浜辺の者

 母親はしばらく言葉を探すように沈黙した。そしてしばらくしてから光一に尋ねた。


「貴方、お名前は? ええと、人に名前を聞く前に私から名乗るべきね。私の名前はマイア、そしてこの娘がナイア」

「あ、どうも。僕の名前は、光一です。小林光一です」


 光一は軽く頭を下げて自己紹介した。


「コーイチ、変わったお名前ね。あくまでこちらの人間からするとだけれども。そのお名前は貴方のご両親がつけてくれたのでしょう?」

「はい」

「きっと愛情を込めて選んでくれた名前だと思うわ。貴方はご両親に会いたくないの?」

「会いたい、会いたいです」


 光一の目に涙が浮かぶ。でも、それよりも――。


「でも、僕、学校でイジメにあってて……。親には隠してるんです。きっと心配すると思うから。でももう僕……。もう……。僕、前から……前からこの世から消えたい、って思うことがあったんです。だから……だから、こうなってちょうど良かったのかも……」

「イジメ? 何それ」


 とナイアが尋ねた。

 

 自分の受けているイジメを思い出そうとして、光一は自分の頭の奥が冷たく縮こまるのを感じた。いつものアレだ。学校の教室でクラスメート達が、まるで光一など存在しないかのように振舞うときに、光一は所在無さと同時にいつもこの頭の奥が冷えるような感じを味わう。


 彼の通っている高校の教室に、彼の居場所はなかった。


 子供の世界では小学校の半ば頃から教師の見えない所で棲み分けが始まる。見た目がカッコよく、実際モテて異性との話題が絶えないグループ。学業優秀で試験での順位を気にするグループ。このグループほど優秀ではないけれど、それなりに成績も良く試験の順位も中くらい、そして成績同様何事においても無難なところに落ち着いてじっと地味に棲息しているグループ。それとは別に、自分の好きなものの世界にどっぷり入り込んで、同類たちと学校で集まっている「オタク」グループ。クラスはこういったグループに分かれていて、そして大体この順番にヒエラルキーというものが存在する。

 

 光一はそのどれにも入ることができなかった。中学までは、何事にも無難に振舞う地味なグループに所属していた。今彼が通っている高校でもその気になっていればこのグループに所属することが出来ていたのかもしれない。


 光一は高校入学と同時に東京からこの街に引っ越してきた。父親は大手企業に勤める、いわゆる「転勤族」だった。会社のことは何も話さない父だったが、今回の人事には不満があったようで「都落ち」などという言葉を口にしたのを光一も聞いたことがある。


 光一の心の中にもどこかで、自分とこの街で生まれ育った生徒とは異質なのだという気持ちがあったのかもしれない。四月の桜の頃、新しい制服に身を包んだこの高校の生徒たちが、生存競争でもするかのような勢いで仲間づくりをする中で、光一はどうにもそんな気になれずぼんやりと過ごしていた。


「ねえ、アドレス教えてよ」

「いいよ。お前のもな」


 桜が散ると同時に、教室のそこかしこでそんな遣り取りと、ケータイを付き合わせる光景に光一は出くわした。その度に彼は自分のポケットに入っているケータイが急に重く感じられ、そして頭の奥に冷たいものを感じた。


 僕にも教えてくれよ。光一がそういえばアドレスだけは教えてくれたかもしれない。けれど、そうしたところでメールが送られてきたかどうか。多分、送られることは無かっただろう。


 そのうち、クラスメート達の学校の中での関係は、学校の外でのケータイを通じた交流関係の一部になってしまった。学校の中でしか彼らと顔を合わせない光一には、もう立ち入る隙は残っていなかった。


 一人ぼっちでもいいじゃないか。光一は一人ぼっちになりたい訳ではなかったが、なったらなったで仕方ない、くらいに考えていた。

 

 しかし事態は彼が思うよりもっと深刻だった。「グループに属することができない」ことは何か重大な欠陥だったのだ。光一は単に「一人で居る人間」、ではなく「人間としての能力を欠くモノ」として扱われるようになった。

 

 たいていにおいて、彼はその存在を無視された。周囲のクラスメート達は光一を見えない者のように扱う。彼が傍にいたって全く目もくれない。たまたま転がっている石をよけるかのように彼の横を通り過ぎる。彼らの方から話しかけることなど全く無く、彼が何か話しかけても風の音のように聞き流された。


 彼は毎日、頭の奥の冷たさを持て余しながら、遠くから聞こえてくる教師の指示や始業終了のチャイムの音に無表情に従うことで、ただただ時間を潰していた。


 とはいえこの時間つぶしはなかなかの重労働で、彼はこういった日常を耐え忍ぶだけでその日のエネルギーを使い果たしてしまう。だから彼に未来について建設的なことを考える余裕はなかった。ただぼんやりと、頭の中に絶望という言葉がちらつくだけだった。


 時折、イジメらしいイジメも受けることがある。皮肉にもそれは彼を本当の絶望から少しだけ遠ざけてくれる。


 クラスメート達が珍しく声を掛けてきたと思ったらそれはたいてい無理難題だ。そして光一が困っていると殴ったり蹴ったりと暴力を振るう。身体は痛い。けれども彼の胸の中に微かに喜びが起きる。それは、自分は誰にも見えない幽霊ではなかったのだと安堵する気持ちだ


