護符と巫女

 「煉瓦の街」に入って初めて、二人は河岸に出た。河の幅はあまりに広すぎて向こう岸が見えない。ひたひたと水が押し寄せる様を見て、光一はここへ来たとき「”水の砂漠”に独り取り残されたようだ」と思ったことを思い出した。でも、今は。今は心強い案内人がいる。


 光一は隣を見た。ちょっと華奢だが、少年といっても十分通用するナイア、いやミツルが鼻歌を歌いながら歩いていた。


「あそこに橋があるわ」


 ミツルが指差した。確かに河岸から河の中へ向かって木造りの橋が差し出されている。河の方は広大なのに、その橋は幅が狭く頼りなげで、またその上を歩く人も少なくもの寂しげに見えた。

 それをミツルに伝えると、例のごとく明快な返事が返ってきた。


「だって、橋を渡る人なんてあまりいないもの。片道だけでも1時間ほど掛かるんだそうだもの。そんな人通りの少ない橋を大きくする必要ないじゃない。前にも言ったけど、『土の国』では木材って貴重なんだから」

「『煉瓦の街』で暮らしている人は渡らないの?」

「渡る必要ないでしょ。橋のこっち側の街だけでも生活に必要なものは揃うし。私達の旅の準備だって十分整えられたじゃない。こっちになくて、あちらにあるのは『上り船』乗り場、あちらになくてこっちにあるのは『下り船』降り場だけ」

「じゃ、この橋を渡るのは旅をする人くらいなんだ」

「そ。で、さんざん言ってるけど、旅をする人間っていうのは限られてるのよ」


 ミツルの言うとおり、橋の上は閑散としていた。ミツルはとても嬉しいらしい。人気が途絶えたときには、くるくる回ってみたりまるで小さな子供のようにはしゃいでいた。


 確かに橋は長く、いくら歩いてもなかなか対岸が見えてこない。広い河を橋から見渡してもやはり水面しか見えない。河口付近だからあまりはっきりした流れはなく、海が近いせいか潮風が吹いていた。


 ようやく対岸が見えてくるとミツルは駆け出さんばかりとなった。ミツルにとっての新天地。誰も自分を知らないという自由さが彼女を呼んでいるのだろう。歩き疲れた光一は、さっさと駆け出していく彼女の背を眺めながら後ろをマイペースで歩いていた。


 ミツルに追いついたのは、ミツルが一軒の店の前でなにか紙切れを手にしているところだった。


「なあに、それ」

「護符よ」


 ミツルはあまり興味のない様子で答えた。

 店の中から、彫は深いが頬のたるんだ年配の女が光一に言った。


「おや、あんた『海から来た者』だね。これから二人で河を遡って皇都まで旅をするんだろう。それじゃあこの護符は絶対に必要だね。特にあんたは」

「あの、護符って何ですか?」

「あんた達を守るお札だよ。あんた達は生命の流れを逆行するんだからね。いろんな魔物や呪術者に狙われちまうよ」

「……?」


 怪訝に思う光一に、ミツルが説明する。


「前に言ったでしょ。人は死ぬと河に流されてその魂は魚になるって。魂は皇都の『海の源流』に降る雨となってこの世に降りてきて、河によって生まれる土地まで流される。そして、その生を終えると河を下る。これが生命の流れ」

「ああ、うん」

「ところが私達は人の形をとったまま、この河の流れつまりは生命の流れに逆行する、というわけ」


 商売女がすかさず割り込む。


「これはとんでもなく恐れ多いことだよ。生命の理に反するものだからね。これじゃ、魔物や呪に襲われても簡単にやられちまうよ。さあ、護符を買った買った。この護符が守ってくれるんだから」


 光一はミツルを見た。ミツルは商売女の脅かしにちっとも関心を示した風はなかったけれども、二枚買ってはどうかと光一に言った。それで光一も二枚その女から護符を買ったのだった。


「あの……魔物や呪術って、こっちの世界にはあるわけ?」

「みたいね。私も本でしか知らないけど」

「……この護符っていうので防げるのかな?」


 護符はごわごわと分厚い紙に、光一の見たことのない文字が数行に渡って書き連ねられていた。その文字が神秘的で確かになんだか霊験ありそうな感じだった。


「さーあ?」


 ミツルは声に抑揚をつけて、自分は疑わしく思っていることを声音で示した。


「だって、紙切れにありきたりの文句を書いているだけよ。旅の途中で皇帝と皇帝に屈服した妖魔とその眷属がこの者の道中を守ってくれますように、って。ただそう書いてあるだけ。文字の読めない人には何だか不思議なモノにみえるんでしょうけど」


 自分がまさにそう思っていたので光一は少しばかり恥ずかしい思いをし、それを誤魔化すために聞いてみた。


「じゃ、なんで買ったりなんかしたの? しかも君の分まで」

「旅をするものが皆買うものなんだったら、私達も買っておかないと怪しまれるかもしれないもの」

「なるほどね……」


 乗船場には船が泊まっていた。ナイアいやミツルの話から、光一はこの河がこの世界での主要交通手段なんだろうと思っていた。だから、タンカーとまでいかなくてもせめて見上げる位の大きさの船を想像していた。それが実際に泊まっているのは日本の漁村なんかにありそうなくらいの大きさの船だった。


