時間の環

 船の客はミツルと光一以外に、貨物の運搬を生業にしている者が数人だった。船長と皆は顔見知りのようで雑談を交わしながら船は進む。


 河の流れは緩やかで、海からは風が絶え間なく吹き付けてくる。この船の大きな帆がその風を全身にはらみ、バサッバサッと空気を受け止める音とともに、船は軽やかに河を遡上していく。


「坊主、『海から来た者』か?」

「え、あ、はい。そうです」


 荷運びの男達は気安く光一達にも声を掛ける。


「へえ。俺はこんな顔初めてみたぜ。本当にのっぺりしてるもんだな」

「俺は前にいっぺん見たことあるぜ。やっぱりこの船便で乗り合わせたんだ。それにお前、皇都に行けばこれほどじゃないけど、のっぺり気味の顔の奴だっているもんだ」

「あの。僕以外の『海から来た者』に会ったんですか?」


 光一は勢い込んでその男に尋ねる。


「ああ、お前よりずっと年上で……そうだな、俺たちと同じくらいの歳の男だった。働き盛りだっていうのに随分くたびれた顔をしてたなあ」

「あの男か」


 別の荷運びも話に加わる。


「俺もその船に乗り合わせてたよ。本当暗い顔をしてたなあ。『元の世界に帰りたくない』って言うのを、案内人に説得されてたっけ」


 光一が複雑な表情で尋ねる。


「その人、帰りたくなかったんですか?」

「なんでも、向こうで首を吊って死のうとしたんだそうだ。踏み台に昇ったところまでは覚えてるが、その後気を失って、次に目が覚めたらこちらの海の中だった、とさ」


 別の男が訊く。


「そいつはなんでまた、死のうとなんかしたんだ?」

「なんだか、働いてた先から首にされたみたいなことを言ってたがなあ。それが死ぬほどのもんなのかねえ。別に俺たちみたいに荷運びになるなり、宿屋を開くなり、別の商売をはじめりゃいいと思うがね」


 そんな簡単な社会じゃないんだ、あっちは。光一は、その『海から来た者』に代わって説明してやりたかった。けれども光一自身も、大人の社会は大変だくらいしかわかっておらず、うまく説明することができない。


「でも、家族は待ってるだろうに」

「そうそう、それを言われてその『海から来た者』も帰る気になったらしいがね。坊主も早く帰って親を安心させてやれよ」

「……はい」


 僕だって必ずしも元いた世界に戻りたいわけじゃない。こちらの世界とどっちがマシか比べているところなのだ。そんなことは言えず、光一は俯いてそう答えるだけだった。


「で、案内人がそっちの坊主か」


 荷運びの一人がミツルに声を掛ける。


「は、はい。……あ、ああ、そうだよ」


 ミツルは慣れない男言葉にちょっと苦戦気味だ。


「随分細っこいけど大丈夫か。旅は長いぞ」

「大丈夫だよ」

「見慣れない顔だなあ。俺は『煉瓦の街』に普段住んでるけど、お前に会ったことはないよ」


 光一はひやりとする。ミツルの顔も少々強張っていたが、さりげなく返した。


「おじさんは、『煉瓦』の街のどっちに住んでるの?」

「上り船の出る側だ」

「わた……僕は、下り船降り場の方だよ。それも街外れに住んでる。たまたま浜辺に用事があって行って見たらこいつを見つけたんだ」

「ふうん。ま、俺も船を降りたらすぐ橋を渡って自分の家に帰っちまうからな。そっちの方をうろついたことは無い。知らない奴は一杯いて当然だな」


 その男は笑って話を収めた。光一もミツルも、控えめに大きく息を吐いた。が、次の言葉に二人はまた緊張する。

 船長が言った。


「まあ、案内人が普通の奴で良かったよ。やっぱり『海から来た者』は海に現れるからさ、『浜辺の者』が案内人になることもあるんだ」

「浜辺の者?」


 光一が嫌な予感と共に聞き返した。


「ああ、『砂浜の村』に住んでいる奴らだ。汚らしい連中だぜ」

「へっ」


 別の男が吐き捨てるように言う。


「『浜辺の者』なんかと乗り合わせんのなんて、勘弁勘弁」

「あんな気味悪い連中と長旅なんて、俺なら途中で降りて船を変えるね」

「坊主が『浜辺の者』でなくて良かったよ」


 一拍置いてミツルは答えた。


「……あんな連中と一緒にしないでくれよ」


 彼女のワイン色の瞳に強い光が浮かんでいる。それは言葉通りあんな賤民と一緒にしないでくれという怒りでもある。が、それとともに、本当は彼女自身がその賤民に生まれついてしまったのだという悲しさや悔しさも含んでいた。


