三十五話 簡単な言葉の方が

 こんなに早起きをしたのはいつぶりだろうか。

 こんなに目覚めが良かったのはいつぶりだろうか。


「ん……」


 体を起こし時間を見る。


「ちょうどいいくらいか……」


 時刻は十一時過ぎ。昨夜あれだけ夜更かしをした挙句、アラームをかけ忘れたにしては早い目覚めだ。スマホをベッドの上に放り投げ目を擦りながら洗面所に向かう。


「いいかこれで……」


 顔を洗い眠気を飛ばし、クローゼットを開き着ていく服を吟味する。集合時間までそう時間はない。ある程度、様になりそうな服を適当に選び着替える。着替え終えたタイミングで腹が小さくなったが、食べている時間なんてないので、キッチンにあった食パンを一枚そのまま口に放り込み咀嚼の後、飲み込む。

 スマホに財布。最低限これだけあればいいだろう。肩掛けバックに袖を通し部屋を出る。盗られて困るものは漫画、ラノベ以外にないので、戸締りはせずエレベーターに乗って分かれ道に急ぐ。


「遅い」


 分かれ道の街灯の下。退屈そうに髪を弄っていた木皿儀は、近付いて来る足音に顔を上げ俺を視界に入れるや眉を顰めそんな叱責を飛ばす。


「遅いって……。むしろちょうどいいくらいだろ?」


 何なら少し早いくらいだ。


「三十分前集合が普通でしょ」


 何その普通。俺の辞書にはない言葉だ。『普通』の定義は人によって違うが、木皿儀のはどこか極端な気がする。


「無茶言わないでくれ。ただせさえ朝に弱いのに」


「まあ、確かにそうね。けど、百歩譲って遅刻しなかったのは偉いにしても、私を待たせた言い訳にはならないわよ。おかしいでしょ、私が待つ側なんて。逆じゃないの普通?」


 木皿儀が何で不機嫌だったのか分からなかったが、その言葉を聞いて納得した。待たされたことに怒ってたのか。


「まあ、そうかもしれないけどさ……。むしろ何でそんな早起き出来るんだよ」


「私、八時間寝たら確実に目を覚ますのよ。もちろん、アラームに頼らずともね。そういう訳だから早起きなんて文字通り朝飯前よ」


 シンプルに凄いと思ったし、羨ましいとすら思った。何その凄い機能。俺も欲しいんだけど。


「で?」


「何が?」


「話を逸らそうとしても無駄よ。私を待たせたこと何か弁明があるなら今のうちに話しておきなさい。聞いて上げるから」


 話を逸らそうとした覚えは微塵もなかったが、その旨を伝えたところで無駄に終わるだろうことは容易に想像出来る。

 とはいえ、弁明と言われても。まさかこんなことで怒られるとは思っていなかったので、それらしいものは何もない。

 しかし、何かしら言わないと先には進まない気がしたので、足りない頭をフルに回転させ、言葉を絞り出す。


「……ギリギリでも間に合えばいいと思ってました」


「それで?」


「経験の浅さを言い訳にする気はないけど、自分に甘すぎたなと後悔してます……」


「それで?」


 それで?まだ続くのか……。


「え……っと、次からはこのようなことが起こらないように気を付け、三十分前に集合出来るよう自分に厳しくいきたいと思います……」


「そうよね。分かればいいのよ」


 木皿儀は頭を下げている俺を見下ろしながら(そんな気がする)満足気に鼻を鳴らす。 


「時間がもったいないし、早速行きましょうか」


「ああ……」


 顔を上げ木皿儀の隣に並ぶ。敷地外に出る為の大正門までは歩いて二十分くらいかかる。今更だが、敷地広すぎだよなぁ。


「……ねぇ」


「ん?」


 大正門の影が見え始めて来た頃、木皿儀がそう声をかけて来た。目を向けるとその場で立ち止まり、何やら小さくポーズを取っている。


「どうかしら?」


「何が?」


 何かを期待しているかのような視線にそう聞き返すと、「はぁ……」と重いため息をつかれた。


