ティー濁しの閑話(第11話)


 ここは、こじんまりとした可もなく不可もない質素な資料室。

 男女二人は机の上に置かれた膨大な資料の束を前に、黙々と一言も言葉を発することなく作業をしていた。


 女からしてみれば、それはいつもの光景。私情を含む一切の会話を男が嫌っているのを理解しているから。心の中では、休憩がてらの茶をそろそろ頼まれる頃だろうか、と男の行動を予測すらしていた。


 しかし、男はいつもとは違った。

 作業を始めて一時間。かれこれ男は三十分以上迷っていた。


 沈黙を破って話を振っていいものなのかと。

 こういうとき、なにか話したりするものなのか……と。


 それは、ある日の後輩のお節介から生じた意識の変化。


『先輩は趣味とかあるんですか?』

『ない。私は初霜咲を第一に考えているため、そんな余裕はない』

『では、パートナーとはどんなお話を?』

『パートナー? ああ、それは……』

『どうかされまして?』

『いや、なんでも。そうだな……世間話だろうか』


 あの瞬間、言葉に詰まる自身の不甲斐なさを確かに自負した。

 肝心なときにコミュニケーション不足が原因で連携が滞ってしまっては元も子もない。

「副会長、お茶を」


 とは、思う。


「おまたせしました」


 夏乃はお気に入りらしい気品性を模したいつものティーセットをいつもながらに披露した後、淑やかにティーパックの入ったティーカップにお湯を注いだ。


「ああ」

 色の具合でお湯が茶葉にしみこんだことを確認すると、ゆっくりと一口啜る。


「今日はマスカットか」

「ご名答です」

「今日も当たったか」


 紅茶はいつも飲んでいる、これも私の趣味といえるのだろうか……。

 これで茶葉当てクイズは、通算百二十三勝三敗。

 百戦錬磨といっても過言ではない優秀な成績だ。


「では、下げますね」

 飲み終えた後、夏乃は自分のティーセットを今日も見せびらかせて満足したのか、どこか嬉しそうな表情でティーセットをいつもの場所に戻していく。


 これが、生徒会業務以外での唯一の会話場面。所謂、世間話だ。

 私情を含む会話はこれ以外に一切ない。それは私自身、この程度のコミュニケーションで事足りると思っていたからだ。だが、それでは甘い。

 悪影響は即刻排除。そのルーティーンは今日、私が壊す。

 危機感を覚えた生徒会長は、絶対領域から一歩、踏み出すことに決めた。


 これも初霜咲の繁栄のため――。


「いつしか……私が茶葉を間違えたこともあったろう」

 岸本は僅かな疑問を夏乃に打ち明けるように、慎重に問いかけた。


 紅茶の味覚には絶対的な自信がある。しかし、初期の頃は味覚の勘があやふやで、あてずっぽうで答えていた時期も少なからずあった。そこで、もしかしたら副会長は私に忖度してくれているのでは、と考えたのだ。