 確かに、海と同様この河も水底が浅い。大きな船では航行できそうにない。この船も底が平らになっていて、光一が知っている船とは違う形をしていた。


「二人乗るわ……じゃなくて……えっと、二人乗るよ」


 ミツルは船の傍で煙草咥えている船員らしき人間に声を掛けた。途中で、女の子言葉を引っ込めて男の子っぽい言い方に変えている。


「もうちょっと待ちな」


 船員は煙草の煙をふうっと吹き出してミツルに答えた。


「俺も、もう一台荷物を積んだ馬車が来るのを待ってるところだ。その荷を積んだら出航する。まあ、それまでその辺をぶらぶらしてな」

「じゃ、河沿いでも歩いてる」

「ああ、また後でな」


 船員は再び煙草を加え、片手を上げて見せた。


 河岸には誰もいなかった。水底がはっきり見えるほどの薄さしかない河が、傾斜のない河原にひたひたと押し寄せている。光一はまた、海の砂漠で自分が感じた恐怖を思い出した。だから、ミツルに話しかける。


「ちゃんと、男言葉使うんだね」

「当たり前じゃない。もう私、男の子なんだから」


 でも、僕の前じゃ女言葉のままなんだ、ちょっと可笑しいような嬉しいような気持ちに光一はなった。しかし、ミツルは険しい目で前を見ている。


「どうかしたの」

「……何か変」

「何が変だって言うの?」

「あそこよ。……なんていうか、黒い霞みたいなのが……」


 ミツルの指差す先、二人から十メートルくらい離れたところに、確かに黒い靄のようなものが立ち上っていた。二人が息を呑んで見つめている内にそれはますます密度を増していく。やがてそれは黒い布を頭からすっぽり被った老婆の姿となった。


 光一はこんな老婆を見たことがなかった。不思議な現れ方や黒マントを別にしても、ここまで年老いた人間は初めて見る。

 彼の祖母は、父方母方どちらも健在だ。父方の祖母は、明るい茶色のカツラ――ウィッグというらしい――を被り、色つきサングラスをかけ、きっちりお化粧する人だ。母方の祖母は、化粧っけはないが、グレーの髪を上品に後ろで結い、なかなか素敵な洋服を着、できるだけ背筋を伸ばしている。


 目の前の奇妙な老婆は全く違っていた。黒マントから覗く顔の全体が皺だらけで、目の下も頬も肉が弛んでいる。皺と皺の間の皮膚もまるで干からびえているようだった。真っ白な髪をそのまま垂らし、髪と頭の重みに耐えかねたかのように腰を曲げ、杖に体重を預けてまっすぐ光一達を見つめていた。その瞳も白く濁って輪郭がはっきりせず、実際に見えているのかどうかわからない。


「……辻の巫女?」


 ミツルが暫く沈黙した後、こう呟いた。


「ツジノミコ? このお婆さんのこと?」

「黒い靄から姿を現し、黒いマントを被った老婆。辻の巫女についてそう書かれているのを読んだことがあるわ……でも」


 ミツルは眉間に眉を寄せていった。


「辻の巫女は、辻に出るはずよ」

「辻?」

「道が交差するところよ。辻の巫女はそこに現れて道行く人に予言を下すのよ。でも、ここは」


 ミツルは首を巡らせて言った。


「なあんにもない、ただの河原よ。辻なんかじゃない」

「辻は目に見えるものだけとは限らんのじゃよ」


 老婆が口を開いた。


「人と人との運命が交差するのも、私から見れば立派な辻じゃ」

「……ここで誰かと誰かの運命が交わろうとしているということですか?」


 光一が尋ねる。しかし老婆はそれに答えず、ミツルの方に視線を移した。どうやら目は見えるらしい。


「お前は戻ろうとしているね」


 ミツルはきっ、と辻の巫女を強く見て言った。相手が巫女だろうが何だろうが、こういう時の彼女の赤ワイン色の目の強さはかわらない。


「いいえ。戻ったりなんかしないわ。私は出て行くのよ。新しい人生に向かうの」


 巫女は別に気を悪くした風もなく淡々と言った。


「いいや、お前は戻ろうとしているよ。それは悪いことじゃない。だけど、今まで母親と平穏に暮らしてきた道からは大きく逸れることになるね」

「望むところよ。『浜辺の村』で蔑まれて生きていったって仕方ないもの。ただ、私は出て行こうとしているのであって、戻るわけじゃないんだけど?」


 巫女はミツルの疑問には答えずに言った。


「苦しいこともあるじゃろうよ。覚悟はできているのかい?」

「もちろんよ」

「ならばよい……」


 巫女の話が終わりそうだったので、光一は慌てて巫女に話しかけた。


「あのっ、あの……さっき運命と運命の交差するところ、って仰いましたよね。あのう、それって僕とミツル……いや、ナイアのことですか?」


 巫女はふふっと可笑しそうに笑った。この老婆が始めてみせる人間らしい表情だった。


「残念だが、そうじゃないね。本当を言うと、あんた達と別の者達の運命が交差するのはもう少し先じゃ。ただあんまり大きな辻になりそうなんでね。こちらのお嬢ちゃんの覚悟を確認しにきたのさ」


 光一はがっかりしてる自分に気が付いてちょっと戸惑う。僕はどんな答えを期待して、巫女にあんな質問をしたんだろう。僕とミツルとは運命の出会いだ、見たいな御託宣でも欲しかったんだろうか。光一は頬を赤らめる。


「それじゃあ、また、辻に差し掛かったら会いに現れることにしよう。それまで道中達者でな」


 巫女の姿がだんだんぼやけ、黒い靄となり、それも空中に拡散してしまった。後には何も残らなかった。


 ガラガラガラガラ――馬車の音が聞こえた。振り向くとその荷馬車は停泊している船に向かっている。

 ミツルが肩で大きく一息して言った。


「出航ね……」

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