第37話

 聞き取れないほどか細い声だったので、ロレインはジェサミンの唇の近くに耳を持って行った。


「あの、声が小さすぎて。もう一度お願いします」


「ぐ……」


 ジェサミンの頭が傾き、ロレインの肩に重みがかかる。彼がロレインの首筋に額を押しつけたのだ。


「ええい、ままよ、と言ったのだ……」


 顔をあげたジェサミンが、足場を失ったようにその場にくずおれる。ロレインも慌ててしゃがみ込んだが、彼は恥ずかしそうに顔を背けてしまった。


「俺は、その、こういった感情を言葉で表現するのが苦手なのだ。お前には何度も言わせたというのに、自分の番になった途端に口をつぐむなんて、卑怯だよな」


 そう言って、ジェサミンは両手で顔を覆った。


「くそう、俺ときたら……体ばかりが成長した木偶の坊だ」


「ジェサミン様は、申し分なく素晴らしい男性ですよ?」


 ロレインは思わず手を伸ばして、ジェサミンの頭を優しく撫でた。


「どんなときでも自信満々に振る舞うのがジェサミン様のやり方で、弱みを見せるのが嫌いなんですよね。努力の大切さを知っているけど、その努力を他人に気づかれないことも同じくらい大切だと思ってる」


「おう、それが俺だ。いつでも格好をつけることばかり考えている」


 ジェサミンが指の隙間からこちらを見てくる。ロレインはじっと彼の目を覗き込んだ。


「ジェサミン様は強いです。尊大で傲慢、それでいて優しい。オーラがあるばかりに女性と深い付き合いができないでいたから、内に秘めた劣等感があるんですよね。ギャップって言うか、コントラストって言うか、私の目にはとても魅力的に映ります」


 ロレインはジェサミンの耳元で囁いた。


「そういうところも好き」


「ぐ…っ!」


 自分なりの言葉で精一杯表現した結果、ジェサミンがみるみる赤くなった。


「小悪魔め、俺をどぎまぎさせて楽しいか!?」


「ち、違います! 私はただ安心感を与えたいだけです。私になら弱みを見せても大丈夫だから、ほっとさせてあげたいなって」


「ほっとできるか! 可愛すぎて思考力が麻痺するわっ!!」


 そう叫んだ途端にジェサミンはむせて、咳き込んでしまった。ロレインは大慌てで彼の背中をさすった。

 咳が止まるころには、ジェサミンは見るからにぐったりしていた。

 ロレインはしょんぼりした。ジェサミンをこんなに悩ませてしまった。自分はやっぱり、とんでもない悪魔なのだ。


「……酒」


「え?」


「酒、飲んでいいか? 俺だって、そのう、ちゃんと言うべきだとは思っているんだ。だから、酒の勢いを借りたい。少し飲んだら思考力が戻ってくるかもしれん」


 ジェサミンの声がちょっと哀れっぽい。子犬を思わせる瞳で見つめられて、ロレインはこれまで経験したことがないほど胸がきゅんきゅんした。


「すぐにお持ちします!」


 ほんのわずかな時間も視線を逸らしたくなかったけれど、ロレインは立ち上がって戸棚へと駆けて行った。練習の時間には必須のアイテムなので、お酒の種類は充実している。

 ジェサミンの好きな銘柄をグラスに注ぐ。自分用のグラスには控えめに。ジェサミンの言葉を聞く前に、感覚を鈍らせたくなかった。

 ジェサミンはグラスを受け取り、一気に飲み干した。お代わりを求められるたびに注いでいたら、ジェサミンの体のこわばりがほぐれた。


「すまんな、悪気はなかったんだ」


 完璧に無防備な、とろけるようなまなざしを向けられて、ロレインは心臓が止まるかと思った。普段は酔わないジェサミンだが、今夜は甘んじて酔いに身をゆだねるつもりらしい。


「お前の前では、何もかも知っている男のふりをしたくてだな。あれこれ調べて、百戦錬磨の男っぽく振る舞っていた」


 ジェサミンはばつが悪そうに首の後ろをこすった。


「どこから言うかな……」


 言葉を探すような表情になって、ジェサミンはぎこちなく続けた。


「身上書を見た日から、俺はお前に半ば恋していた」


「え!?」


 マクリーシュ国王やエライアスの手が入った身上書の、どこに恋する要素があったのか。

 そう聞きたかったが、口が麻痺したように上手くしゃべれない。

 明らかにうろたえているロレインを見て、ジェサミンがにやりと笑った。


「かかる時間を考えろ。お前の旅は三週間だったが、俺の船なら一週間だ。すこぶる有能なうちの外交官が、お前についての報告を先に送ってきていたんだ」


「あ……」


「言っちゃ悪いが、マクリーシュはちっぽけな貧乏国だ。だから大使は駐在させていないが、隣国のガルニエにはいるからな。当然、マクリーシュにも抜け目なく目を光らせている」


 ジェサミンがグラスを煽る。


「もちろん婚約破棄のことは書いてあった。エライアスの心変わりと、サラの野心の犠牲になって、大変な不名誉をこうむったことがな。女の名誉は男に比べて簡単に傷がつく。不憫な娘だと思った」


 ロレインは頬が熱くなるのを感じた。ジェサミンがさらに続ける。


「うちの外交官には人を見る目がある。身上書には、興味をそそられる長所がたくさん書かれていたぞ。真面目な性格で、穏やかで思慮深く、謙虚すぎるほど謙虚。心優しく温和だが、意志が強くて頭の回転が速い」


「そんな風に書いて下さっていたのですね。嬉しい……です」


 ロレインは泣きそうになった。

 サラから偽の噂を広められたあとは、社交界からつまはじきにされていた。

 道を踏み外したのはエライアスなのに、誰もがロレインを悪く言った。ヴァルブランドの大使が、ちゃんとロレイン自身を見ていてくれたことが嬉しかった。


「俺の元には世界中から身上書が集まる。だが、お前が身に付けた教養の素晴らしさは際立っていたぞ。俺は不思議と、文字の羅列に惹かれるものを感じた。この娘なら、もしかしたら……」


 ジェサミンが熱いまなざしで見つめてくる。ロレインは頭がくらくらするのを感じた。

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