 侮辱ではなく、それが彼女なりの配慮と考えたうえでの問いかけだ。誤解を招く恐れも少なくないだろう。だから、自然を装うように、夏乃の後ろ姿を目で追いながら慎重に。


 しかし、私は、なにかを間違えたらしい。


「ごめんなさい、なんて?」

 早口で反応し、踵を返すと、夏乃はあれだけ大切に扱っていたティーセットをぞんざいに放り投げ、鬼気迫る様子で会長の元へ足早に戻った。


「おい、お気に入りのティーセット……」

「あんなのどうだっていいんです。会長いまなんて言いました?」

「どうでもよくはないだろう。物は大切にするべきだ」


 ソファーの上に放り投げられたティーセットは運よく破損するまでには至らなかった。

 だが、二段目三段目にあった角砂糖やお菓子は横になったことで、当然こぼれていた。


「……申し訳ございません。取り乱してしまいました」

「いや、驚かせるようなことを言った私にも非がある。片づけを手伝おう」

 背後から突然話しかけるのはよくないな。結果的に副会長を驚かせてしまった。


 夏乃が毎日、念入りに手入れして管理しているあのティーセット。

 それをあんな乱暴に扱うなんて……


 岸本は夏乃の見たこともない反応に、己の無知さを心の底から憎んだ。

 私と副会長は流暢に話せる間柄ではないのかもしれない。


「おかげで助かりました。お手間をおかけしてごめんなさい」

 後始末を終えると、夏乃は岸本に深く頭を下げた。


「構わない、休憩は終わりだ。業務に戻ろう」

「……はい」

 夏乃は落ち込んだ様子で業務に戻っていった。


 この負い目が業務に響くかもしれない。そんな危惧を勝手に察した岸本は声を張った。


「仮に気にしているのならば、業務で取り返せ。それが理事長の言葉だ」

 それを聞いた夏乃は首を縦に振ると、華奢な身体を大きく背伸びさせ、喝を入れるように両手で顔を叩いた。


「今日は十九時にはここを出ましょう。警備の方に迷惑をかけるわけには行かないので」

「その意気だ」


 その日は宣言通り、十八時五十八分には資料室を開けることに成功した。


 静まりきった長い廊下。

 いつも昇降口までは一緒に行く岸本だが、この日はまだ業務が残っていた。


「では、私は用があるのでこれで。夜は冷える。体調管理には留意するように」

「あの、会長」

 夏乃は服の裾を引っ張って、岸本を呼び止める。


「会長という呼び方は……まあ、いい。なんだ?」

「ごめんなさい。例の件について、進展はどうなったのかなと」

「心配せずともそちらは私が対応している。本番までには突き止めるから安心してくれ」

「そうでしたか。ではお任せいたします」

「ああ、たった数人の生徒に屈する初霜咲ではないことを証明してみせるさ」

 岸本は強い口調で覚悟を示した。


「それと、もう一つ」

「他にもなにか?」

「いえ、私情のことで。休憩のとき、私に問いかけた言葉は一体なんだったのでしょう? あまりに突然でしたので聞き取れませんでした」

「大したことではない。忘れろ」

 あまりに素っ気ない即答、夏乃の好奇心は収まることを知らなかった。


「気になって夜も眠れないかもしれません」

「それは困る。たしか、私が茶葉を間違えたことを隠していないか。と訊いた」

「……。そうですか」

 夏乃は、待望の回答を出してやったにはあまりにも腑に落ちないような顔をした。


「では、体調管理には気をつけて」

「それは、私が会長に嘘をついていた……ということでしょうか?」

「しつこいぞ。私の勝手な妄想だ。私はきみを信頼している」

「……⁉」

 突然の不意打ちに、どうすることもなく、夏乃の頬は紅く染まっていく。


「あの、それって……」


「会長、お疲れ様でーす‼」

 夏乃が言い切る前に、挨拶が元気いっぱいな男子生徒がどこからともなく現れる。


「お疲れ様です。待ち合わせまではもう少し時間があると思っていましたが」

「早めに終わったのでお迎えにと思って……」

 とまで言ったところで、後輩は殺気に似た視線を横から感じ取ったのか、


「あれ、お邪魔でした?」

 と雀の涙程度には空気を読もうとした。


 しかし、当の本人は気づくわけもなく。


「いいや、ちょうどよかった。用件も含めて君に訊きたいことがあったんだ」

「そ、そうですか……。とりあえず行きましょう……‼」

 そう言って、後輩は夏乃に一礼すると、話に乗り気な岸本を連れて足早にその場を後にした。


 誰もいなくなった廊下で、女は例のごとく、ひとりごとを呟く。


「出本君、あなたは私の千載一遇のチャンスを……」


 握りしめた拳は振りかざす場所を示されずに、行き場を失った。

 けれど、地団駄を踏むような苛立ちはじきに収まっていき、結果ここへ落ち着いた。


「やっぱり、気付こうとしない会長が悪い」


 ※ ※ ※


「出本君、早く帰りたい気持ちは分かるが、廊下を走るのは校則違反だ」

 誰もいなくなった廊下で会長は厳しい口調で雄一に言い放つ。


 この前、副会長は全力疾走で走ってましたけどね。それに理由があるのでは?


 雄一は制止し、息を整えた後、会長のせいだと言わんばかりの責める口調で反論した。

「副会長に睨まれていた気がするんですが……なにかありましたか?」

「彼女、視力が良くないんだ。きっとコンタクトを付けていなかったのだろう」

「それ以外は? いつもと変わらない日常でしたか?」

「今日話す本題はそれではないだろう。恋に現を抜かしている暇はないのだ」


 それ、もう答えなんじゃ……。


 生徒会室にたどり着くと、会長は部屋の明かりをつけ資料を用意し始める。

 資料を机に並べ終えると会長は肘かけ椅子に座り、両手を山形につきあわせた。

「では、文化祭実行委員会重要発案者としての進捗報告を頼む」

「今日は会長お一人で?」

「君の言うことも一理あるかもしれない……しかし、今日は私一人で十分だ」


 どういった心境の変化です? なにがあったんです?