「そろそろ昼飯にしようぜ」


 光一の緊張や、ミツルの複雑な葛藤をよそに、のんびりした声で船長が言った。そして、話題は全く別のものに移り変わっていった。



「山よ、山だわ!」


 と思わず女の子言葉で言ってしまって、ミツルは急いで辺りを見回す。幸い近くにいたのは光一だけで、他には誰も聞いていなかった。


「ほら、山があるじゃない」


 ミツル興奮した様子で光一を呼び寄せ岸の方を指差す。


「山……ていうか、丘じゃないかなあ」


 船は出港してからしばらくは、見渡す限り水平な牧草地の中を進んでいた。ところどころ木が行儀よく一列に並んでいるのが見えたが、あれは防風のためだと客の一人が教えてくれた。


 それがここにきて、地面に多少起伏がついてきている。けれども、三十分もあれば走って上り下りできそうな、牧草で覆われた丘を山だとは言いかねる。確かに、地平線ばかり見てきた目には、そんな丘でも次から次へと現れる風景は目新しいけれども、山だと思って興奮するのは間違いだろう。


「山っていうのは、もっと大きいものだよ」

「……そうか……」


 ミツルが顎に拳をあてて何かを思い出そうとしている。


「確か、登っても登りきれくらい長い坂道があるのよね。で、木がたくさん、それも無秩序に生えてるんでしょ。そして、熊とか狼とかふくろうとか見たこともない動物が一杯いるのよね。うん。母さんの本にはそう書いてた。そうね、あれは確かに山じゃない」


