2 開幕の章

 八月一日。快晴。天気予報によると、降水確率0。日中は三十度以上の真夏日になるということだ。

 体調にだけは気をつけよう、と柊二は思った。リュックにサンドイッチとペットボトルのお茶を入れた。

 わずかに英語で書きなぐるように刻まれた白いTシャツに青とサックスブルーのストライプの半袖シャツを羽織った。下はジーンズだ。彼にとっての定番の格好で、このような明るい爽やかな色合いを好む。

 朝九時に自宅のドアを開けた瞬間、目を細めざるを得なかった。東からの強い日差しを浴びたからだ。

 暑いな――。しかしその分、楽しい一日になりそうだ。

 顔が自然とほころんで軽快に歩き出した。

 十分ほどでJR春田駅に到着すると、リュックから携帯を取り出した。ルールを確認するためだ。久美が先日メールをくれたのでもう一度読み返した。


① 行動範囲。栄の繁華街を中心にして、南は名古屋高速二号東山線まで。東、西、北は名古屋高速都心環状線で囲まれた、約二キロ四方の正方形状のエリアのどこかに隠れている。

② タイムリミット。午後六時まで。ただし正午から十三時までは、昼休みとして、捜索行為を行ってはならない。

③ 場所について。トイレなど人の目につきにくい所に隠れていることはない。私は場所は移動しない。

④ 栄の観光名所に隠れている。

⑤ メールはヒントになっている。時間を分けて三度メールを送信する。


 柊二は携帯をリュックにしまって顔を上げた。

 これは一つ一つを見て回る時間などないな。一日なんてあっという間に終わってしまう。 

 柊二は口を横に広げ気を引き締めた。

「おっす、夏目」

 英介が明るい顔で右手を上げた。

 黒のタンクトップの上には骸骨の描かれた半袖シャツを着ている。下は膝丈のジーンズで右肩に小さなハンドバッグを掛けている。柊二と対照的にワイルドな印象だ。

 さらに逆立てた短髪には水気が残っていて、柊二はさらに夏を実感した。

 とりあえず二人で、JR春田駅から名古屋駅まで電車に乗る。さらにそこから地下鉄名古屋市営東山線に乗り継ぎ栄まで行く。さらに地上に出るとすぐそばにある、名古屋テレビ塔に登ることになっていた。

「おう、真――。今日は暑いな」柊二は若干照れを隠すつもりで言った。中学生の頃はしばしば遊んだが、高校に入ると英介はクラブ活動があり、プライベートではあまり遊ばなくなっていた。

「今日は俺は勝ちに行くぜ」英介の目には力が宿っていた。

 柊二は笑った。「なんでそんなに勝ちたいんだ? たかが、ゲームだろ」

「たかがゲーム――? されどゲームだ。勝ちたい理由は、そうだな……、まあ内緒だ」

「そうか、俺も負けないぜ。負けず嫌いな性格なんだ」柊二はやる気に火がつきはじめ、睨みつける表情を見せた。

「わかっている」英介は柊二の心に熱いものを秘めていることを知っていて、まんまと乗ってきたな、とほくそ笑んだ。

 アナウンスが鳴り、電車が南からやってきた。

「いいか、とりあえずこれから、名古屋テレビ塔の展望台に登る。そして栄の街を見下ろし、捜索場所の見当をつける。それから、お互い別々の道に別れてスタートだ」

「ああ、わかった」柊二は英介の即断力とリーダーシップには、ただただ尊敬していた。

 自分にないものを持っている人間はうらやましい。

 でもそのような男らしさが伝わらないからモテないんだよなあ、と英介の大きな背中を見て思った。

 二人は電車に乗り込んだ。

 それから栄に到着するまで自然と会話はなくなっていた。一度英介が「地下鉄に乗換だ」と言ったくらいだった。

 余計な言葉を英介が一切口に出さなかったのは、高校三年生にもなって栄に行く程度ではしゃぐことがダサいと思ったからだ。柊二に対する対抗心むき出しの表情を崩そうとしなかった。

