第46話

「行こう」


 ジェサミンが立ち上がり、階段へ向かう。 


「は、はい」


 ロレインは慌てて後を追った。息を詰めて階段を降り、もと来た廊下を足早に進む。二つ目の角を曲がった途端に、サラの姿が目に飛び込んできた。

 監視役──実は護衛でもある──の皇の狂戦士に睨まれて、サラは青ざめてぶるぶる震えている。

 彼女はその場に座り込んで、小さな子どものように大声を上げて泣き始めた。

 特殊なガラス越しではなく、じかに見る彼女はもう少しも美しくなかった。すっかり肌が荒れているし、髪にも艶がない。

 部屋から出てきたエライアスが、そっと両手を彼女の肩に置く。

 わずかな距離しか離れていないのに、二人ともロレインに気が付かない。もちろん変装のおかげだ。彼らの顔をしっかり見たいロレインには、ありがたいことだった。


「サラ……ヴァルブランドの方々に、迷惑をかけてはいけない」


 消耗し、やつれ切ったエライアスは、これまでに見たことのあるどのエライアスとも違っていた。厳しい未来から逃れることができないことを悟っている──そんな顔だ。

 彼らがここまでひどい状態になったのは、ほぼすべてが自らの行いのせい。同情の余地はない。ロレインが皇后にならなくても、いずれ誰かが反旗を翻しただろう。

 ロレインから見られているとも知らずに、サラは駄々っ子のように泣き続けている。彼女の傍らに、エライアスが膝をついた。


「ほら、行くよ」


 すっかり力が抜けたサラの体を、エライアスが両腕で抱くようにして立ち上がる。

 ロレインがマクリーシュを旅立ってから、もうすぐ二か月。その短い間に、エライアスとサラは幸せの絶頂から絶望までを味わったのだ。


「あの子はこれからようやく、現実を直視するんですね……」


 ロレインは小さくつぶやいた。

 サラのやったことを思えば、彼女は罪悪感を覚えるべきだし、深い自責の念に苦しむべきだと思う。ロレインを含む、心の傷や屈辱を受けた人のためにも、己を見つめ直して反省してほしいと思う。

 エライアスはサラを引きずるようにして部屋に戻り、もうひとつの続き部屋の奥へと消えていった。


(さようなら、エライアス)


 人生の最初の章が閉じた──そんな気持ちだった。

 子ども時代から思春期にかけて、ロレインはずいぶん苦しんだ。


『一歳年下の女の子より劣っていることが悔しくて、よそよそしい態度を取り続けた。傷ついたプライドを救いたかったんだ』


 エライアスの言葉を思い出す。婚約していた十年間、彼もまた葛藤し苦悩していたことがわかった。

 真剣に王太子妃として、王妃として生きていこうと思っていたし、その気構えは十分にあったつもりだけれど。たとえサラが現れなかったとしても、ロレインは報われることの少ない人生になったのではないだろうか。

 いまのロレインの幸せは、ある意味ではサラのおかげで──考えてみれば、何とも皮肉な話だ。だからといって、彼女に感謝すべきということにはならないとは思うけれど。


「国王夫妻とエライアスとサラ。奴等の処遇について、何か希望があるか?」


 ジェサミンに問われて、ロレインは少し考えてから「いいえ」と答えた。


「すべての決断は、ジェサミン様に委ねられるべきだと思います」


 ロレインは微笑んだ。


「正直なことを言うと……いまの私は複雑な感情に襲われていて、整理がつかないんです。一番勝っているのが、マクリーシュを救いたいという気持ちです」


「わかった。マクリーシュのために一番よかれと思うことをしよう」


 ジェサミンがうなずく。


「さあて、もう寝るか。明日は三つ子を思う存分遊ばせてやらねば」


 両手で髪をかきあげ、ジェサミンがにやりと笑った。


「ということは、四人はここで足止め……あ!」


 ロレインは自分の胸に手を当て、ジェサミンを見上げた。


「あの。私はこの城でも、皇后として仕事をしてもいいですか?」


「もちろん。自分のしたいようにすればいい」


「ありがとうございます。捨て置くのは私の流儀ではないというか、対処しておきたいことがあって。早速──って、この格好で『皇后です』って言っても、誰も信じてくれませんよね?」


 ロレインは動きかけてすぐに立ち止まった。ジェサミンがぷっと吹き出し、ロレインの背中を押す。


「俺と一緒なら問題ない。誰を呼べばいい?」


「ええっと、厨房と部屋係に指示を出したいのですが」


 ロレインはジェサミンと一緒に歩き始めた。心の中でもう一度「さよなら」を言う。エライアスたちの部屋を振り返ることはしなかった。

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