009 心は燃える

 頬に雪の華が触れる。


 真っ白で冷たい結晶は、触れるとすぐに溶けて消える。


 俺ァそれさえ気にもせずに走り抜けていた。


「花宮古ォーーーー‼」


 叫ぶ。


 走って、走って。


 宛ては無ェ。


 真っ先にアイツのアパートに行った。


 その近くをひたすらに走り回った。


 きょろきょろ見回して。


 見つけなくちゃあだめだ。


 町角の何処にいたって、俺が見つけてやんだ。


 そんで、一人で勝手に行っちまったのを叱って。


 それで……。


 それで…………。


 それでおしまいだ。


 あとはアイツが暴れても連れて帰ってやるッ!


「誰か探しているの」


 声は上だ。


 見上げると、電柱の上に女が座っていた。


 花宮古じゃねぇ。


 眼鏡をかけた見知らぬ女だ。


「お前、誰だ」


 不審な女だ。信用ならねぇ。


 女は嗤う。


 そのまま指をさす。


 俺の向いてる方向とは真逆だ。


 振り返ると、街角、道の真ん中に花宮古が立っていた。


 だが、その背中に十字架はない。


「テメェ……」


 呟くと、アイツはにこりと笑う。


 それはアイツらしい凛としたものじゃねェ。


 もっと妖しい、舌なめずりでもしそうな笑み。


 目は、昨日よりも綺麗な紅色をしている。


 肌は白く、雪のようだ。


 今にも凍えてしまいそうな、そんな色で。


「やぁ、探してくれたんだな。桑ノ助」


 なんてことない声でそういう。


 口元には、鋭い牙が見えた。


 白い牙が。


「迷惑をかけてしまった」


「俺が聞きてぇのはそンな言葉じゃねェ」


 昨日みたいな、獣のような唸りは無い。


 一見すると普段通りだ。


 だがその歩き方も、笑い方も。


 俺が一度も見たことがない静けさに満ちている。


「テメェ、本当に花宮古か」


 睨みつける。


 拳を構えて。


 風はない。


 空は暗い。


 冷たいアスファルトは灰色のまま、俺たち二人の真下に在る。


 影を映すこともなく。


 女はうっすらと笑みを浮かべたまま近寄って来る。


 自分の指、肌。


 それを愛おしそうに見つめながら。


「今の私は、夢を見ているような気がする。深く、深く、素晴らしい夢の世界にいるんだ」


 紅い目は、何を見ている。


 何も見てねェ。


 こいつは、本当に夢を見てんだ。


 夢遊病みてェな……。


「私は花宮古涼音だ。安心してくれ、桑ノ助」


 落ち着かせるように呼び掛けてくる。


 安心しちまいそうになる。


 だが、こいつは……いつものこいつとは————。


 一瞬。


 思考に気を取られただけだ。


 その一瞬で、花宮古は俺の目の前に移動した。


 まるでワープしたみたいに。


「————ッ」


「やはりいい血色をしている」


 俺の腕をさわっている。


 袖をまくり、見つめている。


 嬉しそうにころころと笑った。


「お前は健康体だな!」


 ぱんぱん、とフレンドリーに叩いてくる。


 そういうコイツの方こそ元気にしてやがる。


 これはこれで、違和感がある。


 腕を引っ込めて目の前の花宮古を見ていた。


「そう怖がるな。すぐにそう、取って食おうとする訳じゃない。いや、待てよ……。時間をかけるとそれはそれで苦しいかもしれないな……」


 ぽん、と手を叩く。


「よし、さっさと終わらせてやる」


 瞬間、花宮古の口が首筋に迫る。


 牙が、血を求めて。


 肌に。


 反射的に蹴り飛ばす。


 受け身を取り、彼女は二メートル程後方に飛んだ。


 俺の様子を、見たまま。


 何時でも飛んでくる。