 栄で地下鉄を降り、地上へ出た。

「あちい……」英介は手で庇をつくっていた。

「死にそうだな」柊二は目は険しいがどこか楽しそうだ。

「これでかくれんぼか……。まあいい。絶好のゲーム日和ってとこだな」

「そういうことだ。しかし栄は本当に人が多いよな」柊二はぐるぐると周りを見ると、人しかいない。「気温が三度増ししそうだな」柊二はおどけた。

「ふっ、つまらんことを。笑ってられるのも今の内だぜ。これから人探しだってのに――」

 目的を思いだし柊二はまさかとは思いつつ、久美の姿を探した。

「どこだ、テレビ塔?」英介は顔を上げたまま左右に首を振った。地上に出て方向感覚がわからなかったのだ。

「あれじゃないか?」柊二は巨大な白い塔を指さした。

「でかした。よし、とりあえず登ろうぜ」英介は先頭を切って歩き出した。

 柊二は何も言わず、後を付いていった。

「それにしてもやはり大都会栄だな。カップルばかりだ――。お前なんか男と来たことを悔やむよ」英介は手をつないだり腕を組む若い男女を見ながら口を曲げて言った。

「俺だってそうだ」

 久屋大通を挟むレンガ造りの舗装された道を歩いた。太陽光が石に反射してさらに暑い。そのエリアの両側には緑の木々が立ち並んでいる。そこから見ると、延々と緑の道が続いているように見える。

 二人は人ごみと厳しい暑さでこれ以上話す気にもなれなかった。

 五分ほど無言で歩くと塔の真下までたどり着いた。

「おい、一体ここはどこから入ればいいんだ?」英介は言った。

「んん……。とりあえず一周しようぜ」

 二人は塔の周り、約二十メートル四方をくるりと一周して元の位置に戻ってきてしまった。

「おい、どこなんだよ」英介はイライラしている。

 目の前の塔の一階には透明なガラス張りを通して、デパートの一区画ほどのお土産売り場がある。

「何もねえじゃん」

 柊二はその英介の言葉を無視してガラス窓に近づいた。

「おい、あれ見ろよ」目を大きくして英介に手招きした。

「なんだ?」英介は柊二の元へ歩いた。

「奥に立札があるだろ。『名古屋テレビ塔入口』って出てる。ここから入るみたいだ」

 英介は柊二の肩をぽんっと叩くと、何も言わず土産売り場へと入っていった。

 土産は塔にまつわるグッズたちだ。マグカップ、ボールペン、ストラップにはどれもそれが描かれている。

 二人は店員に軽く会釈して奥へ進むと、裏手に周るよう指示矢印が出ていた。それにしたがって二人は裏へ回った。

「こんにちは」英介はエレベータの前で待ち受けていた制服を着た女性に、笑顔で声をかけた。

「こんにちは。少々お待ちください」受付嬢は笑顔でそう言うと、エレベータの三階のボタンを押して両手を前に出して組んだ。彼女は二十代後半の背の高い女性で髪を後ろでまとめ、薄い化粧をしている。

 待ち受けるのは柊二と英介以外誰もいない。

 エレベータが一階まで到着すると、女性は二人にお辞儀をして、エレベータの中へ入るよう手で促した。

 二人が乗り込むと、女性はボタンを押した。「行ってらっしゃいませ」扉が閉まるまで深々と頭を下げ続けた。

 付いてきてくれないのかよ、と柊二は不満に思った。

「案内してくれてもいいのにな」英介は言った。

 柊二は同じことを考えていた英介に、ふふっと笑った。

「静かだな――。もしかして、客誰もいねえんじゃねえのか?」英介がぼそっとつぶやいた。

「そうだな。俺たちだけだったりしてな」

 まもなく三階のスカイターミナルに到着した。その時点で高さはすでに地上三十メートルだった。

 音のない静かな空間だった。磨かれた黒い大理石のような壁がライトを照り返している。おそるおそる宇宙空間のような場所に足を踏み入れた。

 二人はそれぞれ六百円の展望料金を支払いチケットを購入した。その空間にただ一人の受付嬢に券を渡すと印鑑を押して返してくれた。

「こちらへどうぞ」今度はその受付嬢が先ほどの女性と同じことをするようだ。

 綺麗で細身の色白の女性だった。

 柊二は次こそは展望台まで添乗してくれることを期待した。理由は恐怖でただついてきて欲しかったのだ。二人だけで未知の高い場所へと進むと思うと心臓がきゅんとする。

 エレベータが到着した。

 女性は先ほどのエレベータガールとは違って中に入ってボタンを押して、二人が入るのを待った。

 柊二は次こそ三人で上がるのを期待した。

 しかし女性は外に出ると、また「行ってらっしゃいませ」と言い残し、頭を下げた。

 エレベーターがはるか上空に向けて動き始めた。

 柊二はがっかりするより先に恐怖が襲った。扉の逆側からは、上から下までガラス張りになっていて栄の街を見下ろせるからだ。さっきまでいたはずの地面が、どんどん遠ざかっていく。下を覗くと立ちくらみがしそうになって、上空を見上げることにした。

