船に乗る前に

 その夜、ナイアは細々と光一に明日の予定を説明した。


「明日はこの街中で買い物よ」


 ナイアは楽しそうだった。やっぱり女の子は買い物が好きなのかな、と光一はのんきなことを考えていた。


「お店の前まで私が連れて行くけど、今日の様子じゃ実際の買い物は光一に任せた方がよさそうね」

「別に構わないけど。どうして?」

「私が買い物をしようとしたら、品物を床に放り出されるのが関の山よ。それを這いつくばって拾わなきゃなんない。それを見たら、あなたまた私のことを気の毒がってしまうでしょう?」


 光一は苦笑いして承諾した。


「だって、君がそんな目にあうの見てて辛いんだよ。僕が買ったほうがいいなら、そうするよ。で、何を買ったらいいの?」

「シャツ、ズボン、肌着、靴下、もちろん頑丈な靴――底に厚みのあるものね。これから石畳の道を歩くことが多いから靴は大事よ。それに――」


 ナイアは細々とした生活用品を挙げ続けた。光一が覚えられない、と言うと自分が覚えているから大丈夫だ、と請合った。

 


 実際、次の日ナイアはあちこちの店に光一を連れまわし、店の前でそこで買うべき品目を指示した。一軒あたりの買い物は多くても数点だったから、光一にも簡単にできた。


 光一にとっては、買い物は日本にいた時より楽かもしれなかった。彼の顔を見ただけで店の主人は彼が『海から来た者』だとすぐ理解し、必要なものを適当に見繕って品物を包んでくれる。そして光一は何もしなくて構わない。


 光一が日本で買い物が苦手だったのは、多くの商品の中から自分で欲しいものを選ばなくてはならないことと、会計を無難に済ませられるかどうか――例えば、お金が足りなくなって恥ずかしい思いをしないだろうか、とか、レジには若いお姉さんがいるのに何か場にそぐわない行動をしてしまって笑われやしないだろうか、とかいちいち緊張することだった。


 だけど、ここでは、光一は店の主人が選んだものをナイアのところに持ち帰るだけだ。そしてどんな品物を渡されようがナイアは別段文句を言わなかった。けれども、服屋の前に連れて行かれたときには光一はナイアに訊ねてみずにはいられなかった。


「あのさ、このまま僕が買い物してると男物の服しか包んでくれないと思うんだけど……。ナイアの分、どうしよう。女の子の分も下さいって頼んでみようか?」

「私が『砂浜の村』の者である限り、渡されるのは麻の袋よ」


 ナイアは自嘲気味に言った。


「男物をたくさんもらってきて。連れは男の子だって言って。大きさは、そうね。あなたと同じくらいのでいいわ」


 光一は、ナイアは麻袋が嫌でそれなら男の子の服の方がマシだと考えたのだろうと単純に思った。日本でもボーイッシュな格好を好む子がいるし、ナイアの性格なら似合いそうだな、とも。


「ええっ? 髪を切るの?」


 買い物を済ませ、宿屋の馬小屋に戻ると光一はナイアに鋏を手渡された。これで髪の毛を男の子に見えるように切ってくれ、と言う。


「でも僕、人の髪の毛なんか切ったことないよ。とてもできないよ」


 光一の頭には、同級生の女子のショートカットがあった。あんな風にするなんて絶対無理だ。


「上手でなんかなくていいから。男の子くらいの長さにして。それでいいから」

「でも……」

「こっちではね、特に裕福じゃなければ、床屋に行かないことは普通なの。みんな親が切ってるわ。下手糞な親だって一杯いるわよ」

「けど……」

「短くするだけでいいのよ」

「でも……もったいないよ、そんなに綺麗な髪なのに……」

「そんな甘ったるいこと言わないで!」


 ぴしゃりと、ナイアが言った。赤ワイン色の瞳が強く光っていた。


「私は別人になるの。生半可な気持ちで人生を変えたいって思ってるわけじゃない」

「…………」


 ナイアの迫力に気おされて光一は言葉を失う。


 ナイアの方も、言いすぎたと気がついた。でも、なんかコーイチは優しすぎるというか、考えが甘いというか、イラっとするところがあるのよね。そうナイアは思うが、やはりここは穏やかに説明するべきだろうと思い直した。


「明日、橋の向こうへ行くわ。私、今まで橋の向こうへ行ったことないの。向こうへ行けば私の顔を知っている人もいない。私はこれから男の子の振りをする。そして別人になりすます。もう私は、『砂浜の村』のナイアって娘じゃないの」


