイナーだというのは本当なんですね。」

「おや?私は人類が本当に好きだから、人間の心の事もよくわかる。だから美しい人間のアバターが作れるんだよ。」

 そう言うシロキさんの顔は、今まで見たことのない優しい、だがどこかゾッとするような表情をしていた。

「さて、早速作業を始めよう。ここに、MR複合現実ワークスペースを展開する。」

 シロキさんは足元に置いてあった少し大き目のスーツケースのような物を手に取り、路地裏のスペースの真ん中に移動させ、何やらスイッチを押した。すると、そこを中心に光が広がり、半径2m程の白い円柱が出現した。

「この中に入った者だけの、ローカルで安定した接続が確立され、他人に邪魔されない。私は仕事を他人に見られたくないタイプだし、作業に集中したいから、良く使う。特注品さ。」

 そう言うと、シロキさんはその円柱の中に歩いて入っていった。外からは中の様子は見えない。恐る恐る僕が円柱の中に首を突っ込むと、中にはちゃんとシロキさんがいた。

「時間が無い。入って、私からの公共アバター設定へのアクセスを許可してくれ。」

 円柱はもちろん物理的には存在しておらず、ORCAシステムが視覚情報に上書きした存在だ。何の抵抗もなく、僕は円柱の壁をすり抜ける。内側からだと円柱は半透明で、外が透けて見えた。

「さて、今の君の状況を考慮し、ワークスペースの外観をステルスモードに変更する……これで、外からはこの空間には何もないように見える。昔のマンガの光学迷彩のような感じだね。屋外で使うと違法だ、本当は。だが、その方が安心だろう、君も。あと、通信も遮断する。私が集中出来ないからね。」

 僕は無言で頷いた。

 そうして作業を始めたシロキさんは、数時間で信じられないほど美しい公共アバターを生み出した。その間、アルが僕に何度も連絡をしようとしていたが、偶然か意図的か、シロキさんのMR複合現実ワークスペースがすべて通信を遮断していたため、僕が気付くことは無かった。

 そして、僕は完成したそのアバターを纏い、先日自分が退院したばかりの病院に、偽看護師として潜入しようとしていたのだ。


 鏡に映る自分の姿を見ながら、僕は黒い艶のあるミドルショートの髪の毛をサラリとかき上げてみる。ここまで美しい姿を自分で纏っていると、この姿にふさわしい動きをしないといけないような気になってくる。

『御影君。男性が女性アバターを使う時は、意識して脚を閉じたほうが良い。差が出やすいんだ、一番。』

 通信越しにシロキさんのアドバイスが聞こえ、僕は慌てて姿勢を直す。

『ふむ……しかし病院内でもアバターは強制解除されなかったね。レイヤー3権限はほぼ完璧に近い形で有効になっているようだ。』

 いくつかの特殊な施設の中では、公共アバターもホビーアバターも自動で解除されることになっている。病院もその一つで、緊急搬送時の誤診防止、医療スタッフの種族の明確化などが理由だという。この時代、知性イルカも医師免許を取って医者になれるが、異なる種族の患者に対する医療行為は原則禁止されていた。確かに、人間より優秀だとしても、イルカに治療してもらうのは抵抗がある。

『さあ、父の部屋に向かおうか。そのアバターはあげるから、後で好きなだけ眺めたり、したいことをすれば良い。』

「う……はい、そうですね……」

 僕はなんだか恥ずかしくなって、速足で階段を上がった。鹿追医師の部屋は3階にあった。病院の入口からここまでは、特に誰にも見とがめられる事も無く、順調だった。

 体を動かしていると血行が良くなるのか、不思議と気持ちが冷静になって少し頭が回るようになる。

 僕は、なんでこんなことをしているんだろう。協力すれば紗由に会えるかも知れない、シロキさんはそう言った。だが、紗由とシロキさんになんの関係があるというのか?僕は自分で決断しているつもりで、流されてばかりなのではないか?僕の精神的疲労と、コードVの秘密を聞いた動揺の隙をついて、まんまと誘導されているのではないか……?

 だが、動き出した事態はもう止められない。今、シロキさんから逃げ出しても、どんな顔で秘密基地に戻れば良い?それにシロキさんの言うことが本当だったら?という思いを捨てきれない。人間の僕が信じるべきは、やはり人間なんじゃないか?

