050 「家」に帰る

 迷った――――

 佳穂は電池の切れたスマホを握りしめながら、街をうろうろしていた。


 佳穂は本来、歩くのが好きである。いや、交通機関が苦手だから、好きでなくとも、好きだと言わざるを得ない。

 そして、地図を見なくとも、どこへだって行ける自信はあったが、それは横浜湾の南部に限った話である。

 ここは湾の北部だ。

 駅前で便利屋に放り出されたあと、鞄の中からスマホを取り出して、佳穂は愕然となった。

 充電が切れていたのだ。

 丸2日経っていたのだから、当然といえば当然である。

 気がついた時、赤いオープンカーは駅の向こう側に消えた後だった。


 犬上の家を探さなくてはいけない。

 手がかりは、もらったメモ書きだけ。

 もう30分は経つだろうか。

 電柱の住所プレートを見ながら探すが、目的の場所は一向に見当たらない。


 住所がわかるのだから、交番にでも聞けばいい――という選択肢は佳穂にとっての最終手段だ。

 だが、その最終手段に王手をかけられている。

 空腹なのだ。

 変身は、明らかに燃費が悪い。普段ならこんなにお腹が空くことは考えられない。

 下町風情の街並みの19時頃。夕食ゆうげの匂いはボディブロウのように佳穂の腹部をえぐってくる。

 ダメだ。仕方がない。誰かに聞こう。

 諦めた佳穂の目の前に、一軒の店があった。青地に大きな文字で「まぐろ」と書かれている看板。

 覗けば鮪だけではない、新鮮な魚たちが陳列ケースに並んでいる。

 その中にはカレイの干物もあった。 


「あ、ああ! 犬上さんのだね、これは!」

 拍子抜けである。

 意を決して声をかけた佳穂に、店主はあっさりと答えを返した。

「ほら、この裏の高台。そこだよ!」

 後に続いて店を出た佳穂に、店主は指差しながら教えた。

 見れば、本当に店の裏手に高台があった。

 こんなに近くまで来ていたのに、気が付かなかったとは。払った最終手段のコストが割に合わない。

 げんなりしている佳穂に店主は笑顔で言った。

「犬上さんの知り合いかい? あそこはいつも沢山買ってくれるからお得意様なんだ。若い人ばっかりだけど礼儀も良いしねぇ!」


 佳穂は店主に礼を言うと、高台に向かった。

 坂を登ると、朝に見かけた立派な塀が見えてきた。

『お屋敷』と聞いたので、もう覚悟は出来ている。

 果たして大きな門に掲げられている表札には、しっかりと『犬上』の文字が刻まれていた。

(やっぱり……)

 げんなりしたが、もう後に戻ることは考えられない。

 お世話になる――はっきりとそう言ったのだ。

 パースのかかった塀のそばを歩いて、やっと佳穂は『離れ』まで辿り着いた。


 犬上から預かった鍵を使って中に入る。

――――誰もいない。

 やはり犬上はこの建物にはいないようだ。

 荷物を置いて佳穂は一息ついた。

 ぐううううううう〜

 途端にお腹が鳴った。限界はとうに超えている。

 鞄は取り戻したので、祖母からもらった洋服代がある。それで、さっきの魚屋さんまで戻るか、コンビニを探すかして晩御飯を調達しよう。

 逡巡していると、今朝、犬上が出入りしていたドアが目に入ってきた。


 佳穂は、ドアまで近寄るとハンドルに手をかけた。

 好奇心には勝てない。

 慎重に手首を捻ると、ほんの少しだけ隙間を開けて中を覗いてみる。

――――そこは“中”ではなかった。

 暗闇の先には、広い敷地が見えた。ドアはお屋敷の塀の中に繋がっていたのだ。

 好奇心がさらに湧き上がる。もう少しだけドアを開ける。

 大きな塀が取り囲む日本庭園。渡り廊下がこちらに向かって伸びている。その向こうに大きなお屋敷が見えた。純和風の平屋。

 明かりが灯っている部屋がある? よくは見えない。

 ドアをもっと開けなくては――――そう思った時だった。

「よ……!?」

 バタン! 佳穂は慌ててドアを閉じた。

(!!!!!!!?)

