三十六話 弱味は君の前で
窓の外に揺れる景色が少しばかりにぎやかなものに変わっていく。そんな変化を楽しみながら吊革を掴んでいること十分ほど、電車は目的地へと着いた。
改札を抜け駅を出ると、どこからともなく工事の音が聞こえ、少し視界を上げると重機の先端が雲一つない空に鈍色の景色を作り出していた。
「やっと着いたわね……」
一ヶ月前までとはまるで違く見えるその景色に感慨を受けていると、少し遅れて木皿儀がやって来た。電車で酔ったのか人に揉まれて酔ったのかは定かではないが、その表情は酷く憔悴しきっており、今にも吐きそうなほど顔色が悪い。
いつもの木皿儀が見る影もない、と言えば分かりやすいだろうか。おおよそ余所行きの顔ではないことは確か。
「大丈夫か?」
「大丈夫な訳ないでしょ……」
心配になり声をかけるが、返って来たのは不機嫌極まりない声音と覇気のない、死んだ魚のような目だった。
「想像以上だったわ。まさかあんなに人で溢れてるなんて……」
木皿儀は電車にあまり乗ったことがないのだろうか。休日はいつの時間帯も大体あんな感じだと思うけど。
「人混みダメなんだな」
「当たり前でしょ。むしろ何であなたはそんなに元気なのよ……」
そう聞かれても返す答えは一つしかない。
「慣れ、かな」
暇な時とかよく本屋巡りしてるし、その延長戦で隣町に行くことも多い。それに元より俺はそこまで人混みが嫌いという訳ではない。さすがに通勤ラッシュ時のぎゅうぎゅう感は勘弁して欲しいが、今日みたいに適度なぎゅうぎゅう感なら特に気になるほどでもない。
「あなた凄いわね……」
木皿儀に褒められるのも畏怖の視線を向けられるのも後にも先にもこれっきりだろうな。
「時間もちょうどいいし、昼食がてらどこかで休憩するか?」
「そうね。そうしましょう。早急に」
早く休みたい、という意思を何よりも強く感じる。それほどまでに今の木皿儀は心身共に疲弊し切っているのだ。
「何を食べたいとかどこで食べたいとかあるか?」
「私が決めていいの?」
「俺じゃあ灯香が満足するような店は選べないからな」
俺の勝手な偏見だが、木皿儀は早い、安い、美味いを掲げている庶民的なお店より、遅い、高い、美味いを掲げている貴族的なお店の方が似合う気がする。
何でそう思ったかは俺自身もよく分かっていない。けど、普段の言動や振る舞いから何となくそう思った。
「そう。なら、あそこがいいわ」
そうして灯香が指差した先、二十階建てのビルのちょうど真ん中辺りにそれはあった。見慣れた看板に鮮やかな配色。学生から家族連れまで幅広い層に愛され、気兼ねなく利用出来るでお馴染み。そう灯香が指差したのは人気ファミレス店だった。
「あそこでいいのか……?」
「ええ。あら、もしかして意外だった?」
正直、意外も意外。予想外もいいところだ。もちろん、選択権を木皿儀に委ねた時点でどこに連れて行かれようと従うつもりだったが、まさかファミレスを選ぶとは。そんな未来は予感どころか想像すらしていなかった。
「まあ……」
未だ冷めぬ驚きをそのままに簡単な返事を返すと、俺の態度が面白かったのか木皿儀は「ふふっ」と笑った。
「一度行ってみたかったのよ。興味本位って奴かしら?」
木皿儀も人間だ。どんな身分に立っていようと世俗に興味を持つこともあるだろう。しかし、それでも似合わない、とまではいかないものの不釣合い?上手く言い表す言葉が見つからない。強いても何もそれらしい言葉が見つからないのは俺の学のなさのせいだろうか。
「……灯香が良いなら、まあ……」
「そうと決まれば行きましょう」
さっきまでの調子の悪さはどこへやら、どこか弾んだ歩調で俺の手を取り歩き出す木皿儀。何の前触れもなく手を取られ、一瞬、心臓が跳ねたが、すぐさまいつもの呼吸を取り戻す。