 雄一は大いに困惑しながらも、ここ一週間の出来事を報告した。

「そうか、それで君の考えた社交ダンスは好評だったというわけだね」

「はい。無事に受け入れられました」

「社交ダンスは初霜咲でも毎年春に習う必修科目。半年前を思い出して踊れたろう」

「ああ、はい。まあ……」


 この生徒会長、まさか僕の経歴を知らないのか……? 一部の生徒会長アンチに陰口として囁かれている『副会長あっての会長』とはこのことなのかもしれない。


「会長は一年の頃、上手に踊れましたか?」

「私の話はいい。運動音痴が私の短所と知っての挑発なら話は変わるが」

「それはご無礼を」


 噂には聞いていたが、見た目によらず運動音痴とは……。同族嫌悪は避けたいところだ。


「しかし、安心したよ。風の噂では君が、サブステージのトリなら適当でも構わないのでは、なんてのが聞こえてきたものだから」

「それは、半分合っていて半分違います……」


 最初からメインステージではなく、サブステージのトリという言い方をすれば多少緊張感を和らげることができたろう。雄一は騙すような言い方に不満を覚えていた。


「きっと、メインかサブを伝えてくれ。というのが君の要望なんだろうが、それでは気が引き締まらないだろう? 私は君の力を試したかった」

「過大評価してくれているようで何よりです。そもそも一年五組班を有効的に使えなんて最初から無理難題でしたでしょうに」


 初めは理事長の提案からだった。それがなければ、雄一もこんなに活動的ではなかっただろうし、まさか生徒会室で生徒会長と二人きりで話すこともなかっただろう。


「理事長の思惑は最後まで理解できなかった。でも、こうしてほぼすべての準備が予定通り完了した。いまの私たちにはこれ以上の結果はないだろう」

「ですね」

「いよいよだ。長いようであっという間だった。君には感謝している」

「まだ早いですよ。本番はこれから……」

 と口にしたところで、会長の反応が決して芳しくないことに気づく。


「どうしたんです?」


 ここまで準備したにもかかわらず、何の憂いもなく臨める状態ではないみたいに。


「……セキュリティ面は万全だ。君も小耳に挟んでいるとは思うが、最近、初霜咲の伝統ある文化に反抗する輩が我々の邪魔をしようと企んでいる」

「そんなことが……」

「副会長から聞かされていないのか?」

「はい。初耳でした」

「副会長が、君のような信頼における人材に伝えていないとは……」

 会長は驚きを露わにした。


 実際、副会長と僕の関係性は友達の部活の先輩といった認識で、信頼できる後輩にまでは至っていないのだろう。それに、信頼するにはあまりにも期間が短い。


「会長は僕のことを信頼してくださっているのですか?」

「もちろんだ。今年の文化祭は君の功績あってのものだと私は認知している」


 それに比べて会長は、注意深くはない。この数週間、副会長ありきでこれまでやってきたことが日常生活のあらゆる場面で常として実感した。


「勿体ないお言葉。感謝いたします」

「で、だ。その輩を君は知らないかね?」

「具体的に、その賊は一体何をしでかしているのですか?」


 雄一が真摯に訊き返すと、会長は重い腰を上げるように説明を始めた。

「単なるイタズラではない……悪質な妨害行為だ。二学期が始まったあたりから何者かによるイタズラはあったが、どれもいまに比べれば軽度のものだった。しかし、文化祭準備期間に入ってからはそのイタズラはエスコート。次第に妨害行為へと変わっていき、実行委員がプログラム用に準備していた垂れ幕が次の日には真っ二つに引き裂かれていたり、と到底見過ごすことはできない行為がほぼ毎日、見受けられるようになった。このまま行けば、文化祭当日も妨害行為が行われると予測されるだろう。この騒動は実行委員の一部の者が知っているだけで理事長の耳にはまだ入っていない。しかし、理事長の耳に入るのも時間の問題だろう。困ったことに現在も解決の糸口を見出せないでいるのだ……」

 会長は額を手で覆いながら、苦しそうに現状を吐露した。


「それは……厄介ですね」


 準備段階でそれだけの被害が相次いでいるのであれば、本番はそれ以上の、初霜咲の文化祭が潰されかねない事態になるかもしれない危険性があるということか……。


「心当たりは?」

「残念ながら……ないです」


 雄一は即答すると、会長は見定めるように片目を眇め「だから、これは注意喚起だ」と前置きし、深刻な口調で言葉を続けた。


「反初霜咲の人物に心当たりがあったら、必ず私に伝えるように――」

「……分かりました」

「君を疑うわけではないが、副会長が君にこの話をしなかったことが気になる。出本君、君には本当に心当たりがないんだね?」

 目を光らせるようにして会長は訊きなおした。


「僕の友人にそんなことをするろくでなしはいませんよ」

「……そうか、失礼した。では、また明日。今日はもう帰っていい」

「はい。失礼します」

 別れの挨拶、雄一は心なしか強い口調になっていた。


 疑われるのは構わない。

 ただ、会長が副会長を信頼しているように、僕も彼女を信頼している。

 それと同じに、それだけの答えを出したつもりだ。


 あ、文化祭開催以前のイタズラの所在は分かりかねますが。

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