 そんな事を考えながら3階の廊下を途中まで歩いたところで、廊下の壁に寄りかかっている見覚えのあるイルカに気が付いた。ポッドの水槽の中で、手持無沙汰にプカプカと浮いているシルエットが見える。記憶を辿るが、思い出せないまま近づくと、そのイルカが話しかけてきた。

「ちょっとそこのアナタ、ここから先は行っちゃダメだよ。」

「えっ?」

 その時、僕はそのイルカとどこで会ったのか思い出した。退院の翌日にウィリーと病院を尋ねた時に、受付の後ろにいたイルカだ。そういえば、コードという言葉に反応していた気がする。

『ごまかすんだ。』

 通信で、シロキさんからの指示が飛ぶ。ごまかせと言われても……色仕掛け、は相手がイルカじゃ無理だろう。だが、受付にいたこのイルカは確か……

「ええと、受付の『先輩』があなたに用があるって、呼んでましたよ。」

 僕はこのイルカが窓口で「新人さん」と言われていたことを思い出し、口から出まかせを言ってみた。

「えっ、でも私はここにいないといけないので……」

「いえ、緊急と言ってました。至急だそうです。」

 僕が少し食い気味に答えると、イルカは少し考えた後、しぶしぶという感じで受付に向かって歩き出した。

「あの先輩、結構うるさいんだよ。無視すると後が面倒だし……あ、そうだ、ここから先には行かないでくださいね!」

「ええ、わかりました。」

 僕は横髪をかき上げながら、にっこりと微笑んだ。去っていくイルカのポッドの機械音が聞こえなくなったあたりで、シロキさんが言った。

『ふむ……興味深いね、君の変化は。さて、この先には父の部屋しかない。気を付けるんだ。先客がいそうだ、この様子だと。』

「先客……」

 上手くごまかせたことに安堵していた僕だったが、また不安になってきた。友好的な先客である可能性は低いだろう。見張りのイルカが完全に見えなくなったのを確認し先に進むと、鹿追医師の部屋はすぐに見つかった。入口に、「鹿追士郎」というネームプレートがかかっている。ドアノブを回すと、鍵はかかっておらず、カチャリと音を立てて扉がゆっくり動いた。シロキさんからスペアキーを受け取っていたが、必要なかったようだ。そっと扉を開き、僕は室内を覗く。

 窓を後ろにして、部屋の中央に大きな木製のデスクと、座り心地の良さそうなひじ掛けの付いた革張りのチェアが鎮座している。窓のブラインドは半分ほど閉じられており、室内は薄暗かった。壁際にはグレーのスチールの棚が並び、その中にはファイリングされた書類が詰め込まれている。デスクの上にもファイルやバラバラの書類が積み重なり、今にも崩れそうだ。そして、デスクに腰掛け、ファイルをけだるそうに眺めている人物がいた。室内にいるのはこの一人だけのようだ。

 開いた扉に気が付き、振り向いたその顔を見た僕は、思わず息を飲んだ。

「ん、なんだお前?誰も入れるなって言っておいたんだが。」

 そこにいたのは、ウィリーの家の庭で対峙した、あの無精ひげの男だった。

 真新しい炎の記憶を思い出し、心臓の鼓動が早くなるのを感じる。

「悪いが、出て行ってくれねぇかな。仕事中だ。」

 なぜ、よりによってこいつが……聞いてない。一度部屋を出てシロキさんに指示を仰ごうか?だが、その後にまた入ってくるのも不自然だ。すると、シロキさんが通信越しに言った。

『ふむ……共存派の人間だ、おそらく。であれば……ORCAシステム管理局の人間を装うんだ。』

 なぜ、今変装している病院関係者ではなく、管理局なのか?疑問はあったが、声を出してシロキさんに問いかけるわけにも、いつまでも無精ひげの男の前で無言でいるわけにもいかない。そうこうしているうちに、こちらを見つめる男の目が鋭くなる。

「おい!出て行け、って言ったのが聞こえなかったのか?」

 選択している時間は無かった。僕は笑顔を作り、口を開いた。

「ええと、私、管理局の方から来ました。」

「あん?」

 男が訝しげな視線で僕を睨んだ。

「ああ、なんだ、仲間か。人間も病院に入り込ませたとは聞いてねぇが……しかし、なかなかの……」

 男の視線が僕の顔から下方向に下がり、胸のあたりで少し止まって、さらに下に移動し、スカートから覗く足のあたりでまた止まった。他人にそういう見られ方をしたのはもちろん初めてだったので、変な気持ちだった。男の目の鋭さはすっかり無くなり、口元が少し緩んでいた。

「え、ええ、そうなんです。お手伝いをするように言われてます。」

 なるべく自然な笑顔で答える。

「おう、じゃあ、この書類の束をまとめて持ち出すのをやってくれ。……ここは部屋ごと燃やすわけにもいかねぇし。」

 最後のセリフに思わずびくっとしてしまう。だが、男には特に気付かれなかったようだ。

『上手くやり過ごして、隙を見て、目当ての書類を回収するんだ。今の君なら出来る。』

 通信越しのシロキさんはずいぶんと簡単に言ってくれるが、僕は演劇の経験も、女装の経験もないのだ。確かにこの公共アバターは今のところバレる気配は無いけど、いつボロが出るか。そして、もし正体がバレたら、この男はウィリーの家でやり損ねた事を実行するだろう。つまり命が危ない……嫌な汗が出てきて、僕は今の自分の姿を忘れ、首元のボタンを外す。