「あなた……もしかしてわざとやってる?そうでなくても鈍感過ぎないかしら?」


「だから何が?」


 訳が分からないまま呆れられても困る。察しが悪いのは自覚しているが、主語がない、ふわっとした言い方をされて察しろと言う方が無理な話だ。


「そう言えばあの時もそうだったし、察しの悪さは今に始まったことではなかったわね……」


 一人ぶつぶつと呟いている木皿儀に首を傾げていると、上げた顔、目が合った。


「はっきり言った方がいいかしら?」


「まあ……」


 そう返しながら俺は木皿儀から二歩ほど距離を取る。


「……ふふっ、そう警戒しなくてもさすがにしないわよ」


「……」


 その言葉を信じ、開けた分、距離を戻そうとすると、


「今はね。人目があるから」


「っ……!」


 木皿儀のその妖艶な笑みを受けて反射的に四歩ほど歩幅が開いた。とっさに耳を庇ったのは完全に無意識の産物だ。


「それはそうと、服の感想は?」


 木皿儀はその場で一回転をして見せると、そんなことを聞いて来た。最初から最後まで一切の違和感を感じさせないその動作に僅か見惚れていたのは内緒。


「いいと思います……」


 そこまでされて察しないほど、俺は鈍感ではない。慎重に言葉を選び協議に協議に重ねた結果、口から漏れた感想は何とも在り来たりで簡単なものだった。

 本当ならもっと他に言うべき言葉、表現すべき言葉なんていくらでもあった。俺はお世辞は言えない。だから、本来は「綺麗」の一言でも言うつもりだったんだが、いざ言おうとすると妙な恥ずかしさが全身を駆けた。

 自分でもその感想はないなと言った後に気付いた。しかし、言ったこと一度起こってしまった過去をそう簡単に変えられるほど、この世は誰かに親切ではない。

 それは俺にも然りで、当然こんなふわっとした感想で木皿儀が納得もしくは満足するとは思えず、ため息をつかれた挙句、小言の一つでも落とされるだろうと覚悟するのは容易だった。ついでに睨まれるかもと言う可能性が脳裏を過ったせいで僅かに逸らした目を戻すことが中々出来ないでいた。


「ふふっ、今はそれでいいわ」


 しかし、俺の予想、覚悟とは裏腹に木皿儀はどこか嬉しそうに、されど満足そうに小さく笑った。


「簡単な言葉の方が分かりやすいもの」


 簡単な言葉しか出なかっただけだけど、言わぬが花だろうか。


「あなたも……その……いい感じよ……」


「……ありがと」


 いつもと違う調子の木皿儀にこちらまで調子が狂って来るのを感じる。ほんのりと赤く色づいている頬を見つけた時、木皿儀も俺と同じ気持ちだったんだな、と妙な親近感を覚えた。


「「……」」


 それから二人を静寂が包むまで、そう時間はかからなかった。


「……じ、時間ももったいないし、早速行きましょうか?」


「あ、ああ……」


 そうして数分が経った頃、疑問形を含む木皿儀の声音に促されるがまま大正門を潜り街へと繰り出した。


「……」


 駅へと向かう道すがら俺には困りごとが出来た、とは言ってもさっきの出来事よりかは頭を悩ませる必要はない。

 しかし、悩ませる必要がないとはいえ、ある程度考えなくてはいけないことに変わりがないのも事実。


「……灯香?」


「何?」


「……いや、何でもない」


「そう」


 試しというか念の為と言うかで声をかけてみても、本人も無意識でやっているのか態度に大それた変化はない。


「……」


 いつもと同じ距離。歩く度に当たる柔らかさを含むどこか硬い感触は俺に一体何を求めているのだろうか。

 簡素に考えるのならば手を繋ぐことだろうが、もし違っていたら?俺はただの勘違い野郎になってしまう。

 とはいえ、あの木皿儀がまるで意味のないことを例え無意識化であったとしてもやるだろうか。わざわざこんな回りくどいことはしないで、直接「手を繋ぎましょう」くらい言うんじゃないか。