「上まで案内してくれりゃいいのに――。たった二人だけだぜ」柊二はいてもたってもいられず口に出していた。

「俺も思った……結構綺麗だったな、あの人」英介も高所恐怖症だがそれを紛らわすように女性のことを思い出していた。

「確かにな」柊二も笑おうとした。

 しかし柊二の表情が一瞬で固くなった。

 エレベータはさらにスピードを上げて、地上から遠のいていく。

 もういいだろ、止めてくれと柊二は思った。急に眩暈がして頭を押さえた。

 間もなく速度をゆるめ地上九十メートルの高さまで上昇し、展望台があるスカイデッキに着いた。

 スカイデッキは二十メートル四方ほどのわずかなエリアで、中央部に柱とエレベータがある。そのためそれをとりまく外部の幅五メートルのドーナツ状の部分のみが行き来できる場所である。

 名古屋テレビ塔の全長は百八十メートルだ。数年前に行われた完全地デジ化により、電波塔としての機能は役目を終えた。しかし最近、再び電波塔としての役割を地元でのみ果たしている。

 エレベータから出ると、柊二は足音を出さないようゆっくりと外へ出た。三階と同様に音は無音といってもいい不思議な空間だったからだ。

 観光客は五人しかいない。そのうちの男同士の親子はソファで寝ているという始末。あとは友達同士と思われる女性が二人とスーツを着た新入社員らしき男性だ。

「よし。各自、見て回るぞ」英介はそう言い残して歩いて行った。

 柊二は英介が柱の向こう側に隠れて見えなくなると、栄の街を遠目に見渡した。

 しかしすぐに高所恐怖症を痛感した。まず端に寄ることができないのだ。

 端に行くと真下にガラスが張ってあり九十メートル下まで見通せる。

 おそるおそる近づき覗き込むだけで軽い身震いがした。さらに端に行くと、今度は地面が揺れている気がしてまたもや眩暈がした。

 落ちたら死ぬな、確実に――。

 ガラスの数メートル先には塔を形成する鉄骨の間に大きなねじが見える。一つでもねじがはずれたら塔が倒れるのではないか、と思い不安になる。

「おお、びびったあ――」

 振り向くと声の主は英介だった。先ほど自分がしていたのと同じように、下を覗き込んだ瞬間身がすくんだようだ。

 柊二も再び下を覗き込むと、今度は頭痛が起きて頭を押さえた。

 視線を真正面に戻して、しばらくすると頭痛が収まってきた。

 そこで柊二は、なぜか不思議な感覚を覚えていた――。

 どこか懐かしい感じがする――。あっ、香りだ! 間違いない。何かの香りだ――。

 ほのかな優しい香りが彼の嗅覚を刺激し、しだいにその甘い香りは全身を落ち着かせていった。

 徐々に落ち着きを取り戻していき、柊二は目的通り観光名所をチェックし始めた。


 英介はまず、時間をかけて一周ぐるりと回った。

 ビル、ビル、ビル――。ビルしかない。名古屋ってこんなにも込み入った街だったのか。

 とにかくビルのオンパレードだ。ビルで埋め尽くされた街が栄なのだ。

 おかしな街だ。やっぱり住み慣れた中川区の方がごみごみしていなくていいぜ。

 ――んっ? というか果たしてこんな所で人を見つけるなんてできるのか……。英介は不安に駆られた。

「ねえ、あれ何?」近くの幼稚園児らしき少年が言った。目がくりくりしている。

 柱で隠れて見えなかったがエレベータの裏側にも二人いたことに気づいた。

「オアシス21よ」母親がいった。

「プールみたい」

「そうよ。あの水たまりは防火水槽になってるの」

「ボウカスイソウ?」少年が訊いた。

「この辺で火事があったらあそこの水で消すのよ」母は少年の目線に合わせ膝を曲げ、下に見えるプールを指さした。

「ふうん。ねえ、あそこ行きたい」

「わかったわ。行きましょう」母は子の手を引いて、英介たちが上がってきたエレベータ口へと歩いて行った。

 英介は端っこから見下ろすとびびったのだが、何十年も落ちてないんだから大丈夫だと自分に言い聞かし続けると、少しずつ高所にも慣れてきた。冷静さを取り戻し、思考を凝らすことができた。

 ここから見える場所で観光スポットを片っ端から当たれば、逸水はいるはずだ。

 本来の目的を果たそうと思い、四方向をじっくり観察することにした。

 まず始めに見たのが西だ。明らかに今回のかくれんぼの範囲を越えているが、名駅にはツインタワーがビル群の中で抜きんでて目立つ。そこから少し南に視線を移すと最近完成したスパイラルタワーと呼ばれる渦巻き状のアーティスティックなビルも高くそびえ立つ。さらにはるか向こうには御在所岳がうっすらとかすんで見える。今回範囲を限定する名古屋高速都心環状線はここからは見えない。

