2 象が踏まなきゃ大丈夫

 フレデリーコ・デルガドは、手下を従えて薄暗い階段をのぼった。

 息が切れて不快なのは、体力がないというわけでは断じてない。面倒をおこしたダニエラ折場への怒りのせいだった。

 何かにつけて噛みつき、邪魔をしてきた。プライベートでは、女のくせに、ひとの女をかすめとっていった。父親——エンリケ・デルガドボスが目をかけているのでなければ、とっくの昔に始末していた。

 そうやってボスの後ろ盾で大きな態度をしてきたのに、結局は自分かわいさに裏切ったのだ。

 もっとも、内部資料を持ち出した今回で、大っぴらに始末できる口実ができた。

 そのためには、折場というネズミを引きずり出す、確実なエサを手に入れなければならない。

 同時に、<モレリア・カルテル>にダメージを与える証拠品も回収すれば、後継の地位を固めるのにも役に立つ。

 はやる気持ちのまま足を進めてきたが、屋上に出る階段の手前で、急に暗くなった。電灯が切れているのかと見上げたところで、耳障りな金属音が足元からあがった。

「なんだ⁉︎ うっせえな!」

 空き缶でも蹴飛ばしたのか? 貧乏人の建物は、これだから厭なのだ。フレデリーコは舌打ちし、原因を探ることなく屋上へと出た。

 湿った熱い風が、フルオーダージャケットの裾をはためかせる。アゴ髭はショートに整えていたが、汗がたまって鬱陶しく感じた。

「フレデリーコさん! あの板、もしかしたら」

 つれてきた手下のひとり、ナバーロが指さすほうに目をやった。

 裏手となる北側のビルは、ほとんど触れ合う距離で建っている。そこをつなぐように、幅四十センチメートルばかりの板が渡されていた。

「くそっ、逃げられたあとじゃねえのか⁉︎」

 このあたりの住民がよくやっている横着な方法だった。

 階段をおりずに隣の建物にいきたい、隣の建物にいけばエレベーターがあるといったとき、サルみたいに渡し板を歩くという浅知恵で対処しているのだ。

「追いますか?」

 手下は皆、渡し板のほうへと身体をむけている。フレデリーコは待ったをかけた。

 ルシアがいるという小屋みたいな家に明かりはない。しかし、部屋の中で息を潜めているのかもしれない。

 ここでルシアを逃すヘマはできなかった。

 エンリケ・デルガドが、あろうことか弟のラミロのほうを跡取りに志向しているという話がある。ボスの心象を悪くするのは致命的だった。

 フレデリーコは確実性をとる。

「ルイス、グティエレス! 渡し板で北側にいって確かめてこい。このビルの表と裏出口はおさえてあるんだ。ナバーロとバジリオは、おれと家を探る。しらみつぶしでいくぞ」

 ルシアは、じっと待っているタイプではないが、無鉄砲に動いたりはしない。

 フレデリーコの勘は、家から動かずにいるほうに賭けていた。渡し板は、ほかの誰かが使いっぱなしで放っておいたのかもしれない。

 自分の手でルシアを探し出したかった。

 心残りがあった。

 ダニエラ折場の肩をもっているルシアを言い聞かせて、考えを改めさせてやりたい。ボスの座につく男に従っていれば、抱いている夢も、これからの生活も安泰なのだと。

 玄関のドアノブに手をかけたナバーロが、視線で合図をおくってきた。すでにハンドガンを抜き、セイフティをはずしている。

 フレデリーコはうなずいた。父親に長く従い、抗争にも慣れているナバーロに露払いをまかせる。その後ろに、凄惨な場でも物怖じしたことがないバジリオがついた。

 フレデリーコもヒップホルスターからハンドガンを抜く。

 身体が熱くなってきた。追いつめる狩りは、いつだって気分が高揚する。



「くそっ、逃げられたあとじゃねえのか⁉︎」

 数人の足音とともに、苛立たしげな男の声が近づいてきた。

 クドーは、ルシアとともに鉢植えの陰にうもれるようにじっとする。しばらくして、手下の二人が別行動で離れていった。

 この場に残った三人のうち、ひとりはクドーに見覚えがあった。

 副分署長室で見た写真の一枚にあった、カルテルのボスの息子、フレデリーコ・デルガド。

 明かりが薄いなかでも、ルシアが青ざめたのがわかった。

 ひとりでないことをわかってもらいたくて、ルシアの腕に柔らかくふれる。低くおさえた声でつたえた。

「大丈夫。落ち着いて行動したら、うまいこといくから」

 軍歴があり、アカデミーの術科(実技)も抜群だったリウがいても、絶対の安全は保障できない。

