008 星の瞬きもしない退屈な空に

 桑ノ助は良い奴だ。だからこそ、これ以上迷惑をかけるわけにもいくまい。


 私は私で、この苦悩にケリを付けなくてはならない。

 

 そうして私はあの男とまた戦わなくてはならないのだ。


 今度は夜と昼の狭間ではなく、昼の、あの光の世界の住人として。


 立ち止まり、見上げる。


 いつも見慣れた場所のはずなのに、今日は何と禍々しく見えるのだろう。


 朝から嗅覚が冴えていた。


 だから血の匂いと肌に伝わる嫌な感覚を頼りに歩けば、その違和感の渦巻く場所へは容易く辿り着けた。


 自分の体が人間からかけ離れていくのはよく分かる。


 だがそれは、ノスフェラトゥに近付く手段が増えたという事だ。


 覚悟は決まった。


 彼のやさしさを浴び、私が何をすべきか悟ったのだ。


 門を抜ける。


 東校校舎、屋上。


 見上げればそこに立つ人影が良く見える。


 女子用のブレザーに身を包み、女生徒の首筋に牙を突き立てている黒い長髪の女。


 紅い眼鏡をかけ、古風な、大人し気な幼顔の少女だ。


「悍ましいほどに美しいな、ノスフェラトゥ」


 睨みつける。


 女は私を見下ろした。


 待ちに待ったと言わんばかりに。


 今丁度退屈していたのだ、と物語る表情で。


 ————『聖十字の棺』よ、私に力を貸せ!


 十字架を空中で大きく旋回させる。


 手が、灼けるように熱い。


 風を切る金属製の音が周囲に響く。


 ゆらゆらと十数人の生徒が姿を現した。

 

 皆、朦朧とした瞳をしている。


 焦点のあっていない不安定な歩行。


 彼らは皆ノスフェラトゥに軽く噛みつかれ、傀儡にされている。


 ぞろぞろと私を取り囲む。


 そのまま動きを取れないようにしようとするのか。


 周囲に昏い光が落ちる。


 私の周り以外に人の気配を感じない。


 ……結界を張られたか。それとも新手の魔術か……。


 いや、考える時間は無い。


 『聖十字の棺』を土に突き立て、棒高跳びの要領で空高く跳びあがる。


 傀儡たちはいっせいに空中の私を見上げる。


 ああ、面白いほどに決まりきった運動だ。


「我が血の名の下に命じる。神にまします恵みの太陽——! 邪悪のはらわたに浄化の星光せいこうを照らしたまえ‼」


 光が周囲にはじけ飛ぶ。


 私の血が呻き、騒ぎ立てるのが分かる。


 息が苦しくなるのも分かる。


 私の生命力を生贄に、この武器は周囲に浄化の光をまき散らす。


 傀儡たちのぼやけた瞳に光が降り注がれていく。


 満ちた光は彼らから意識を奪っていく。


 一時の眠りだ。


 それに今のは大した生命力の攻撃じゃない。


 たかが数日分の寿命パワーだ。


 ばたり、と倒れた生徒たちによって作られた円。


 その中心に私は立っていた。


 十メートル先。


 玄関前に土煙が立つ。


 晴れていく煙の中、ノスフェラトゥが髪をぴくりとも揺らさずにそこに居た。


 そこに居ることが当然であるという風に。


 瞳は光を宿していない。


 総てを見下すような、冷たい瞳。


 空に月などないのに。


 空に在るのは雲だけだというのに。


 太陽も、星も見えないその空に月があるかのように。


 雪が降り始める。


 まるで彼女を讃えるが如く。


 静かに。


 美しく。


 彼女は完璧だった。


 殺意も、悲哀も、歓喜もない。


「驚いたわ。その身が化物に堕ちようとしているのに絶望していないなんて」


「絶望はしているさ。ただ希望を見失っていないだけだ」


 彼女はそれをひどく退屈そうにに聞いていた。


 それは失望するかのように。


「つまらないのね、貴女」


 パチン、と指を鳴らす。


 同時にぐあっと視界が眩んだ。


 におい。


 意識を揺らす、魅惑的なにおい。


 真上を見上げる。


 厭な予感を感じて。


 空中。


 大きな血の球体が浮かんでいた。


 赤黒いそれは、ぽとぽとと雫を滴り落とす。


「まだ理性を失うほど血が飲めていないから、貴女はまだ強気でいられるの。だから、これはご褒美とでも思ってちょうだい」


「————貴様ッ」


「おめでとう、ハンターさん」




 血の球体が弾ける。


 血が、多量に降り注いでくる。


 頭が、くらくらする。


 視界が歪んでいく。


 体を血が満たしていく。


 意識を妖気が侵していく。


 染められていくようだ。


 私が私自身に塗り替えられて……。


 嗅覚が、敏感になっていく。


 街中の声が頭の中に響いていく。


 割れそうだ。


 狂ってしまう。


 私の、心が。




 ——————花宮古——————




 聞こえた。


 街のどこかで私を呼ぶ声が。


 桑ノ助だ。


 私を探しているのか。


 だが遠い。


 私の元までたどり着くことはないだろう。


 いしきをなくすわけにはいくまい。


 目をこらそうと必死にひとみをあける。



 真横に、ノスフェラトゥがいた。




「あいたい人がいるのね」


 みみもとでささやく。


 のうにことばがとける。


「大切な人なのね。恋人、親友、家族……そのどれにもなりきれてないのかしら」


 ふらふらする。


 ふわふわしている。


「あえばいいじゃない。いますぐ」


 だめだ。


 いまあえば、わたしはあいつをおそってしまう。


 それは。


 それだけは。


「そこまでして我慢する必要なんてあるかしら」


 ある。


 だってくわのすけは。


 いきが、とまる。


 ノスフェラトゥが。


 じぶんのてくびをかみ、きった。


 ちが、ながれる。


 だらだら


 だら、だら


 めを、はなせない


 ノスフェラトゥは、わたしにそのてくびをちかづけて。


 むりやり。


 くちに、ながしこむ。


 どろり、とあついものがはいりこんでくる。


 したをつたう。


 血だ。


 血の味だ。


 赤く、芳醇な。


「吸っちゃえ」


 わたしがきえる……


 タガが


 ハズれて…………

 

 ——————————————————


 ……アア。


 …………桑ノ助。


 イマスグ、アイにユキタイ

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