第31話

 部屋の中央には優衣の背丈よりも大きな、血の色をした水晶があり、禍々しい光を放っていた。

 そこには様々な紋様が浮かび上がっている。

(これが、呪法なの?)

 よく見ようとすると、妨害されるような感覚がある。頭の中をかき回されるような不快感に視線を逸らすしかなかった。

「これから守護者契約の魔法儀式を執り行う」

 老女の声に、ルシェー以外の全員が頭を下げた。

 優衣は一度だけ腕に嵌められた紫水晶のブレスレッドを撫でて心を落ち着けると、練習したように淡々と儀式をこなした。

 小さなナイフで指を傷付け、誓いの言葉を口にしながら、その血を同じ色の水晶に垂らした。

「我が名は優衣。この身をルシェーに捧げ、守護者とする」

「我が名はルシェー。優衣を対価として、この国の守護者となる」

 そう誓い合うと、優衣の背丈よりも大きい水晶の表面に黒い紋様が浮かび上がる。

 それが優衣とルシェーの身体に宿ろうとした瞬間。

 ふたりの前にジェイドが飛び出した。

「ジェイド!」

「お前は、何を」

「儀式の邪魔をするな!」

 優衣の叫び。国王陛下や儀式を取り仕切っていた老女の怒り。

 さまざまな言葉が飛び交うが、ジェイドにはどれも届いていない。

 彼は水晶から浮かび上がった紋様を魔力で打ち砕くと、黒い紋様が無数に浮かび上がる水晶に向かって手を翳した。

 高まる魔力。

 空気が震えている。

 優衣は座り込み、ルシェーの手を握っていた。

 最初は、呪法を受けたあとにそれを解除すると言っていた。

 けれどジェイドは、優衣とルシェーが呪法を受ける前にそれを受け止め、打ち砕いた。

 緻密な計画を立てていたはずだ。けれど、彼だってこの儀式の間に足を踏み入れるのは初めてだ。予定と違い、優衣とルシェーがそれを受けるのは危険だと判断したのか。 

 だがこの場でそんなことをすれば、今度は彼自身が危険だ。

 現に国王は扉の向こうにいる護衛騎士を呼び寄せ、ジェイドを取り囲ませている。

「国王よ。騎士は必要ない。誓約を破った愚か者は、英霊が始末してくれる」

 儀式を取り仕切っていた老女はそう言うと、この部屋に入る前に誓いを立てた扉の前に立つ。

「ジェイド!」

 背筋がぞくりとした。嫌な予感がして、優衣は彼の名を叫ぶ。

「儀式を穢した愚か者を罰せよ」

 低く押し殺した声がそう命じると、扉から無数の黒い刃が突き出して、ジェイドの身体を貫いた。

「いやああっ!」

 悲鳴を上げて縋りつこうとした優衣を、ルシェーが抑える。

「ルシェー、離して!」

「邪魔をしたら駄目だ。ジェイドはやり遂げようとしている」

 その言葉と同時に、血の色をしていた水晶が金色に光る。

 あまりの美しさに、一瞬見惚れていた。

 すると鏡が割れるような大きな音とともに、水晶が粉々に砕け散った。

 その瞬間に、部屋の空気が変わる。

 同時にジェイドを貫いていた黒い刃も、煙のように消えてしまった。

 呪法に縛られていた魂が浄化されたのだ。

 優衣を掴んでいたルシェーの手が震えている。彼は涙を流して、消えていく黒い刃に向かって呟いた。

「……お父さん」

 ルシェーの両親は守護者と、その選定者だったのか。彼は捨てられたのではなく、呪法に縛られた父親によって手放されたのだろう。

 父親の魂を解放するために、ジェイドに協力していたのだ。

(ジェイドは……)