いつもやっているとは言え、急にはやめて欲しい。
「いらっしゃいませ。二名様ですね?お好きな席へどうぞ」
店員の言葉に従い窓際のテーブル席へと向かい合うように座る。タブレットの説明を聞き終え、早速何か注文しようとメニュー表を開く。
最後に行ったのはいつだったか。久しぶりの外食にワクワクが止まらない。
「こ、これで頼むの……?聞いていたけど難しいわね。……あ、変な画面に行っちゃったっ……」
食べたいものが決まり注文しようかと顔を上げると木皿儀がタブレット片手に何やら難しい顔をしていた。
「灯香は決まったか?」
「……もう少し待って」
タブレットと睨めっこをしながら「うぅっ」と言う唸り声を出す木皿儀に軽く苦笑する。タブレット一つに苦戦を強いられている木皿儀は何だか新鮮だ。
「……決まったわ」
それから十分ほどが経った頃、どこか疲れた表情で木皿儀がタブレットを渡して来た。
「ん、ありがと」
タブレットを受け取りパパっと食べたいものをカートに入れる。
「……ん?」
視線を感じ顔を上げると、驚いた様子で目を見開いている木皿儀が瞳に映る。
「どうした?」
「あなた……凄いわね。そんな簡単に」
まさかそんなところを褒められるとは思わず、素直に喜んでいいのか悩む。
「そう難しくもないと思うけど?説明通りにやれば出来るんだから」
「そうだけど……。私が可笑しいのかしら……?」
後半は小声過ぎて上手く聞き取れなかった。何を言ったのか気になりはしたが、無闇矢鱈に聞き出そうとするのは野暮と言うものだろう。
「確認だけど、これでいいんだよな?」
「ええ。……追加注文って可能かしら?」
「いつでもできるけど、一気に頼み過ぎても食べ切れなかったら意味ないし、ひとまずはこれでいいんじゃないか?」
「そうね」
木皿儀の頷きを確認し注文ボタンを押す。軽快な音が鳴り、画面に「お料理が来るまでお待ち下さい」の文字が浮かび上がる。
ファミレスの売りの一つは提供までの速さだと思うけど、この時間にこの客の数じゃあ最低でも十分以上はかかるだろう。
まあ、急いでいる訳でもないし、気長に待つことにしようかな。
「……ねぇ」
「ん?」
窓の外に向けていた視線を戻すと木皿儀は神妙な面持ちでこちらを見つめていた。何やら暗い話でもするかのようだ。
「トイレどこかしら……?」
言いながら「うっ」と木皿儀は口元を抑える。どうやら店内の人気にやられ吐き気が再発したようだ。
「あそこにあるよ」
店内の隅を指差すと木皿儀は脱兎のごとく勢いでトイレに駆け込んで行った。今頃、便座の中と睨めっこしているんだろうな、とか思いながら再び窓の外に視線を向ける。
普段、弱味を見せない木皿儀の意外な弱点。そういう人間味溢れるところに片足だけでも触れ合えたことに自分勝手ながら感動する。座学においても実技の授業においても他を圧倒するほどの実力差を見せつけて来る木皿儀は俺からすればどこか別世界の住人だった。
もはや同じ人間かと疑うレベル。無才で実力も持たない俺が羨ましがるだけ無駄なところに立っている木皿儀のやっと見つけた周りと同じ一面。卑しいくらい惨めだが、木皿儀の影を拝めただけでも俺は満足だ。
しかし、影が見れても別に距離が縮まった訳ではない。本当の天才、真の実力者はいくら頑張ってもどれだけ努力してもその分、離れていく。
諸刃を使えば一発のその距離も、俺には遠く感じる。この先一番近くて一番遠いところにいる木皿儀に俺が追い付くことはないのだろう。
追って追って追って。その先にあるのはきっとどこまでも続く足跡だけ。走って泣いて踏ん張って。そうして手に入れられるのはただ大きな格差だけだから。
何枚の壁を破って何本の刀を折ったとしてもそこで待っているのはただただ深い現実だけだから。