 気を許せば、一瞬で勝負は決まる。


 白い、雪が降る。


 ぱらぱらと。


 心を探るように。


「ははは、何だァこりゃァよォ……」


 なぁ、笑わずにいられるか。


 これが。


 これが、現実だなんてさ。


「楽しんでる?」


 電柱の女は高みの見物だ。


 ただ見下ろすだけ。


「テメェが……ノスなんたらって吸血鬼か?」


「えぇ、そうね。でも、そんなのどうでもいいでしょう。今貴方にとって大事なのは、目の前の彼女さんのことじゃない?」


「彼女じゃあねェ‼」


 大きく声を上げる。


 怖い怖い、と無感情に言う女。


「そう怒らないで。彼女だって、きっと貴方のことを思って吸血してあげようとしているわ。いえ、それだけじゃないと思うけど」


 ふふふ、と今度は嬉しそうに笑う。


 それは、さっきまでの声とは違い感情にあふれている。


 明るいが、意地の悪そうなもの。


「吸血鬼は不老不死なの。彼女は吸血鬼のなりかけだけど、その性質は変わらないわ」


「何が、言いてェ」


「怖いのよ、独りで生き続けるのが。だから、大切な人を夜の世界に引き込もうとしているの」


 それは、多分無意識だ。


 視線の先で俺を狙う花宮古は、確かにその話し方も花宮古そのものだ。


 だが違和感は節々に感じられる。


 本人に違いないが、多分本人の意思じゃねェ。


 吸血鬼の本能。血を求める意識か。


「凡人程度じゃ私の孤高を模倣は出来ないのよ。哀れよね」


 遊ぶように。弄ぶように。


 彼女の口はそんな台詞しか吐きそうになかった。


 ンな、哀れっつって笑うんじゃねェ。


 このノスフェラトゥは、花宮古をなりかけといった。


 まだその意識に、染まりきってるわけじゃねェはずだ。


 なら、いくらでもこいつにはやれる。


 やってやれるんだ。


 自分に言い聞かせる。


 だからと言って、彼女に隙は無い。


 むしろ本能に従っているがゆえに、感覚が研ぎ澄まされている。


 ただ立ち向かうだけじゃあどうしようもねぇ。


 勝てないのは目に見えてる。


 なら。


 ただ立ち向かうんじゃあねぇ。


 なぁ、どうすりゃいい。


 花宮古————‼




——もっと相手の動きを考えろ。私がどう動くのか分析し、観察しろ——




 何時だか、彼女自身に聞いた言葉だ。


 思えば、あの時彼女はどうして俺にそんなアドバイスをしたんだろうか。


 彼女にだって分かってないはずだ。


 いかにも理論派なツラをしてるが、思った以上に直感的で、思った以上に分かりやすい奴だ。


 だからあいつは俺が悩んでいるのに、自分自身無自覚に『どうにかしてやろう』と思っちまったんだろう。


 自分が倒されるとかそういうのは後回しにして。


 あいつは、人の心配をするやつなんだ。


 なら。


 ああ、そうだ。


「最初から分かってるじゃねぇかよ」


 肩の力がふっと抜ける。


 単純な話だ。


 あいつは、人を想いやってしまう。


 そういうやつだったじゃねぇかよ。


 俺は、ポケットからメリケンサックを取り出す。


 念のために入れてたモンだ。


 それを指にはめる。


 花宮古の視線は俺から全く動かない。


 警戒してやがる。


「いいぜ、警戒しなくてもよ」


 俺は、それを気にせずに。


 メリケンサックで自分の腕を思いっ切り殴った‼


 血の滝だ‼


 暴れ、流れ落ちる血の濁流がアスファルトを濡らしていく。


 どばどば、と血だまりが出来る。


 赤い、雪が降る。


 花宮古が腕に一瞬で飛びついた。


 舐めようと舌を伸ばす。


 そうじゃねぇ。


 そうじゃねぇだろ、馬鹿!


