旅の始まり

 翌朝、光一はナイアと共に出立した。マイアとナイアの家は、外から見ると本当にみすぼらしかった。そもそもそれは住居というにはあまりにも小さく、物置小屋のようでさえあった。壁は煉瓦積みでできているけれども、全体に色褪せあちこち崩れかかっている。屋根も初めはちゃんと葺かれていた痕跡はあったが、いかにも素人が穴を取りあえず塞いだ、という感じの箇所がいくつかあった。扉も窓枠も古びてまるで廃材がくっついているようだ。


 ナイアは自分の生まれ育った貧しげな家を一瞥すると、ふん、と鼻息一つついた。そして見送りにでた母親に視線を向けて簡単な別れを告げる。


「それじゃあ、母さん。私行くわね」

「ええ……。気をつけてね……」


 そしてくるりと背を向けて歩き出そうとした。


「あ、あの……」


 光一は立ち止まったまま、先に歩き出したナイアの背中にたまらず声を掛けた。


「何?」

「あの、何と言うか、もうちょっと……。あのさ、もしかしたらお母さんともう会えないかもしれないんだろ。もう少し、あの、何か言ったほうがいいんじゃないかな」


 ナイアは冷ややかに光一を見、そして同じく冷ややかな視線で自分の母親を見た。それから再び光一に向けて説明した。


「昨日も言ったと思うけど、もともと母さんはここの人間じゃないの。皇都に居たのよ。それがなんでだか絶対理由を教えてくれないけど、この『砂浜の村』に流れ着いて私を産んだの。おかげで、私は『賤しい生まれ』なんてことになってるし、そのうえ、その『賤しい』人達の中でも仲間はずれってことになっちゃってるわけ」


 母親は俯く。


「どうしてこんな所で私を産んだの、ってずっと母さんを責めてきたけど、今はもういい。だってそれは母さんの人生だもの。母さんはそうしたかったのよね? 好きにすればいいわ。でも私はもうたくさん。私はこれから私自身の人生を切り開くわ。ここから出て行く」


 その口調は決して母親を赦すものではなく、冷たく切り捨てるものだった。


「最後に」


 ナイアは顎を上げて母親に尋ねた。


「最後にもう一回だけ聞いておくわ。母さん、なぜ皇都に住むなんて恵まれた立場を捨ててこんなところに流れてきたの」


 優しい大人しげな雰囲気のマイアが、強い意志を込めた顔になってきっぱり言った。


「それは言わない。貴女も知らないほうがいいの」


 それから複雑な表情で娘に念を押した。


「貴女、『砂浜の村』を出たら名前を変えるって言っていたわよね。私の名前にも貴女の名前にも似ていない、全く新しい名前にするって。そう私と約束したわよね。それだけは絶対に守って頂戴」

「ええ、もちろん。私は新しい名前を生きるわ。そうだ。新しい名前ならコーイチにつけてもらったらいい。あっちの世界の名前をつけてもらうの。そしたらこっちの世界では珍しい名前になるんじゃない?」

「え……」


 いきなり話題を振られて光一はあたふたする。マイアはちょっと寂しげな顔で頷き、そして光一に言った。


「コーイチ、娘のことを宜しくお願いしますね。名前のことも、それから旅の間のいろんなことも」

「この子より私の方がずっとしっかりしてるじゃない。大丈夫よ。あ、でも名前の方はよろしくね」


 ナイアは光一に一声掛けると、母親を無表情に見て言った。


「それじゃ、さよなら。母さん」


 そして踵を返して歩き出した。光一も慌ててついていく。


 彼女の家の周りは何もなかった。見渡す限りの砂浜に、小さな小屋がポツンと立っているだけだった。だから、マイアがその小屋の前にずっと立って娘を見送っている姿が、いつまでも何にも遮られることなく見ることが出来た。光一は何度か振り返って、マイアが黒い小さな点になるまでずっと娘を見送っているのを見たけれども、ナイアの方は砂浜に建つ貧しい家など一顧だにせず、ただ前だけを見て歩いていた。


 何にも無い砂浜がずっと続いていた。海面とほとんど高さが変わらないままの砂浜が陸の奥まで延々と続いている。平坦な土地のうんと遠くに牛や羊の影が見え、立木が一列に行儀よく並んでいた。