 それに、とナイアは光一をちょっとからかうような目で見た。


「皇都までの旅は長いもの。男の子の格好をしておいた方が安全だと思うわ。もし私が女の子の格好で危ない目にあったら、コーイチ助けてくれる? っていうか、助けられる?」

「無理……だと思う」

「ね。だから私は男の子になる。とにかく私の髪を切って頂戴。ただ短くするだけでいいから」


 光一は恐る恐るナイアの栗色の髪を一房手に取り、鋏で軽く挟んだ。そこから力を入れる決心はなかなかつかない。しばらく躊躇ってから、光一は目を瞑って鋏を持つ手を握った。


「えいっ」


 光一の拳に栗色の髪の束が降りかかった。さらさらしていてとても気持ちが良かった。でも、ナイアの頭には、一箇所だけ短いところが出来て、なんだかとてもいたたまれない気が光一はした。


「これでいいのよ。どんどんやっていって」


 ナイアが振り向いて光一を励ます。それで光一は再び、ジョキっと髪を切り落とす。一部分だけ短い方がかっこ悪いんだから、ショートカットだってきっとナイアには似合うはずだから、そう自分に言い聞かせながら、次そのまた次と切り落としていく。


 光一は自分が床屋で髪を切るとき床屋がどうしていたか、その記憶を頼りに、鋏を縦にしてみたり、掬い取った髪の毛先だけ切って戻してみたりと工夫を重ねた。その甲斐あってか、毛先は揃わないものの、なんとかショートカットに近い髪型になった。そして髪を短くしてみると、外見だけなら西洋人形のようなナイアが意外に少年っぽく見える。


「どう?」

「うん。なんか……カッコいいよ。それで男物の服を着てみたら男だと言っても十分通るかも」


 ナイアは物陰で男物のシャツとズボンに着替えた。光一はその間ぼんやり考えていた。生まれついた容貌より、こういう風に生きたいという本人の意志の方が重要なのかもしれない、と。でも――そしたら、僕はこれからどんな格好をすることになるんだろう。


 ナイアが物陰から一歩出てきた。ちょっとだけ眉を寄せて心配そうに光一に尋ねる。


「どう? 男の子でやっていけそう?」

「うん。大体男の子に見える。元が女の子だって知らない人だったら、ちゃんと男の子に見えると思う」

「そう、良かった」


 ナイアは愉快そうに微笑んだ。


「じゃ、コーイチ、私に名前を頂戴」

「へっ?」

「いやあね。母さんの家を出るときに言ったじゃない。私は名前を変えるって。母さんからこの約束だけは守れって言い渡されてるの。まあ、別に母さんとの約束がどうであれ、ナイアっていうのは女の子の名前なんだもの。いつまでもこんな名前でいるわけにはいかないわ」


 そういえば、光一が名づければこちらには滅多に無い珍しい名前になるだろうと彼女は言ってったっけ。


「ね、どんな名前がいい?」


 ふっと光一は同じ高校に通っている女の子を思い出した。一番の美少女でめっぽう気が強く、女子達のリーダー的存在だった。ナイアと彼女は光一にとって似通った存在に思えた。もっとも同じ学校の彼女は光一に話しかけたりなんか絶対にしないけれども。


「……美鶴、なんてどうかな?」

「ミ・ツ・ル……変な名前ねえ」


 自分で変わった名前が欲しいと言っていた癖に、ナイアは小首をかしげている。

「僕が知っている女の子の名前なんだけど……、別に男の子がつけても変じゃない名前だよ。ああ、親戚に『満』って名前の男の子がいる」

「男女どっちでも使える名前なんだ! それは格好いいわね」


 ナイアの表情がパアッと明るくなった。


「ちょっとまだ変な感じはするけど、名前を変えるっていうのはそういうものよね。慣れないから違和感があるだけで、慣れたら気にいると思うわ」


 ナイアは立ち上がり、少し昂揚した様子を隠そうとせず、心底嬉しそうに言った。


「私はミツル。男の子。もう『砂浜の村』の人間なんかじゃないわ。そしてもう誰からも蔑まれたりしない人生を生きるのよ!」


 そのワイン色の瞳には、自分にとって足枷でしかなかった故郷と母親からやっと逃れられたのだという解放感と、この先の人生を思い通りに生きてみせるという自信と生命力とが溢れていた。

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