 その顔を掴む。


「飲みたきゃ飲め‼ だがなァ」


 じっと目と目を見合わせる。


「思い出せ。テメェは夜が好きなんだろ‼」


 言ってくれたじゃねぇかよ。


 夜を助けてェって。


「それを、自分で穢しちまうつもりかよォ‼」


 叫んだ。


 花宮古、聞こえるだろ。


 耳ィ、澄ませ。


 テメェの言葉だぞ‼


 煮えたぎるような、心の嵐。


 顔を掴んでいた指に、雫が触れた。


 血じゃない。


 これは。


 涙だ。


 口をだらりと開けていた花宮古の瞳から零れ落ちていた。


「強引な、手、だ」


 目に、光が戻っていく。


 花宮古が、戻ってくる。


 苦しそうな顔をしている。


 でも、そのどこかで安堵していた。


 涙があふれて、止まらないみてェだ。


「もし、私が、おまえの血を、吸い、つくしてしまったら、どうしたんだ……」


「やんねぇだろ?」


「…………ああ」


 泣き、歪む声が呟いた。


「やるもんか……!」


 俺の胸にとん、と頭をくっつけてわんわんと泣きわめき始める。


 肩をそっと抱き、電柱の女をさがす。


 依然、上から見下している。


 興が冷めたようで。


「おとぎばなしね」


 呟いて、ハッと笑い飛ばす。


「二人で勝手にやってればいいわ」


 立ち上がる。


 そうしてもう一度屈むと、思いっ切り空中に飛び出した。背中から蝙蝠の羽が生える。


 放物線を描き降下し、再び上昇する!


 体を変化させている。


 自分が最も活動しやすい限界の様式に。


 翼は風を掴んでは離し、空中に循環を作り上げる。


 ノスフェラトゥはそうして、再び舞い上がった!


「逃がすかッ」


 花宮古の怒りをはらんだ叫び。


 彼女が身を離す。


 苦痛に顔を歪ませながら、拳を天に掲げた。


 叫ぶ。


「我夜の門番なり‼ 来い『聖十字の棺』ッ!」


 闇を切り払うような力強い響き。


 それと同時に。


 そら飛ぶノスフェラトゥの腹部を、飛来した十字架が突き破った。


 血が、空を彩る。


 舞い、塗り散らし。


 時間が止まるかのように。


 墜落する女。


「————ぐふっ」


 吐き出される血。


 彼女の体は哀れに道の端に墜ちた。


 驚異的な自己再生能力だ。それであっても体は修復を始めている。


 突き破ったその十字架は、勢いをそのままに花宮古の手元に戻ってくる。


 彼女がつかみ取る。


 灼ける音がした。


 彼女の手元にハッ、と目が行く。


 体はまだ吸血鬼のままなのか、十字架に拒否反応を起こしている。


「桑ノ助」


 ちら、と親愛の瞳を俺に向けた。


「私の手を抑えながら、一緒にこの十字架をもってくれやしないか」


 尋ねられなくても。


 テメェの……それをやらなきゃいけねぇと思う心が此処にあるんなら!


 俺は彼女の指に手を重ねた。


 二人で十字架を持つ。


 まるで剣を持つみたいに。


 長さの短い部分を柄に、長さの長い部分を刃に見立てて。


 その切っ先はノスフェラトゥに向けた。


 ゆらりとノスフェラトゥは立ち上がる。


 口元の血をぺろりと舐め、反抗的に睨んだ。


 その瞳だけが、人を殺すという彼女の目的を物語る。


 憎悪じゃない。


 自分が自分であるがために殺し続ける、生存手段。


 必死だ。


 けれどそれは他人の為じゃねェ。


 全部、己の為だけに。


「この『聖十字の棺』は使用者の寿命と引き換えに、それに釣り合った威力の破壊を与える————」


 花宮古が、俺を見た。


 信頼の瞳で。


「お前の命を、分けてはくれないか」


 ————へへへ。


「分けてくれねぇか、じゃねぇ」


 言われずとも、十字架に手をかける。


 花宮古が、笑う。


 それは安堵の笑みじゃない。


 お前ならそう来るはずだ、と。


 笑い合う。目の前の戦に心躍るみてェに。


 十字架が銀色の、聖なる光を纏いだす。


 俺の体中にふわふわとした、暖かさが流れ込む。


 熱気が、満ちて。


 花宮古と目を合わせる。


 心が、一つになる。


 雲空から降る雪。


 その隙間に、一直線の射線が見えた。


 彼女の手に力が籠る。


 彼女が静かに息を吸う。


 分かる。


 俺も分かる。


 ノスフェラトゥが憎悪の視線を刺す。


 咆哮。


 関係ねェ!


 なぁ、ノスフェラトゥ‼︎




「テメェ(貴様)は俺(私)がぶっ潰す!」




 その光は、一瞬だった。


 一閃だったともいえる。


 光は大きく、ノスフェラトゥを飲み込み。




「————弱虫共くそが————」




 音は、いとも簡単に消し飛ばされた。

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