「あの、ずうっとこんな感じ?」

「そうよ。『煉瓦の街』に着くまではずっと砂浜」


 二人ともマイアの作った皮製のサンダルを履いている。砂浜の砂はサラサラで、サンダルの中に入ってきてもそんなに不愉快ではない。


 空を見上げれば、高い空がどこまでも広がっている。暑くもなく、寒くもない。空の色は、これから新しい人生が始まる春のうきうきした気分にも、何かに別れを告げる秋のような寂しい気分にも、そのどちらにも重ね合わせることができそうだった。


 光一の目にじわっと涙が浮かびそうになる。彼は慌てて、ナイアにこちらの世界について思いついたことを質問して気を紛らわそうとした。


「今、季節は春? 秋?」

「暦の上では春ってことになるわ。でも、ここらあたりはあまり気候に変化がないの。別の国では暑さや寒さがあってその都度衣服を変えるらしいけど」


 ああ、と光一は思った。光一も昨日からずっとシャツ一枚で過ごしている。


「あの、着替えとかはどうするの? 何も持ってないけど」

「必要になったら手に入れればいいわ。ああ、村が見えてきた」


 ナイアが言うとおり、前方にいくつかの家が集まっているのが見えてきた。


「あそこでお昼にしましょう」


 ナイアと光一は村の中に入っていく。村の者は誰もナイアに声を掛けようとしない。そのくせ光一には好奇心満々に不躾な視線をぶつけてくる。


 けれども仕方ない、と光一は思った。確かにここの人間にとって自分はさぞかし奇異に見えるんだろうから。


 ナイアを初めて見たときも彫が深いと思った。でも、この村の人達はナイアよりも更に一段と彫が深いように思う。眼窩が落ち窪んでいるかのようでその隣に鼻が高い壁のように聳え立っていた。色は白いが、ナイアの肌がきめ細かいのに対すると、ちょとがさがさした感じだった。そして皆やたらと背が高い。光一は日本にいても小柄で和風顔だから、僕はこの人たちには本当に異世界の者に見えるのだろうな、と彼は思った。


 もっとも、光一が一目見て異界の者だとわかる風貌なのは、随分と便利なことのようだった。


「ここが『砂浜の村』よ。さ、お昼をもらいましょ。どの家がいい?」


 ナイアは立ち止まり、光一に向かって言う。


「え? どの家って……。君のほうがよく知ってると思うんだけど」

「どこの家も似たようなものよ。どこも貧しくて、私と母さんを嫌ってる。どこでも私にとっては一緒だから、コーイチが選んで」

「……じゃあ、ここにしようかな」


 ナイアは光一が指差した家のドアをノックした。出てきたのは、やはりとても背の高い、そしてナイアより一層彫の深い、色白の中年の女だった。彼女はナイアを見て露骨に嫌そうな顔をした。


「なんだい」

「見て。『海から来た者』よ」


 ナイアはそういって光一の手を引っ張りその女の前に突き出した。女は目を見開いて光一を眺める。彼が「海から来た者」だと、一目で納得したようだった。


「おやまあ、ほんとだ。のっぺりしてるねえ。……で、何が欲しいんだい」

「お昼ご飯を頂戴。それからこの瓶に飲み物を入れて。二人分ね」


 ナイアは鞄から持ってきた陶製の瓶を渡してそう言った。女は首を竦めただけで無言で家の中に戻っていった。


「のっぺりしてる、って僕の顔のこと……なんだろうね。やっぱり」

「そうよ、この辺でコーイチみたいな顔の人間なんていないもの。『海から来た者』は『顔がのっぺりしている』のが特徴だって聞いてたけど、本当にコーイチの顔って平べったいわよね」

「…………」

「助かるわ。すぐ信用してもらえるし」

「……そう……」


 中年女が両手に紙包みを持ち、脇にナイアの渡した瓶を抱えて戻ってきた。


「ほら。水と食料だよ」


 ナイアは無言で受け取りそのまま踵を返した。中年女も厄介払いするようにバタンと扉を閉めた。光一は呆気に取られてナイアとドアを交互に見る。


「何ぼうっと突っ立ってるの。早く来なさいよ」


 ナイアが振り向いて言った。


「あの、お礼くらい言った方が良くない?」

「いいのよ。後で帝国府が二食分の食料と飲み物を給付してくれるんだから。多分ここらじゃ手に入らないような珍しい品をね。私達に物をやった方があの人たちにとっても得なの。だから普段口を利くのも嫌な私にでも物をくれたのよ」


 それでも光一は閉まったドアに一礼して、立ち去っていくナイアを追いかけた。

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