 犬上がドアの前に立っていたのだ。


「なんだよ……帰ってきたら灯りくらい点けろよ」


 ドアを開けて入ってきた元委員長が言った。

 灯り……?

 よく見れば部屋は真っ暗だった。

 犬上がドアの横のスイッチを押すと部屋は途端に明るくなった。

「遅かったな。迷ったんじゃないかって心配したよ」

「き、着替え取りにいったあと、…………バ、バ、バイトに」


――――バイトって言え。それで毎日遅い言い訳がつく。

 これは便利屋の入れ知恵だ。

 だが、今になって佳穂は自分の置かれている状況に戦慄してきていた。

 まず、犬上の顔がまともに見られない。

 この元委員長とは、さっきまで一緒にいて、助けてもらい、共に駆け、腕枕までしてしまったのだ。

 おまけに、あんなに短いスカートを穿いたところをみられた上に、衣装もなんだかぺ、ぺ、ぺアル……

「へえ、意外だ――――な、ってお前大丈夫か!?」

「へ? ああああの、だだだだ大丈夫……」

 思い出して失敗だ。大噴火である。頬が灼熱する溶岩みたいだ。


 なんだろう。

 祭礼ゲームのあとにあった高揚感――――逃げ切れた、決着つけた、という思いは、コウモリ女の変身を解いた後に、すっかり消え失せてしまっていた。

 後に残されたのは、いつもの挙動不審の女佳穂だ。

 自分で自分が嫌になる。


「き……今日、初めてだったんで、ちょっと疲れたのかも」

 佳穂は引き攣った笑顔を無理やり作り上げた。

「ふーん。ま、頑張ってんだな。ハラも減ってるみたいだし」

 犬上が感心した表情で、鼻をひくつかせる。

「ほら! 耀兄が、作っといてくれたヤツ」

「え、え、え、あの……」

 佳穂は、犬上が差し出した紙袋を軽くお手玉しながら受け止めた。

 開けてみれば、袋からはみでそうなサイズのバケットサンドが入っている。

 見るからに美味しそうだ。

「お前、意外と食うんだな。大きいの入れといたって、耀兄が笑ってたぞ!」

 少しおどけた口調で、犬上が言う。

「………………」

 なんと返事をしたらいいのかわからない。

 口元が捩れた輪ゴムのように歪んでしまう。

「うん、いつもの顔だ。安心した!

 家の事で元気ないんじゃないかって思ってた」

 犬上は佳穂の顔を確認するかのように覗き込んでいる。

「…………ありがとう」

 佳穂はますます小さくなった。


「必要なものはなんでも使っていいってさ!」

「……うん」

「よし。

 じゃあ、大変だと思うけど、今晩はよく寝ろよ!」

 離れの使い方の説明を終えると、犬上はドアノブに手をかけた。


「犬上くん……あの大きなお屋敷にいるの?」

「うん、耀兄たちも一緒にな。次会ったら、礼を言っとけよ! また大盛りにしてくれるから!

 じゃあな、おやすみ」

「……おやすみなさい」

 ドアが閉まる。


「ありがとう」

 閉まったドアに佳穂はもう一度お礼を言った。

 犬上がいなかったら、どうなっていたかもわからない。

 家のことも、祭礼ゲームのことも。

 今は感謝をするしかない。


 そして――――

 犬上が、コウモリの正体に気付く時は来るのだろうか?

 もし、気付いてしまったら……。


 佳穂はポケットのヘアクリップを握りしめた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

コウモリになるとはどのようなことか What a bloody answer! 〆野々青魚-Shimenono Aouo @ginrin3go

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