 誰からも無視されていると、光一は、果たして自分という人間は存在するのだろうか、という焦燥感を感じる。ほんの時たまでも、そしてそれが悪意や蔑意でも、自分になにかしらの感情を向けられていることは、完全な無視よりも救いがあった。

 

 ――でも、そんなの救いでも何でもない。救い、というのは今のようなシチュエーションのことをいうんだ。と、彼は今ナイアの家の台所で椅子に腰掛けながら拳を握った。どうしてだかわからないが、自分は異世界に来たのだ。これはチャンスだ。


「だから、僕は……僕はこちらの世界がそんなに悪いところじゃないなら、こちらの世界に居たいんです」


 光一はナイアよりも、主に温厚そうなマイアに向かって話をしていた。ところが、先に口を開いたのはナイアの方だった。


「あなたの言うこと、私よくわかる。苛められているのって嫌よね。わかるわ。でもそれなら『砂浜の村』にいても解決しないわよ。やっぱり旅をしないと」


 光一には意外な成り行きだった。この気の強そうな少女が、「イジメ」にすんなり同情してくれるとは思っていなかった。どう見ても彼女は苛められる側ではなく、どちらかと言えば苛める側に回りそうに見える。


 そうでなくても、弱気な人間を見ると説教を――例えば、どこにだって生きて行く限り似たようなことはある、皆辛くても我慢しているの、だからあなたも逃げちゃだめ――そんな、先生や親戚のおばさんのするような説教を、高飛車に言いそうなタイプに見えたのだ。


 でも、ナイアの言っているのは少し違うようだ。そして、どうしてここでもまた「旅」が出てくるんだろう。


「あのね。この村にいたって苛められるだけなの」


 ナイアは面白くなさそうな顔で話し始めた。


「『砂浜の村』の住民は賤しいんですって。そういうことになってるの。『煉瓦の街』なんかに行くと私たち『砂浜の村』の住人は、『浜辺の者』って呼ばれて差別される。まあ、苛められるっていうわけ」


 例えば、とナイアは話を続ける。


「『煉瓦の街』の住人が歩く歩道の上を、『浜辺の者』は歩けないわ。馬車が通る道の隅っこを歩くの。あ、人も馬車も向こうは避けてくれないわよ。私たちは人の目に見えないことになってるの、汚らわしいから。だから向こうからばんばん当たって来る。痛い目に遭いたくなければ私たちの方がずっと緊張して避けなければならない」

「…………」

「服もね、決まっているの。麦を運ぶ麻袋をね、一度ほどいて、頭と腕のでる袋に縫い直すの。それを被ってこうやって紐で結ぶ。ほら」


 彼女は立ち上がって全身を彼に見せた。確かにそんなつくりのみすぼらしい服装だった。そして母親もまた全く同じ格好をしていた。


「それからね。この村の中にいれば差別されずに済むかっていうとそうもいかない。私と母さんは余所からの流れ者だもの。だから村からうんと離れたこんなところに住んでいるのよ。村の人たちは、必要最小限の用事のある時しか私たちに口を開かないわ。私が小さな頃、高熱で死に掛けたことがあったけど、その時だって村の医者は私を診てくれなかった。それから、うちの屋根が壊れた時だって誰も修理してくれなかったわ。私が自分でよじ登って穴を塞いだのよ」

「…………」


 光一はどう返事していいのかわからない。ナイアは気の毒がって欲しそうなわけでもなく、むしろ何か意気込むかのように光一に向かって話す。それがどうしてなのか彼にはわからないが、ともかく話の内容からするに、この村にいてはナイアにも光一にもあまり救いはなさそうだということは分った。


「私はずっと『海から来る者』を待っていたの」


 彼女の赤ワイン色の瞳が強く光った。


「そして、一緒に旅に出るんだ、って願い続けてきたの。この村を出て行くのよ。皇都って随分遠くにあるもの。遠く離れたところまで行けば、誰も私のことを知らない街がある。そこに行けば、名前を変えて、『浜辺の者』であることも隠して、全く新しい人生を送ることができるわ。そう、できる。やってみせる」


 彼女は光一をみて、にこっと笑った。そして光一に握手を求める。


「ねえ。私達って似たもの同士ね」


 そういわれて光一はどぎまぎする。こんな美少女、それも気の強そうな女の子と「似たもの同士」になるなんて。


 同じクラスの女子たちにも派閥はある。もっともイジメの対象となっている光一にとってはどのグループの女の子だって何の縁もないけれど。もしナイアみたいな少女がクラスに居たら――。彼は女子たちのヒエラルキーの頂上にいる女生徒の顔を何人か思い浮かべた。――きっとあの子たちを蹴散らして女王様として君臨するに違いない。


 ――こんな女王様みたいな女の子が、僕のことを「似たもの同士」なんて言ってくれる。


 光一は、ぼうっとした頭でナイアの差し出した手を握った。


「ね。だから一緒に旅をしましょう。今までの自分を知らない街で、新しい人生を生きるのよ」


 ナイアの目には強い意志の力が漲っており、それを見返した光一も息を吸い込む。


「うん」


 そのやりとりを見ながら、マイアは眉を顰めて思案していた。


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