第38話

「いまにして思えば『前兆』というやつだったのかもしれん。本当に不思議な感覚だった。心の中の深い部分がかき乱されて……何か意味があるような気がして仕方なかった。オーラなどという厄介な奇跡があるのだから、俺にぴったりな娘と出会えるような奇跡も起こらないものかと、心の底から願った」


 ジェサミンはふうっと息を吐き、両手で髪を掻きまわした。


「身上書を繰り返し読んでも、お前への好奇心は到底満たされない。あまりにも心がざわつくものだから、お前がヴァルブランドに到着した日に、こっそり宮殿を抜け出して会いに行ったのだ」


 前髪が下ろされて、ジェサミンの顔の上半分を覆い隠す。ロレインは小さな声で「まあ」とつぶやいた。


「確かに思わぬ場所で、しかも絶妙なタイミングで出会ったと思っていましたが……」


 大きくて強靭そうな肉体を持った、野性的で恐ろし気な雰囲気の男性に激突した日のことを思いだす。


「普段の俺は、皇帝としての自分に誇りを持っている。だから気ままに行動することはない。あの日は朝から興奮を隠しきれず、そわそわしている俺を見かねて、ケルグが理解と同情が混じった口調で『会いに行ったらどうですか』と言ってくれたのだ」


 そう言って、ジェサミンが前髪を後ろに撫でつける。野性味のある端正な顔立ちがあらわになった。


「顔を隠していたのは、その方がオーラをしっかり抑え込むことができるからだ。国民の前ではそうする義務がある。それに実際のお前を見たら、予想を修正する必要があるかもしれん。報告とは違って強欲で恥知らずな女だったら『お前を愛することはない』のひと言で追い返さねばならんからな。あの時点では、正体を隠さざるを得なかった」


 そう言ってジェサミンは、気まずそうに顔をしかめた。


「俺の皇后になる女は、誰であれオーラに耐えられなければならない。だが、それだけで国で一番重要な女になどしない。できるか、そんなこと」


 ジェサミンは真剣な表情で、真っすぐロレインの目を見つめた。


「皇后は多方面に影響を与えることができる。宮殿の未来だけじゃない、国全体と国民の未来もかかっているからな。真に価値のある女だと確信できない限り、その地位を与えるつもりはなかった。俺の代が皇后不在になる覚悟は、とうの昔にできていたし」


 ジェサミンの言葉を聞いて、嬉しい、とロレインは思った。

 彼の強い意志、皇帝としての並々ならぬ覚悟、統治者としての良識──サラと出会った日のエライアスには、欠片もなかったものたちだ。王太子の義務として、恋愛感情より国益を最優先しなければならなかったのに。


「不安と期待、緊張、いつにない高揚感。祭りの会場でお前を探しながら、体が震えたな。一体何が待ち受けているんだろうってな。救いの女神か、それとも……」


 ジェサミンは息を吐き出すように「狂おしいというか、身が焦がれるというか」とつぶやいた。


「白と見まがうほど淡い金髪の、ほっそりした娘を見つけた。肌は白く透き通っていて、瞳はとてつもなく美しい緑色。化粧っ気もないのに、その娘がにわかに輝いて見えた。綺麗とか可愛いとか、そんな言葉では言い尽くせないと思ったな」


 ロレインは顔が赤くなるのを感じた。褒められすぎて恥ずかしいけれど、心の中で喜びが膨れ上がる。


「女神を見つけたと思った。まるで現実とは思えず、夢を見ているような気分になった。ふわふわ浮いているような足取りでお前を追いかけた結果、ぶつかってしまったわけだが」


 あのときのジェサミンがそんな状態だったなんて、想像もつかなかった。

 ロレインはまじまじと彼を見つめた。顔の赤みは照れているせいか、酔っているせいか──多分、どちらもなのだろう。


「男としての俺はお前に見とれていたが、皇帝として俺はお前をしっかり観察していた。本当は髪をかき上げたかったが……あのときの俺は興奮しながらも警戒心に満ちているというおかしな状態だったし、格好いいとはとても言えなかっただろうよ。顔を隠していてよかった」


 ジェサミンがグラスを空にした。ロレインは黙って酒を注いだ。


「前髪の隙間から、お前の目を覗き込んだ。お前は目を逸らさなかった。負けじと俺を見つめ返してきた。二十四年生きてきて、あんなことは初めてだった。俺の目には荒々しいオーラの片鱗があったはずで……あの瞬間、お前がオーラに耐えられる希少な存在だとわかったんだ」


 ジェサミンは深呼吸をして、さらに言葉を続ける。


「お前の内面が知りたくて、よく注意して見ているうちに、小さな子どもがお前にぶつかった。子どもの頭を撫でる姿が聖母に見えたな。思いやりがあって、寛容な心の持ち主だとわかった。間違いなく心正しい人間だと」


 目をつぶって天井を仰ぎ、ジェサミンは口元を緩めた。


「オーラが強すぎて愛する人を作れず、尽きせぬ孤独にさいなまれていた俺だ。胸が躍るに決まってる。しおれた植物に水が与えられたように、全身が生き返ったような気分だった」


 ジェサミンは目を開いて、こちらに向き直った。ロレインの頭に血が上りそうなほど熱いまなざしだった。


「つまり、お前のあの行動を見た瞬間に、はっきりと恋に落ちたんだ。生まれて初めて『神様ありがとう』と思った」


 ロレインの目に、たちまち熱いものが込み上げた。

 心のどこかに、オーラに耐えられるから皇后に選ばれたのでは、嫌だと思う気持ちがあったのだ。

 オーラ耐性よりも、外見よりも、慎重に内面を見てから好きになってくれたことがたまらなく嬉しい。

 ロレインはジェサミンの手をぎゅっと握り「嬉しいです」とつぶやいた。 

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