 真剣な顔で頷くミツルをみて、光一は笑って言った。書物でしか山というものを知らず、いちいち現実と照らし合わせて大真面目に確認する様がおかしかった。


「そうか、君は山を見たことがないんだもんね」

「あっちにはあったの?」

「うん。時々登ったよ」

「へえ。いいわねえ」


 丘は次から次へと現れる。荷運びの男の一人が遠くから声を掛けてきた。


「そろそろ『石の国』が近づいてきたぞ。牧草地が終わって森が見えてきたら『石の国』だ」


 いよいよ『土の国』を出ようとしている。男の言葉にミツルはぐっと唇を引き結んだ。光一の方も新たな局面を迎えて胸が高まる。


 ところが、何度もこの河を行き来しているはずの他の客たちまでもが、不安げにざわついてきた。


「何か……何か変じゃねえか」

「時間がかかりすぎる。いったい何時になったら牧草の丘を抜けられるんだ?」

「いつもはこんなじゃないよな。もうとっくに『石の国』の最初の港に着いている頃だ」


 光一は男達の方に近寄って聞いた。


「何か……変なんですか?」


 船長が厳しい顔で答えた。


「坊主、今あそこに赤い屋根の小屋があるよな。見えるか?」

「ええ、あれですね」

「覚えておいてくれ」


 船長はそう言うと、そのまま無言で船を前に進めた。他の客も船長と光一のやり取りの後、固唾を呑んで船の行く手を見つめている。船は沈黙を載せて丘陵地を進んでいく。


「やっぱりだ」


 船長が呻いた。さっきの赤い屋根の小屋が、行く手に現れた。


「さっきから何度も何度もあの赤い屋根の小屋に出くわすんだ」


 船長は苛立たしげに叫んだ。その船長に客達が口々に疑問をぶつける。


「どういうことだ?」

「遡ってないってことか? 船は進んでいるのに?」

「堂々巡りをしているような感じか?」


 船長はがっくりと肩を落として答えた。


「あれだ。『時間の環』だ。あれに嵌っちまったんだ」


 しばらく船の上は静まり返った。ややあってから誰かが尋ねた。


「『時間の環』……って何だ?」

「それに嵌っちまうと、同じ時間をくるくる回るんだよ。何というか時間が進まないんだ」

「船でいうと、同じところをくるくる回ってるってことになるのか」

「そうだ。俺も話だけは祖父ちゃんから聞いたが、こんなのは初めてだ」


 船長はそう呟いてから、はっと顔を上げて客全員の顔を見渡す。


「護符を、護符を持ってない奴はいないか?」


 誰も答えない。光一が船長に質問した。


「護符と『時間の環』と何か関係あるんですか?」


「『時間の環』が起きる原因は、はっきり一つと決まってねえ。だが、呪の力で起きることもあるらしい」

「誰の呪だよ」


 他の客が聞く。


「『生命の河』を遡るんだ。命の流れと反対方向に移動しようっていうんだからな。上りの船っていうのはもともと魔術や呪に掛かりやすい状態なんだ。だから、護符を皆持つんだが……」

 男の一人が上ずった声を上げた。


「お、おいらは護符を持ってるぜ。それにおいら、何回もこの河をその護符を持って往復してる。それでこんな目に遭ったことはねえ。だから、だから絶対おいらじゃねえよ」


 その男がそう言ったのを皮切りに荷運びの者全員が口々に同じような主張をした。


「この船に乗るのが初めての奴は……」


 その言葉とともに船上の全員の視線が光一とミツルに突き刺さった。


「何だよ、わ……僕だって護符は買ってあるよ」


 ミツルは大声で早速反論した。


「じゃあそっちの『海から来た者』か?」


 光一が何か言う前にそんな声が上がった。


「違うだろう。『海から来た者』は皇帝に歓迎される。皇帝のご加護があったっていいはずだ」


 船長が言った。


「そうだな。じゃあ、やっぱり案内人の坊主だ」

「違う。僕じゃない!」


 ミツルの抗弁を誰も聞かない。


「偽物の護符でもつかまされたんじゃないのか?」

「こいつか、こいつの親のどっちかが誰かに恨まれて呪を掛けられているんじゃないか?」

「とにかくこいつを置いていこう。大体『海から来た者』の案内なんて誰だっていいんだ。誰か俺たちの中で皇都まで荷を運ぶ者がついでにやればいい。船長、今度船を付けられるところがあったらこの坊主を下ろしちまおう」

「嫌だ! 降りない! 降りたくない!」


 蒼白な顔でミツルは叫ぶ。光一は自分の胸もドキドキするのを感じた。旅に出ること。それはミツル――いやナイアの積年の願いだったはずだ。差別、いわばイジメから逃げ出し、新しい人生を掴むための。ここで船を降りてしまったら、彼女の千載一遇のチャンスが失われてしまう。どうしよう、と考える前に光一は声を出していた。


「あ、あの」


 光一はミツルと男達が殺気立って言い争う声に、なんとか割って入った。


「あの……僕、僕は護符を持ってません。えっと、そんなのが要るって知らなくて」


 ミツルが呆気に取られた顔で光一を見ている。そして唇を動かして何か言おうとするのを光一は目で制した。


「だから、僕が船を降ります」

「でも、お前が船を降りるならその案内人だって船を降りてもらうぞ。この帝国では理由無く旅はできないんだからな」

「ええ。……ごめんね、ミツル。一緒に降りてくれるかな?」

「え? あ、ああ」


 光一とミツルのやり取りに誰かが声をかけた。


「謝ることなんかねえよ。まったく、船に乗るのに護符を持たせておかないなんて、なんて間抜けな案内人なんだよ」

「やれやれ」


 そういいながら、男達はめいめい自分の座り心地のいい所へ散っていった。


 しばらくたって、船から飛び移るのに丁度良さそうな岩が見えてきた。船長は船を横付けて、言った。


「悪いな。ここで降りてくれ。ただ、ここは『石の国』の国境のすぐ近くなんだ。もし呪が『生命の道』つまり河にだけ掛けられてるんなら、歩きでだったら国境を越えられるはずだ。河沿いを探せば街道に出る。その道を行けば半日足らずで『石の国』の国境に出るはずだよ。じゃあな」


 船は二人を降ろすと、再び河の真ん中へ戻り、風に吹かれて上流へ進む。二人は暫く岸に立ったまま船の行方を追った。船は広大な河の中をすいすいと運ばれていきだんだん小さくなって最後には見えなくなった。そして、二度と姿を現さなかった。