 ミナミの地理なら、ネコの通り道まで熟知しているクドーでも、逃げ道を確保できると言い切れない。

 それでも弱気は見せられなかった。

 フレデリーコたちの足音が近づいてくる。

 ルシアが、両腕を自分の肩にまわして身を固くする。

 クドーの緊張も身体の中でふくれあがった。

 リウが遮蔽物をつくってくれたが、ガーデニング植物だから葉の隙間が大きい。そのうえ、人工照明があふれるミナミの夜が、今夜はいっそう明るく感じる。

 フレデリーコたちからの視線をどれだけ阻んでいるのか、心もとなかった。

 もし見つかったらどう動くか。頭の中でシミュレーションをしておく。

 一方で、腕をルシアの肩にまわし、自分の役割を意識した。そうすることで冷静であろうとした。

 腕の中のルシアが、息をゆっくりと吐いた。吸って、再びゆっくり吐く。

 身体から少しだけ力が抜けた。さすがダンサー。緊張をほぐす方法を心得ている。

 そうするうちに、フレデリーコたちの足音が、家の中に吸い込まれていった。

 クドーはルシアの肩を軽く叩いた。逃げるチャンスだ。ブラックベリーがつくる茂みを背にして立ち上がる。

 すぐそこに、リウが用意した逃げ道があった。



 鉢植えの陰でフレデリーコたちをやりすごしたあと。

 ルシアに疑問がわいた。クドーが階下におりる塔屋とは反対方向に顔をむけていた。

 そして逃走路をまえにした今は、座り込みそうになっていた。

 大きな声は出せない。小さな声をおぎなう表情で、目一杯アピールする。

「無理! こんなとこ歩くなんて、絶っ対無理!」

 リウが逃走経路として用意したのは、屋上経由で東隣のビルに移動するものだった。

 ハシゴで。

 渡れそうな距離にあるビルは、北側と東側の二ヶ所なのだが、

「なんで距離が狭い北側じゃだめなの⁉︎」

 小声でクドーに詰め寄った。

「北側を逃走路にしたら、身を隠しての移動ができへんからやと思う」

 言われてみれば、隠れていた家屋は屋上の東寄りにあり、塔屋からの死角をつくりやすい。

「追手をまくダミーは、追手から見つけやすいとこ——北側にないとな」

 理屈はわかったのだが、

「あたしの運動能力をリウは過信しすぎだよ!」

 ルシアは、高所恐怖症だった。

「フレデリーコの手下はもう下におりただろうから、あたしたちも北側でいいじゃない!」

 東側のほうがビル間の距離が、若干大きかった。そして階層が同じでも、ミナミ建築物クオリティーから、高さが少々違っていた。

 この〝若干〟と〝少々〟が、ルシアにとっては〝たいそう〟かつ〝大きく〟違っていた。渡らないといけないのなら、少しでもハードルが低いほうを選びたい。

「三歩、頑張れへん? 普通の歩幅でも二歩、三歩目は東隣の屋上や」

 渡る先、東隣のビルのほうが高い。思い切ったとしても、ジャンプで飛び移るには難易度があがった。

 北側においた板を東側にかけるには長さが不安だし、板を動かすと、こちらの動きに勘づかれる恐れもあった。

「でも、ハシゴだから足の下の見通しはいいし、おまけに木製だよ? たわみそうだし、風で身体があおられそうだし、暗いせいで踏み外すかもしれないし……」

 渡れない理由をあれこれ並べてみたが、クドーはスパルタだった。

「暗なってるから足の下なんか、はっきり見えへんて。ハシゴに使つこてる木なんやから、象が踏んだりせん限り大丈夫や! それにこのくらいの風、プロダンサーのバランス感覚の敵やないって!」

 畳みかけてくる。クドーも説得に必死だった。

「家の中に入っていったフレデリーコと二人を、リウが制圧できたら問題あらへん。このまま、ここに隠れとったらええ。けど、リウがやられたら、あたしひとりでルシアを護るんは正直むずかしいんや」

「やられるなんて縁起でもない——」

「想像したなあても、考えとかなあかんねん。希望にすがるような賭けはできへん。安全なとこまで逃げるためには、不測の事態も考えんと。北側に移った手下かて、おらんようになったとは——」

 目をやった北側の屋上に人影が現れた。

「あいつ、名前は知らないけど、フレデリーコとよく一緒にいる……なんでまだいるの!」

「下までおりたけど姿が見えへんから、もう一回確かめに上がってきたんか、見張り役でとどまるんかも」

 ルシアのなかで、ハシゴと追手が天秤にかけられる。

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