第30話

 もう会えない人をずっと想い続けるのも、自分だけならそれでもよかった。

 ふと肩に重みを感じて我に返る。

 触れた部分から感じる体温がいつもより高かったから、まだ本調子ではなかったのだろう。

 彼は、弱っているときほど優衣に触れたがる。

 魔力のない優衣を求めるのは本能的なものかもしれない。

 でも、それだけではないと信じている。

 起こさないように気遣いながら、ジェイドの頭をそっと膝の上に乗せた。

 柔らかな髪に指を絡ませる。

 実在することが信じられないくらい、綺麗な顔。

 見た目よりも男らしい手。

 何度も優衣を抱きしめていた腕。

 全部、覚えておこう。

 もう二度と会えなくても、きっと忘れない。

 時間が過ぎてしまうのが惜しくて、優衣は朝まで眠らずに、ジェイドを見つめていた。




 翌日。

 優衣はルシェーとともにジェイドに連れられて、王城に向かった。

 そこで国王に、守護者になる約束を交わしたことを報告する。

 毎日続いた魔族の襲撃に王も国民も疲れ果てていた。誰ひとり反対することなく、すんなりと許可は下りる。

 ライバルだったミルーティやマルティさえ、何も言わなかった。

 誰もが新しい守護者を待ち望み、それさえ終われば平穏な生活に戻れると信じている。

 だがその先に待っているのは、守護者の永遠な喪失。もう元の生活には二度と戻れない。

 それを知る優衣は、安堵している人達に罪悪感を覚えてしまう。

「優衣が気にする必要はないよ」

 そう言ったのは、ずっと一緒にいてくれるルシェーだ。

 ふたりは儀式が終わるまで、王城で過ごすことになる。

 儀式の準備は最優先で進められているらしく、二、三日後には行われるだろう。

 優衣はジェイドの指示で、寝るとき以外はこうしてルシェーと一緒に過ごしている。

「この国は自分達では何もせず、誰かが解決してくれるのを待っている人達ばかりだから」

「……でも。自力で解決できる力がある人なんて、ほんの一握りよ」

 もし自分がこの国の住人だったとしたら。

きっと不安を抱えながらも何もできず、ただ誰かが救ってくれるのを待つだけだったかもしれない。

「だから、できる人が頑張ればいいのかなって思う」

「……優衣のそういう考え方は、危険だと思うよ」

 ルシェーは、心配そうな顔をしていた。

「優しい優衣の心に付け込んで、利用しようとする人がいるかもしれない。気を付けてほしい」

「その忠告は少し遅かったわね、ルシェー。今まさに利用されている最中よ」

 ジェイドにね。

 そう言うと、彼は本当だねと笑う。

 ルシェーの無邪気な明るさは、沈みがちな優衣にとって救いだった。

 ジェイドは国王に守護者決定の報告をしたあと、すぐに王城を出て行った。色々と準備があるのだと言う。

 きっと儀式の当日まで戻らないだろう。

 もうふたりきりになることはない。あの魔王城で過ごした夜が、最後になる。そう思うと、寂しさで泣いてしまいそうになる。

「優衣は、本当に帰っちゃうの?」

 静かにあの日のことを思い出していた優衣に、ルシェーが伺うように言った。

「ええ。だってわたしは、あの世界の人間だもの。両親もいるし、友達もいるから」

「そっか。……そうだよね」

 寂しそうに笑うルシェーの手を、そっと握りしめる。

 優衣は自分の世界に帰る。

 でもここで過ごした日々を、ジェイドのことを忘れることはできない。

(向こうに帰っても、もう恋なんてできないだろうなぁ)

 ジェイド以上の男性と出会えるとは思えない。

 ずっと彼を恋しく思い、年月だけが経過していく様が見えるようだ。

(今の仕事って、定年まで続けられるかしら。ひとりで生きるには、どのくらいの貯金が必要かなぁ)

 そんなことをぼんやりと考えて過ごしているうちに、とうとう明日は儀式が行われる日となった。

ここ数日間は儀式のリハーサルなどで忙しかったが、前日は軽い打ち合わせや衣装合わせだけで終わった。

ルシェーと一緒に夕食をとったあとは、優衣は早々に自分の部屋に戻っていた。

「こんなに綺麗な部屋で過ごすのも、今日が最後かもね。明日からは、自分の部屋で……」

 美しく広い部屋に、自分で作らなくてもいい、おいしい食事。

 そんな生活をしたあとに、今時クーラーもない狭いアパートで暮らすことを考えると、少し憂鬱になる。

「まぁ、それが相応よね。今までが夢のような待遇だったのよ。ただ、元に戻るだけ。だから、うん。大丈夫」

 指が、無意識に唇に触れていた。

 誰もいない古城で、静かな夜にふたりきり。

 そんな場所であんなに優しく唇を奪われてしまったら、もう二度と忘れられなくなる。

 最後の恋になってしまう。

 ジェイドのことが忘れられずにひとりで生きるよりも、いっそこの世界に残ってしまおうか。そう何度も考えているのに実行する勇気が出ないのは、ジェイドがそれをまったく望んでいないから。