 二番目に南。思った通りここの真下から、久屋大通を挟み込んだ幅五十メートルほどの木々が連なった道が延々と続く。そのグリーンの長い道は、かくれんぼ範囲限界の名古屋高速二号東山線を越えて、さらに百メートル程先まで続いている。緑はそこにしかなく、コンクリートジャングルをわずかだが緩和させてくれる重要な役目を担う。

 他にも百メートル圏内にオアシス21がある。水の宇宙船は上から見下ろしても目立つ形だ。

 英介は奇抜な形状に魅せられ、まずあそこに行ってみることに決めた。

 そのすぐ近くに愛知芸術文化センター、久屋大通りをはさんで西側にサンシャインサカエの観覧車があり、南にいくにつれて老舗百貨店が寸断されることなく立ち並ぶ。ショッピングの繁華街になっている。店舗を持つビル群の中で、ナディアパークは高さが群を抜いていて、目線が上だから今自分がいる場所よりわずかに高い。

 ある百貨店の屋上にはテニスコートがあることを初めて知った。地上からでは決してわからない。

 他には高速道路の手前に遠目に白川公園が広々と占拠し、その中に名古屋市科学館がある。南が栄の街を構成しているといっても過言ではない。

 三番目に東。ビルがテトリスのように敷き詰められている。基本的には会社のテナントで観光地は特にない。ここからだとビルの群れは東に向かって果てしなく続いているように見える。東北東にわずかに見えるのは名古屋ドームで、長久手の公園もかすかに見える。しかしいずれも範囲外である。

 最後に北だ。まず見下ろすと、遙か南から続いている久屋大通の緑の道が、区切りである環状線をまたいでもなお続く。

 他には大相撲も行われる愛知県体育館、金のしゃちほこのある名古屋城、屋根が城の形をした県庁だ。一宮にあるアーチ状の高いビルも見える。しかしそれらが存在するエリアは都心環状線よりわずかに北側だ。

 今日は南を中心に探すことになるな――。


 二人はそれからそこで十五分程時間を過ごした。各々その地点を何周回ったかわからない。恐怖の狭いエリアだったが、静かで心地よい空間に次第に変わっていった。

「夏目、もういいか?」

「おう、そろそろ行こう」

 英介がエレベータに向かおうとした。

「真、そこの階段から上がった先に、スカイバルコニーがあるらしい」柊二は念のため登らないか訊こうと思った。

 スカイバルコニーとはそばにある階段から上がれる屋外展望台で、全方位が見渡せ強風が吹くらしい。

「いらねえよ。たかが十メートル上に行くだけだろ。ここから見える景色となんら変わらない」英介は実は屋外に出るのが怖かった。高地が故に風で揺れが激しいことは容易に想像できた。

「そうだな。風も強そうだしな。そろそろ降りて逸水を探そう」柊二も内心怖い場所だと想像していたのでほっとした。

「ああ、宝探しといこうか」英介は決め顔で言った。

 英介が階下へのボタンを押し二人はエレベータの前で立ち止まった。

「今から、逸水にかくれんぼスタートのメールを打つよ」柊二は言った。

「おう、頼んだ」

 柊二は手際良く携帯の上で指を走らせる。

(今、真と二人でいる。名古屋テレビ塔のスカイデッキよりかくれんぼの範囲の確認と、捜索場所の選定を行った。これより再び一階に戻り、かくれんぼを開始する。それでは、よろしく。)

 柊二はメールを打ち終え、送信ボタンを押した。

 まもなく下へ行くエレベータが到着した。

 乗り込むと、英介は扉の方を向き、柊二は逆側の外の見える位置に立った。

 下へ動き出した。

「はあ……」無音の閉鎖空間に柊二のため息が響く。柊二はちらと後ろを振り向いた。英介は下を向いてぐっと瞳を閉じていた。柊二も突然の長い距離の垂直落下は吐き気を助長し、それを忘れようと真のことをくすくすと笑った。真も同じか。がきっぽいところもあるじゃねえか――。

 正直安心した。人って弱点がわかると隙があって安心するのだと思った。

 エレベータを降りると、土産売り場を通り一階の出口から出た。

「よし、俺はオアシス21から捜索を開始する。付いてくるなよ」英介は言った。

「わかってるよ。じゃあな」

 東西二手に別れて歩いていった。

 栄でかくれんぼがスタートした。

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Hide and Seek in Sakae (限定公開) 塚田誠二 @Seiji_Tsukada

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