「お待たせしました」
そうこう物思いに耽っていると店員さんが来て机の上はあっという間に注文した料理で埋まった。
「ご注文は以上ですか?」
「以上です」
「では、ごゆっくりどうぞ」
去っていく店員さんの背中を眺め終え、テーブルの上に視線を移す。出来立て特有の白煙とよだれが出そうなほど鼻を衝くいい匂い。
木皿儀を待ってから食べても良かったのだが、起き抜けから今に至るまで何も口にしていない故の空腹と出来ることなら温かい内に食べたいという欲望に負け手を合わせる。
「いただきます」
戻って来た木皿儀に何か言われるかも、と言う可能性は捨てきれなかったが、ただボッーと待っているよりかは先に食べていた方が何倍も有意義だし、何よりもう空腹が限界に近かった。のでこれは俗に言う不可抗力として処理しておこう。
「美味いな」
空腹だからというのもあるのかもしれないが、そのあまりの美味しさに自分でも驚くほど箸が進んで行く。箸が進み過ぎて猫舌だったことをすっかりと忘れ舌を僅かに火傷したのは内緒。
手を合わせてから食べ終わるまでそう時間はかからなかった。と言っても二品くらいしか頼んでいなかったので時間がかかる方がおかしな話か。
「待たせたわね……」
追加で何か頼もうとメニュー表を眺めていると、心なしか行く前よりも痩せたように見える木皿儀が帰って来た。
「大丈夫か?」
「ええ、今のところはね……」
今のところはということは再び人混みに入ったら吐き気を催すということだろうか。「はぁ……」と重いため息をつきながら木皿儀は箸を持つ。
「吐いた直後だろ?あまり無理はしない方がいいんじゃないか?」
「せっかく頼んだのに食べないなんてもったいないじゃない……」
木皿儀の言い分は理解したが、その顔色で言われても説得力がない。
「水持って来る」
「お願いするわ……」
木皿儀の体調が水を飲む程度で収まればいいのだが、もちろん、水にそんな万能薬的な効力はない。
しかし、飲まないよりかは飲んだ方が幾分かマシだろう。
「もしあれだったら今日はこのまま帰るか?今良くなっても一時的なものだろうし、何度もトイレに行きたくないだろ?」
「……」
そう言うと木皿儀は静かに箸を置き顔を上げた。
「私が自分で言ったことをそう簡単に取り消すほど自分勝手な人間じゃないのはあなたも知ってるでしょう。心配してくれるのは嬉しいけど、予定を変えるつもりはないわ。私のことは気にしないで。自分のことくらいちゃんと管理出来るわ」
木皿儀の張ったそれが見栄や虚勢だと理解するのは簡単だった。しかし、本人にその意思がある以上、俺がとやかく言ったところで木皿儀は止まらないだろう。
木皿儀の言う通り、自分のことを理解しているのは誰よりも自分自身だ。もし無理だと感じたら一声上げるだろう。
もっとも他人に弱味を見せない、悪く言えば強がりな木皿儀がそんなことを素直にするとは思えないけれど。
「そう言うなら、まあ……」
「ごめんなさいね。わがままで」
およそ木皿儀の口から出たとは思えない声音と言葉に耳を疑ったが、すぐさまいつもの調子に無理やり戻し、
「その程度わがままの範疇にも入らないよ」
と返す。そうすると小声で、
「ありがとう」
と返された。
「「……」」
そんな会話を最後に沈黙が下りる。辺りは騒がしいはずなのにそんな雑音、騒音は耳に付かず、唯一聞こえるのは食器同士が触れ合う音だけ。
「……俺が言うのもなんだけど、弱さを隠すなら人と状況は選んだ方がいいぞ」
「……ふふっ、善処するわ」
今更見慣れた笑みが、何故だかいつもよりも輝いて見えた。
「……」
これ以上、搔く頭なんてないのに。
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