 しかし、どんなに長くいようと、その人の本質までは理解出来ても奥底までは理解出来ない。今、俺が言ったことも所詮、俺の中の木皿儀のイメージを照らし合わせただけの言わば理想の押し付けに過ぎない。

 きっとその狭い世界のどこかには回りくどいことが好きな俺の知らない木皿儀もいることだろう。

 だからこそ、俺に必要なのはちょっとの勇気と多くの覚悟だと思う。なぁにちょっと手を繋ぐだけじゃないか。いつもやっていることだ。

 今更、恥ずかしいとかはないんだろう?


「っ……」


 自分の考えに体が付いてこないことってあると思う。例えば何度も練習したのに本番で上手くいかないとか。好きな人を前に上手に口が動かないとか。

 世の中は無情だ。自分に優位なことなんて何もない。いくら失敗しても何滴も冷や汗を掻いたところで、時間は自分勝手に進んでいく。

 少し手を伸ばせば届く距離にあるのに、そこまでが酷く遠く感じる。再三やって慣れていても考え方一つでこんなにもぎこちなくなるなんて。

 相変わらず俺は弱いなぁ。


「……大丈夫?」


 その声に顔を上げると目の前に木皿儀の顔があった。


「な、何が?」


 不意のことに驚きつつも平然を装いそう返す。


「何か難しい顔をしていたから体調でも悪いのかと思って」


「あ、ああ、悪い。大丈夫だ。ちょっと忘れ物がないか心配でな」


 とっさに嘘をつく。要らない心配をかける訳にはいかない。


「ふぅん、そう。なら、いいけど」


 納得したのか何なのか曖昧な態度を返し木皿儀は俺から視線を外す。それを見て何とかやり過ごせたことにホッと胸を撫で下ろす。


「「……」」


 それが終われば、また、手が当たる。


「……」


 木皿儀に不要な心配をかけるくらいなら勘違いでも思い込みでも自分が思うままに動いた方がいいのでは?と言う考えに落ち着き恐る恐る手を伸ばす。

 そうしてギュッと手を握る。出来るだけ優しく握ったつもりだけど、どうだろうか。


「……」


 木皿儀の顔色を伺うと嫌悪の色は一切見えなかった、どころか嬉しそうに口角を上げている、と言ってもよくよく注視しないと分からないほどに微弱にだが。


「……ようやくね。待たせ過ぎよ」


 どうやら良い方に転がったらしい。


「痛くないか……?」


「大丈夫よ。むしろちょうどいいくらいかしら」


「なら、良かった」


 やはり木皿儀の今まで行動にはちゃんと意味があったのか。しかも全然無意識化じゃなかった。何なら意識的だった。

 結局、俺はいつも木皿儀の手のひらの上で踊らされているな。


「もしかして途中、難しい顔をしてたのはこれのせいかしら?」


 言いながら木皿儀は繋いだままの手を上に上げる。


「まあ……」


「そんなに深く考えなくてもよかったのに」


 クスッと言う笑みを耳に入れながら小さく息をつく。


「俺だって考えたくはなかったけどさ。勘違いだったらと思うと、どうにもな」


「あなたらしい想像ね。けど、結果的に正解だったんだからいいじゃない。それに勘違いでも何でも気付いてくれたこと嬉しかったわよ。随分と遅かったけれどね」


 正確には気付いてから行動に移すまでが遅かった、だけど。知らぬが仏だ。言わないでおこう。


「次からは分かりやすいの頼む……」


「それはお願い?それとも命令?」


「どっちでも。灯香に任せるよ」


「そんなこと言っていいのかしら?」


「俺でも分かるのなら何でもいいよ……」


「ふふっ、気を付けるわ」


 短く、小さく、柔らかく、されど優しく、どこまでもいたずらに、どうしようもないほどに嬉しそうなその表情を横目に映しながら、俺は未だに熱く赤い頬と耳を隠すのに必死だった。


「そう言えば、無駄にならなくてよかったわね」


「そうだな」


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