第45話

「父上はああいう体質で、長く苦しんでいる。環境が変わる旅行は辛いんだよ。ただでさえ僕らのせいで、このところ調子がよくないのに」


「侍医からは病気じゃないって言われてるんでしょ。苦手な物が多いって、ただの甘えじゃないの。それより私のことを心配してよ! ねえ、これから生活が一変するの? 私たちが王太子夫妻じゃなくなったら、誰が後釜に座るの!?」


「いい加減にしてくれよっ! 君のそのキンキン声で、気が変になりそうだよっ!!」


 怒鳴るエライアスを見て、サラは信じられないと言うように目を丸くした。


「な、なによ。守ってくれると信じて結婚したのに。私が望むものをすべて与えるって約束してくれたのに……っ!」


 サラがエライアスに鋭い視線を向ける。


「君だって約束したじゃないか。僕に安らぎを与えると。立派な王太子妃になれるよう、日々努力すると」


 エライアスが唇を歪めた。


「僕は愚かにもそれを信じたが、大嘘もいいところだった」


「ひ、ひどい。私だって頑張ってるのに!」


「そう? 僕は君と結婚してから、ただの一度も安らいだことがないよ。絶えず耳元で要求を叫ばれた覚えしかない」


「ひどい、ひどい──あなた、私のわがままを叶えるのが幸せだって言ってたじゃない! 私が愛したエライアスはどこにいっちゃったのっ!?」


 サラが身を乗り出し、激しい口調で言った。エライアスは椅子の背もたれに寄りかかり、両手で耳を押さえる。

 ロレインは我が目を疑った。おとぎ話の中のカップルのように熱烈に愛し合っていたのに。周囲が目に入らないほど、いちゃつくのに忙しくしていたのに。


「いまさら君を責めても仕方がないな。僕はむしろ、自分を責めるべきだ」


 そう言ってエライアスは、全身から力が抜けたようにうなだれた。


「僕は小さい頃から出来が悪かったからね。親を失望させるのは珍しいことじゃなかった。いつだって、駄目な方にわざわざ首を突っ込む……」


「な、何を言い出すのよ」


 サラは疑わし気な目でエライアスを見た。


「黙って聞いてくれ、僕なりに心の整理をしているんだから」


 エライアスは突然、不気味なほど低い声になった。サラが唖然とするほどに。


「確かにさ、父上は病気とは診断されていないよ。でも父上の人生は、控えめに言っても障害だらけだったんだ。誰にも理解されない体調不良が続けば、長生きできないと思っても仕方がない。ひとり息子は才能が欠如しているし……後のことを、すべてに秀でた人物に任せたいと考えたんだよ」


「それって……」


 サラは言いかけたが、鋭く睨みつけられて口を閉じた。


「そうだよ。慈悲深い領主として人望の厚いコンプトン公爵の娘──八歳にしてたいそう評判のよかったロレインだ。父上は僕に、彼女のような向上心を持ってほしかったんだ。僕は欠点を指摘された気がした。父上とロレインに対する反抗心がむくむくと頭をもたげたよ」


 エライアスは顎を上げ、ふっと息を漏らした。


「ロレインだって、なりたくて僕の婚約者になったわけじゃないだろうに。不当に彼女を責める権利なんかなかったのに。一歳年下の女の子より劣っていることが悔しくて、よそよそしい態度を取り続けた。傷ついたプライドを救いたかったんだ。気が付いたら彼女は、僕に変化を期待することをとっくにやめていた」


「ど、どうしてそんな話をするの……?」


 サラに非難の眼差しを向けられても、エライアスはおざなりな返事すらしない。


「自由に恋愛が出来たら、どんなにか幸せだろうって思ってた。ひと目惚れがどんなものか知りたい、きっと素敵だろうなって。そして君に出会って……なんて可愛い子だろうって感動したんだ。君こそが運命の相手だと」


「そ、そうよ! 私があなたに、いままで経験したことのない喜びを与えてあげたのよっ!」


「そうだね。僕はすっかり君に惚れ込んで、現実を見失った。こんな惨状の中で暮らすことになるとも知らずに」


「なんですってっ!?」


 サラの目つきが一層険しくなった。エライアスが静かに笑う。


「君がロレインのことを嫌うのは、やきもちを焼いているからだと素朴に信じていたんだ。十年も婚約者だったから、妬んでるんだろうって。でもさ、サラ。君はロレインに嫌な思いをさせるのが楽しいだけだったんじゃないか? 君って誰かを傷つけるとき、ひどい目に遭わせるとき、これ以上ないほど幸せそうだよね」


「ひどい、ひどい!」


 サラはわめき、椅子に座ったまま足をバタバタさせた。


「わ、私はただ、あなたの心の中心にいたかっただけよ!」


「だったらどうして僕の支持者や、侍女になってくれた令嬢たちにまで『得意の戦術』を教えたの。嘘をついたり欺いたりして、他人の婚約者を奪う方法を。身に覚えがないとは言わせないよ」


 サラがぎくりとした顔になる。だが次の瞬間には、すっかりむくれてしまった。


「だって、高位貴族っていうだけで決められた相手としか結婚できないなんて、可哀そうだと思ったんですもの!」


「高位貴族の婚約者はやっぱり高位貴族だよ。婚約破棄が多発して、踏みにじられた側の貴族から、僕たちはかなり恨まれてる……」


「あ、愛がなければ、結婚なんて上手く行くはずがないわ! 私は水を向けただけで──婚約破棄を選んだのは本人たちよっ!」


「ありもしない話をでっちあげて、中傷に満ちた噂を広め、相手を噂好きな連中の餌食にして。それこそが真相だと定着させる。ロレインのとき、僕は頭がお花畑になっていて──君を盲目的に溺愛するばかりで、何の疑問も持たず口出しもしなかったけど……君のやったことは残酷すぎたよ」


「私ひとりのせいみたいに言わないで!」


「うん──ごめん。僕はすべての報いを受けるだろう。いいや、すでに受けている。愛に目が眩んで、君に贅沢極まりない生活を許し、マクリーシュの財政を破綻させた。君が他人の婚約をめちゃくちゃに壊すのも止めなかった。僕を信頼し、敬意を抱いてくれる人なんて、もうどこにもいない」


「もうたくさんっ!」


 サラは荒々しく席を立って、毒のある目つきでエライアスを睨みつけた。


「あなたって本当に無能なのね。ごちゃごちゃ言ってないで、これからの身の振り方を考えてよ。私の望む富と贅沢を手に入れる方法を考えなさいよっ!」


 エライアスは世界中の重荷を背負っているかのように、がっくりと肩を落とした。


「無能は無能なりに、愚行の結果を潔く引き受けるよ……。君を増長させたのは僕の責任だ。恵まれた生活が続けられるはずはないが、一生の面倒は見る」


 顔を真っ赤にして口をぱくぱくさせるサラに構わず、エライアスはさらに言葉を続けた。


「サラ。何としてでも君を欲しがるような男は、もうどこにもいないよ。僕たちの悪影響で人生を乱された多くの貴族に、命を狙われるほど恨まれているんだから。自分たちの愚かさにきちんと向き合って、ひっそり暮らしていくしかない。それすらも、ロレインが許してくれたらだけど……」


「もういい! もう聞きたくないっ!!」


 サラは動揺したように大きな声を出し、扉に向かって駆けだした。廊下に出ようとする彼女の行く手を、皇の狂戦士たちが塞ぐのが見えた。

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