 刃が消えると同時に崩れ落ちたジェイドを、助け起こそうとした。

 けれどそれよりも早く、国王によって呼び寄せられた騎士が彼を取り囲む。

「守護魔法を打ち破るとは、貴様は人間ではないな。殺せ。その屍を新たな呪法のための贄とする」

 老女の言葉に、ジェイドを取り囲んでいた騎士達から迷いが消える。

 人間ではないのなら、殺すことに躊躇いはない。そう思ったのか。

「やめてっ!」

 制止する優衣の叫びは誰にも届かず、騎士達の振り上げた剣が、崩れ落ちたままのジェイドを刺し貫く。

「ジェイド!」

 彼の名を呼びながら、優衣は手首に嵌めていた紫水晶のブレスレットに触れる。

もちろん帰るつもりなどない。ジェイドを置いてもとの世界に戻ったりしない。

「お願い。わたしに力を……。ジェイドを守る力が欲しいの!」

 そう強く願った途端、世界が白く染まる。

 あまりの眩しさに目を閉じた。

 すると、誰かの泣き声が聞こえてきた。

 そっと目を開けると、優衣は今までとはまったく違う場所にいた。

 意識だけの状態のようだ。

 木造の小さな家に簡素なベッドがある。そこにひとりの女性が横たわっていた。

 艶やかな長い黒髪に、宝石よりも美しい紫水晶の瞳。

 彼女は白い布に包まれた何かを大切そうに抱きかかえながら、声を押し殺して泣いていた。

 その姿は魂を奪われてしまうほど美しく、優衣は思わず彼女に魅入っていた。

「ああ……」

 涙とともに、悲痛な溜息がその唇から零れ落ちる。

 彼女の思考が優衣の中に流れた。


 あなたは逝ってしまった。

 わたくしの半身。わたくしの最愛。

 でも、この子を残してくれた。

 愛しいあなたの血と力を引き継ぐ、わたくしの子ども。

 

 彼女の腕の中にいるのは、金色の髪をした生まれたばかりの赤子。

 愛しくてたまらないと、彼女はその子を抱きしめる。

 けれど家の扉が乱暴に開かれ、武装した騎士がなだれ込んできた。

 彼女は守るように子どもを抱きしめ、彼らに敵意を向けた。

「ルクレティア様。それをお渡しください」

 豪奢な騎士服を着たひとりの男が、恭しく彼女の名を呼ぶ。

「魔族の子どもを産まされるなど、おいたわしいことです。それは我々が処分いたします。どうぞ王城にお戻りください」

 陛下もお待ちしていますから、と男は蕩けるような優しい笑みで彼女に手を差し伸べる。

 けれど、彼女がその手を取ることはなかった。

「この子はわたくしの子ども。愛しいあの人の形見。あなた達などに渡しません」

 それを聞いた男は、王妹殿下は魔族に洗脳されている。子どもを取り上げてルクレティア様を保護しろと叫ぶと、数人の騎士が彼女のベッドを取り囲む。

 動けないほど弱っていた彼女だったが、それでも子どもを守ろうと、転移魔法で逃げようとした。

 けれど弱った身体では遠くまで逃げきれず、何度も見つかりそうになって転移を繰り返す。

 最後には血を吐いて倒れながらも、子どもを抱きしめる。

 そして、静かに語りかけた。


 あなたはグィードの力と記憶を受け継いだから、きっと人間を憎むでしょう。だから人間に対する恨みや憎しみを忘れてしまうくらい、愛するつもりだった。

 あなたが受け継いだ巨大な力は、きっと半分は人間であるあなたを苛むかもしれない。

 でも、わたくしの守護魔法で守るつもりだった。

 それなのに、もう傍にいられない。あなたをひとりにしてしまう。

 ごめんなさい。

 愛している。

 わたくしの大切な、「ジェイド」


 ルクレティアは最期の力を振り絞って、ジェイドを遠くの孤児院に飛ばす。そして子どもの遺体を魔法で作り出すと、それを胸に抱いて目を閉じた。


 誰か、守ってほしい。

 あの子を誰か、愛してほしい。

 わたくしの代わりに。わたくしの大切な、あの子を……。


 あまりにも悲痛な感情が溢れてきて、優衣の瞳から涙が溢れる。

 ジェイドの母は、こんなにも愛していた。

 夫である魔王を、生まれた子どもを愛していたのだ。

 優衣はこみ上げる涙を拭おうともせずに、両手を組み合わせて祈りを捧げる。

「わたしが、守ります。わたしがあなたの分まで愛します。だから、どうかジェイドを。わたしの愛するあの人を、守る力を授けてください」

 そう願った途端、紫水晶が光った。

 想いと力が、身体に満ち溢れてきた。

 それは、ジェイドの母が最期に願った祈り。そして彼女の持っていた力。

 

 ふと目の前の景色が変わった。

 ルシェーが、ジェイドを抱きしめて泣いている。

 彼はとても強いけれど、まだ子どもだ。大切な人を目の前で失いそうになって、ただ動揺して泣いている。その周りを取り囲む騎士。あのままだと彼も殺されてしまうかもしれない。

「ジェイド」

 優衣は魔法で騎士達の動きを封じると、彼の傍にそっと跪いた。

 不安そうなルシェーに大丈夫だからと笑い、ジェイドの手を握る。

 治癒魔法で、すべての傷を癒す。過去の傷跡も、彼を苦しませていた魔力障害も、何ひとつ残さずに。

「優衣?」

 ルシェーが呆然としていた。優衣は彼の手を握って、片手でジェイドを抱きしめる。

「帰りましょう。わたし達の家に連れて行って」

「……うん」

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