「なんで嘘なんかついたのよ? あなた護符は持ってたじゃない」


 船の影が消えると、ミツルがぽつりと言った。


「え? うーん。でも、ああ言わないと君だけ船を降ろされてしまいそうだったろう? 」


 ミツルは何か癪に触るといった表情のまま訊ねてきた。


「『煉瓦の街』でも随分私に同情してくれたみたいだけどね。私に同情なんて結構よ。私は自分の道は自分で開くんだから」


 そういうとミツルは河沿いに歩き始めた。光一はミツルの怒りに戸惑いをかくせないまま、きょとんとした顔で彼女の後に従った。


 ミツルは少し肩を張り気味にして早足で歩く。その背を見ながら、光一はこういうことだろうかと考えた。自分がイジメにあっているときも、何人かが解決するために世話を焼こうとした。担任の教師だったり、保健の先生だったり。助けて欲しい気持ちはあるけれど、僕は「イジメなんてありません」と彼らの申し出を突っぱねていた。プライド、というそんな輝かしい理由ではなかったように思う。何だか人の手を借りてしまうと、自分がひどく頼りない人間になってしまいそうな気がしたから。そんな理由だった。

 今ミツルが光一の手を借りたことに腹を立てているのは、これと似た気持ちがあるからかもしれない。


「あの……」


 ミツルが振り向く。


「君のためだけじゃないんだ。僕が、あの人達より君に案内して欲しかったんだよ」

「どうして?」

「船の上で、僕より前に来た『海から来た者』の話をしてただろう?」

「仕事を首になって死のうとした人のこと?」

「うん。でも、船の人達はそんなこと大したことない、仕事を変えればいいって話してた」

「それで船の人たちが嫌だったの? でも申し訳ないけど私も似たような感想しか無いんだけど……」

「会社っていうのは……うーん、何ていったらいいのかな。大きな商店みたいな所……これも違うかな。でもまあ、凄く大きな商店みたいなものに勤める人が多いんだ、あっちの世界は」

「ふうん」

「そこから出て行って一人になるっていうのは大変なんだ」

「そのカイシャ以外に働き先はないの? 農作物を作るとか荷運びをするとか」

「それはそれで元からそれを仕事をする人もいるし、会社に再就職が出来なかったら仕事を選んでいられなくて、初めてでもそういう仕事に就くことにする人もいると思うよ。でも……」


 そうじゃないんだ、と光一地面を見ながら溜息をつく。


「何か一つの集団から外れるととても辛い社会なんだ、あっちは。単に仕事を見つけるかどうかっていうことの前に、その人は自分が所属していた集団から弾き出されたっていう事実が辛かったんじゃないかなって思う」


 ミツルも光一のこの説明には興味を引かれたようだった。


「一人になると、ただ一人だっていうだけで、掌を返すような人もいるし……。何と言うか、その人がいた社会からは転落したかのような感じになるんだ」

「はぐれ者、って感じかしら」


 光一はちょっと目を見開いた。


「そうそう、そんな感じ」

「それは確かに辛いわね。村に所属してなくて、胡散臭いものを見るような目で見られて。まるで母さんと私みたい」

「僕もそんな感じなんだ。僕達は学校っていう強制的に文字とかいろいろ覚えさせられる施設に行くんだけど、その中でグループが出来るんだ。でもグループに入れない人間、つまり、はぐれ者なんかは目に見えないかのように無視されたりするんだ」

「似たようなものね」


 ミツルは天を仰いだ。


「あっちもこっちも人間て同じなのね。よくわかったわ。コーイチの話」

「うん、だから僕の気持ちを分かってもらえる人に案内人になって欲しかったんだ。だって、僕はここに居場所があったらこっちの世界で生きようって思ってるわけだから」

「ああ、そうか。私以外の人間が案内人だと『海の源流』から帰るしかなくなっちゃうもんね」


 それから柔らかな光を帯びた赤ワイン色の瞳で光一を見て言った。


「私達、似たもの同士だもの。一緒に頑張りましょう。――さて、まずは歩いて『石の国』を目指さなきゃね」

「うん」


 二人は微笑むと歩調を合わせて歩き始めた。そして間もなく細い小道は、きちんと整備された大きな街道に繋がっていた。

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