「しっかし、今時こんなに紙で印刷しやがって、なぁ?」

 男が机の上の紙束を一つ、乱暴に床の上に放り投げた。書類が床に散らばる。

「おっと、ちゃんと、拾ってまとめておけよ。」

「書類をまとめれば良いんですね。」

「ああ、拾って、箱にまとめてくれ。棚のファイルも全部だぞ。後で俺の車に積み込む。」

 男が床に放り投げた書類を拾おうとして、自分が他人からは看護師に見えていることを思い出し、スカートの裾を気にしながら慎重にかがんだ。

 ちらっと男の方を見ると、机の上に腰掛けながらこちらを見ていた。すぐに男は視線をそらしたが、どうも胸元に視線が行っていたような気がした。

 こいつ、わざと床に紙束を放り投げたな。

 嫌悪感を抑え、僕は無言で床に広がった書類を拾う。通信越しに、シロキさんが話しかけてきた。

『そんなに緊張しなくても、病院でアバターを纏っている事を想定するやつはいない。絶対にありえないことだからね、普通は。』

 拾いながら、書類の中身を確認してみる。書きかけの論文や仕事に関わるデータを印刷したもののようだった。所々に鹿追医師の物と見られる書き込みがあった。内容は大半が英語で、パッと見ただけでは意味はわからなかった。じっくりと拾った書類を読んでいるのも不自然なので、拾い終わった僕は立ち上がり、床に置いてあった段ボールにその書類を入れた。

 作業をする僕を見るのにも飽きたのか、男は窓際で煙草に火をつけていた。病院内は禁煙のはずだが。

 シロキさんが言う。

『隙が出来るのを待つんだ。一人になれればなお良い。重要な書類は隠してある。書類をたくさん置いてあるのはわざとだ。木を隠すなら森、ということだね。』

 その時、どうやら無精ひげの男に通信が入ったようで、誰かと話し出した。

「お、IDの使用を検知したか。イルカの方?……で?管理局のバーチャルオフィス?なんでそんな所に?クローラーは向かってるんだろうな?」

「どうしたんですかぁ?」

 僕が意識して甘ったるい声で尋ねると、男はめんどくさそうな顔をしながら言った。

「おい、人の仕事にあまり首を突っ込むな。俺は、ちょっくら用事が出来ちまったから、戻るまでにこの部屋の書類をまとめておけ。」

 男は部屋の扉に向かって歩き出した。どうやら上手く一人きりになれそうだ。しかし少し気になる内容の通信だった……そう思っていると、男が立ち止まってパッと振り返り、笑みを浮かべながら言った。

「おお、そうだ。新人、名前は?」

 マズイ、油断していた僕は頭が真っ白になる。

「え、えっと……」

「あん?」

「みか…ミカコです。」

「……ずいぶん古臭い……いや、古風な名前だな。俺の名前は旭、だ。よろしくな。」

 ウィリーの家の庭で僕と対峙した時とはまったく違う、無邪気とも言える笑顔で男――旭が言った。

 冷酷な殺人者であろうこの男も、美人の前ではこんな顔をするのか。僕は複雑な気分に、それこそ、一瞬だけ申し訳なくすらなった。

 無精ひげの男こと旭が部屋を出ていったのを確認し、僕は大きなため息をついた。

「はぁー、疲れた。」

『ふむ……運が良かったね。』

「シロキさん、アイツがいるなんて聞いてないですよ。アイツは僕たちを襲った奴の一味です。」

『やはり襲撃は共存派か。しかし、旭……旭若太。ハルポクラテスだったな。荒事にはちょうど良い人選だが。』

「知ってるんですか?」

『有名だ、ある界隈では。そんなことより、デスクの二段目の引き出しを開けるんだ。二重底になっている。』

 疑問は尽きないが、旭がいつ帰ってくるかわからない。僕は言われた通りに机の引き出しを開けて、隠されたスペースに収められていた一冊のファイルを取り出した。見出しに小さな文字で書かれた文字を読む。

「これかな?『インテルフィン配列』?」

『それだ。さあ、脱出するんだ、早く。』

 頷いて部屋を出ようとして、机の上に雑多に置いてあったファイルに見慣れた文字列を見つけ、立ち止まった。

 そこには「浦幌 御影」と、自分の名前が書いてあるファイルがあった。名前の上には「被検体13号」とも書かれている。少し不快に感じたが、このファイルに僕の情報が書いてあるのなら、家族や知り合い—―つまり紗由の事も書かれていないだろうか?という思いがよぎった。

 だが、自分のファイルを手に取ろうとした僕は、視界の隅に映った別のファイルに違和感を感じ、手を止めた。

 そのファイルに書かれていたのは「被検体10号 百合音」と言う文字。

 百合音……ユリネ?

 被検体10号?

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