 さすがにすべてを捨ててこの世界に残ったのに、振られてしまったら悲惨である。

(期間限定だから優しいってことも、あり得る。だってジェイドだもの)

 恋した人を信じきれないのも寂しいが、まだ出会って一か月しか経っていない。むしろ面倒だと放置されていた時間の方が長かった。

 この恋を育ててみたかった。

 お互いに何があっても大丈夫だと信じられるくらい、強固な絆を築きたかった。

 それも叶わぬ願いだと受け入れて、向こうの世界で頑張ろう。

「うん。わたしは大丈夫よ」

 涙を流しながら、優衣は微笑んだ。

 

 そうして、儀式の朝になる。

 優衣は、次第に明るくなっていく空を静かに見つめていた。

(そろそろ城の人達が起こしにくるかも)

 儀式の準備があり、優衣は朝から色々としなくてはならないことがある。

 簡単に着替えをすませると、侍女が朝食の支度が出来たと呼びにきた。

 城にいくつもあるダイニングルームの一室に案内されると、先にルシェーが来ていた。

「おはよう、ルシェー」

 そう声を掛けると、彼も笑みを浮かべておはようと返す。ふたりで一緒に朝食をとると、それぞれの準備のためにまた別れることになる。

 儀式のためのドレスに着替え、手順を確認していると、迎えが来た。

 いよいよ儀式が始まる。

 儀式は、王城の奥深くにある部屋で行われるらしい。

 途中までは侍女が付き添ってくれたが、それが途中で護衛騎士に変わる。

 進んでいくと廊下は華やかな装飾もないシンプルなものに変わっていた。

 絨毯さえ敷いていないので、コツコツと足音が響く。

 窓もないようで暗く、ランプの明かりだけが頼りなのに、それも少しずつ減っていく。不安になってきたところで、突然見上げるほどの大きな扉が現れた。鋼鉄の扉には魔方陣が刻まれ、淡く光っている。その扉にいくつもの目があったような気がして、優衣はびくりと身体を震わせた。

(この扉、怖い……。怨念が色濃く染み付いているような……)

 ここに宿っているのは、儀式の強化のために利用されている魔族の魂なのか。そう思うと怖さよりも、憤りと悲しさが溢れる。

 少し遅れて到着したルシェーも、朱金の瞳に怒りを込めて扉を睨んでいる。

 やがて重厚なローブを纏った老女が現れた。彼女の背後には国王陛下と王太女殿下。そしてジェイドの姿がある。

(ジェイド!)

 ようやく会えたジェイドの姿に優衣はくまなく視線を走らせ、新たな怪我がないことを確認して、ほっと胸を撫で下ろす。

「儀式の間に入る前に、この扉に手を当て、儀式の邪魔はしないこと。決定にはすべて従うこと。そして、ここで見たものはけっして口外しないと誓え。この誓いを違えたとき、この国を守護する英霊が、そなたを殺すだろう」

 ローブ姿の老女が、厳かにそう告げる。最初に国王がその扉に触れ、誓いの言葉を口にする。

 そして王太女殿下。騎士団長。魔導師団長。そしてジェイドが続く。

 優衣もルシェーも彼らに倣った。

 儀式の間に入る前に問題を引き起こすわけにはいかない。全員が誓いの言葉を口にして扉に触れると、重厚な扉がゆっくりと開いた。

 中から湿った空気が流れてくる。

 薄暗くて不気味な空間だったが、それほど嫌な感じはしない。

 そう思っていた優衣の手を、ルシェーがきつく握りしめる。

「ルシェー?」

「……酷い。人間を恨んでいる魔族の魂が恐ろしい悲鳴を上げている。引き摺られそうで、怖い」

 小さくそう囁いたルシェーの手を、優衣はしっかりと握った。

「大丈夫よ。わたしが傍にいる。頑張って、呪法を破りましょう?」

「……うん」

 健気に頷いたルシェーの手を取って、儀式の間に入る。

 優衣以外の人達にも、不調を訴える者はいない。ルシェーが感じた魔族の恨みや悲鳴は、魔族の血を引いた者にしかわからないようだ。

(ジェイド?)

 はっとして振り返ると、ルシェーよりも青白い顔をしたジェイドの姿があった。今にも倒れそうな姿に駆け寄りたくなるが、そうすることはできない。唇を噛み締めて、その衝動に耐えるしかなかった。

 見かねた魔導師団長が、ジェイドを支えている。魔力障害に苛まれていると思っているのだろう。

(待っていて。すぐに終わらせるから……)

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