第39話

「いままで味わったことがないくらい幸せです」


 ロレインが言うと、ジェサミンがもう片方の手を伸ばし頬を優しく撫でてくれた。


「泣くな、泣くな。妻を幸せにするのが夫の役目だ。これからいくらでも幸せにしてやる」


 ジェサミンはにこにこしていた。彼がかなり酔っぱらっているとわかったのは、再びグラスを掴んで水のように一気に飲み干したからだ。

 ロレインは慌てて鼻をすすり上げ、ジェサミンにすがりついた。さっきより格段に顔の赤みが増している。


「ジェサミン様。ちょっと飲みすぎなのでは?」


「心配には及ばない。まったく最高の気分だ。いままでにないくらい舌が軽いぞぉ」


 ジェサミンがへにゃっと笑う。すさまじい威力の可愛さに、ロレインは身震いした。


(とんでもなく可愛い……けど、飲ませすぎた)


 ジェサミンは明らかにろれつが回らなくなってきている。ローテーブルには彼が飲み干した酒のボトルが置かれていた。


(普段はアルコール度数の高いお酒でも、まったく乱れない方だけど。今日はがぶ飲みしてたしなあ。模擬試合で疲れていたせいで、酔いやすかったのかも)


 こんなに酔っぱらったジェサミンを見るのは初めてだ。


(正直な気持ちが聞けてよかったけれど、さすがにこれ以上は……)


 ジェサミンの手が空のボトルに伸びる。彼は「ううん」と唸って、ボトルをおもむろに床に転がした。


「おかわりが必要だ」


 そう気楽に言って、ジェサミンがふらふらと戸棚に向かう。ロレインもびっくりして立ち上がり、彼の腰に腕を回して体を支えてあげた。


「神経を落ち着かせるには酒が一番だなぁ」


 ジェサミンの手が、超がつくほど高級なボトルに伸びる。


「いやそれ、めちゃくちゃ度数が強いお酒……!」


 焦っているのはロレインひとり。ジェサミンは一旦こうと決めたら何があっても貫くタイプだし、酷く酔っぱらっているし、やめましょうと言ってやめてくれるわけがない。  

 彼はボトルを手にお気に入りのクッションまで戻り、ふらりと倒れ込んだ。


「ジェサミン様っ!」


「だいじょぶだってぇ」


 咄嗟に床に手を突いたロレインの頭を、ジェサミンはぐいと引き寄せた。そして額をロレインの額に押し付け、ぐりぐりとこすりつけてくる。可愛すぎて身悶えするしかない。

 すっかり出来上がってしまった筋骨隆々とした大男は、姿勢を正すとグラスになみなみと酒を注いだ。ぐびりと飲んで、照れたように笑う。


「まさか自分が恋に落ちるとはなあ。気が付けば二十四歳で、恋にときめく年ではなくなったと思っていたのに」


 頭を撫でてやりたい衝動にかられたので、ロレインは素直に従うことにした。


「気持ちいいな」


 ジェサミンがゆっくり浅く息をつく。


「気に入りましたか?」


「おう」


 にっこり微笑まれて、どうして手を止めることができるだろう。


「お前のことを知れば知るほど、惹かれてなあ。お前を喜ばせるためだけに、色んな事をした。実際の俺は仕事人間で、ひどく退屈な男なんだ。失望されたくなくてなあ」


 ジェサミンはそう言って、もうひと口酒を飲んだ。


「俺の年齢で、初恋だぞ。実らないとしたら悲しいことだろう。そりゃ、お前は皇后になった現実を受け入れてくれたが。片想いだと思ってたし、嫌われるのが怖くてなあ。崩壊しそうな精神を強くしてくれるものが欲しくなった」


「好きって言葉ですか?」


「おう。世間の男たちは楽々と恋の駆け引きをやってのけるのに、俺ときたらまるで五歳児だったろ。わからないなら尋ねればいい、という単純な思考回路だ」


 ロレインも微笑まずにはいられなかった。


「ジェサミン様が精一杯努力してくれていること、わかってました。それに私だって、出会った瞬間から惹かれていたし……」


 ジェサミンは傲慢なのに嫌味なところがこれっぽちもなく、強引な態度の奥に思いやりが見え隠れしていた。ロレインは最初から、そういった内面がたまらなく魅力的だと思っていた。


「そ、そうだったのか? いやまあ、俺ほど申し分のない男はこの世に二人といないしな!」


 うはははは、と笑って、ジェサミンがグラスを空にする。おかわりが必要そうな顔をしているので、半分だけ注いであげた。


「お前を惚れさせるのは、不可能な挑戦じゃないと思ってたんだ。俺は常に望みを捨てない男だからなぁ!」


 豪快にグラスを煽り、ジェサミンはロレインの肩を掴んでぐいっと引き寄せた。


「エライアスなんぞにお前はもったいない! お前を愛する俺との暮らしこそが、お前にはふさわしいのだぁっ!」


 ジェサミンはロレインの目を覗き込んで、にやりとした。


「サラなんぞと一緒になって幸せになれるか、はなはだ疑問だ。あいつの女の趣味は最悪だ。それに引き換え、俺の女の趣味は最高に良いっ!!」


 ジェサミンは得意になって大声で笑う。それから、なぜかぺこりと頭を下げた。


「ありがとなぁ、ロレイン」


「お礼を言わなければならないのは私のほうですよ……」


 婚約破棄という不当な目に遭って、傷ついた心がすっかり癒されてしまった。いまだかつて、これほど幸せだと感じたことはない。


「む……さすがに頭がぼうっとするな」


 ジェサミンが目をこする。どうやらまぶたが重くなってきたらしい。ロレインは彼の肩に手を回し、背中にその手を滑らせて「膝枕をしてあげます」とつぶやいた。

 その言葉には理性を失わせる力があったようで、ジェサミンは顔を真っ赤にしてもじもじしている。


「どきどきしてますか?」


「おう、すごくな」


「膝枕はきっと気持ちいいですよ。さあ、ジェサミン」


 あえて『様』抜きで呼んでみる。なんだかいい気分だ。ジェサミンはおずおずと横たわり、すぐにうっとりした顔になった。


「ロレイン……俺はいま、またお前に……」


 とんでもなく可愛い夫の頭を撫でながら、ロレインは「また?」と聞き返した。


「惚れた……全力でお前を愛して……」


 酔いが完全に許容範囲を超えたらしく、ジェサミンの言葉はそこで途切れた。穏やかな寝息が聞こえてくる。


「しらふのときにまた言ってね、ジェサミン」


 自分の声が、眠っているジェサミンの意識の中に響きますように。ロレインはそう祈りながら、生涯ただひとりの人の頭を撫で続けた。

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