3 力がすべてじゃないけれど

「……いく。ハシゴ、やってみる」

「よっしゃ。まず、あたしが先にいくよって」

 ルシアがやる気を起こした機を逃さないよう、クドーはことを進める。

「向こう側にいったら、ハシゴを押さえて待ってるから」

 ハシゴに足をおいた。

 屋上から屋上へのニンジャごっこは、子どもの頃の肝試しで経験ずみだ。警官になってからも、必要にかられて何度か渡し板の上を歩いた。

 けれど、ハシゴは未経験だった。明かりが乏しく、地上がよく見えないとはいえ、足の下がスカスカで丸見え——昏い奈落がひろがっているよう——というのは、さすがに怖い。

 度胸試しな逃走路を用意した相方に、悪口雑言を浴びせて悪態ついてやりたいが、ほかに方法がなかったともいえる。代案を出せといわれても答えられない。

 クドーはハシゴへと足を踏み出した。

 リウのアホウ! 運動神経以外は無神経、むっつり、なんでそんなにタテに成長してるんや、などなど。八つ当たりで思考を散らし、恐怖心をごまかす。

 身体のバランスが微妙な気がするのは、背中のバインダーファイルで不安定になっているせいか。それでも、捨てるという選択肢はなかった。

 隣のビルまでのわずかな距離が、やたら遠くに感じる。

 暑いのに、手足の先が冷たい。

 ハシゴが僅かにたわむ。それだけなのに地面まで吸い込まれそうな気がする。

 風は弱まっているのに、身体がもてあそばれそうになる。

 あと、一歩……

 渡りきった。

「いけた! ルシアやったら、もっと簡単——」

 家の中から発砲音。フラッシュのような光が窓からはじけた。

 殺傷武器の存在が、ルシアに緊張を呼び戻した。立ち上がったまま硬直し、動こうとしない。クドーは、やるべきことに注意を向けさせようとした。

「ルシアがつかまったら、ダニエラさんも危のうなる。ダニエラさんが情報提供者になったんは、これから先のことを考えたからやないの⁉︎」

「ダニーが……」

「そうや!<モレリア・カルテル>から抜けるのは大変なはずやで。それでも行動をおこしたんは? ルシアの安全に気を配ってくれてるんは? ルシアはダニエラさんに、どんな答えを見せるん? そこでそのまま、じっとしてるだけなん⁉︎」

 ルシアの足がハシゴにかかった。

 慎重に足をおく。足の裏でハシゴを確かめるように。

 歩み始めればすぐだった。宙を歩いたルシアの足が、隣のビルのコンクリートを踏んだ。

 ひとまずの安堵で、張り詰めて硬くなっていた身体がとける。そのまま膝を折った。両手をつき、荒い呼吸をくりかえした。

「ごめん……息をととのえる間、ちょっとだけ……」

「うん。あたしはこれからの用意しとくから」

 クドーはハシゴをはずすと、塔屋の陰まで運んだ。階下へのドアを確かめる。鍵をかけているビルもある。

 応援を呼びたかった。

 家に侵入したのは、フレデリーコのほかに二人いた。相手が三人の不利でも、ルシアを逃すための引きつけ役をリウなら投げ出さない。

 応援を得られれば、リウの安全とルシアの保護、どちらも可能になるのだが——。

 塔屋のドアは、すんなり開いた。いい兆しだと思うことにする。

「もう大丈夫。フルマラソンでもいけるよ」

 落ち着きを取り戻したルシアがそばにきた。

「まずは下におりよ。あたしが先にいく。なんかあったら、すぐおしえてな?」

 ルシアは冷静を装っているだけだろうとクドーは思う。

 フレデリーコの姿に、ずいぶん怯えていた。姿を見れば、追いつかれるかもしれないことを想像してしまう。不安にならないはずはなかった。

 階段をおりながら、こういう場面での力不足を強く自覚した。アカデミーでの及第点は、現場での完璧を保証するものではない。

 このまま逃げ切れるか?

 ほかに打っておける手が何か……

 二階と三階の踊り場にさしかかったとき、クドーは足を止めた。



 クドーに続いて、ルシアは黙々と階段をおりた。

 フレデリーコを見つけたときの動揺は落ち着いたものの、近くまで迫られているかと思うと怖くてたまらない。

 どうにか平静を保っているのは、前を歩く小さな背中があるからだった。

 会った最初は疑った。味方である確信が強くなってきても、やはり警官としてのクドーは不安だった。こんなに小柄で、ほかの人間を護れるのかと。

 それがいま、リードをまかせて……と、思った矢先。

 いきなり立ち止まったクドーに、ぶつかりそうになった。

「どうしたの?」

 小声で訊きながら周囲をみまわした。何かあるのか?

 特にこれといってない。部屋の中から人の気配がするものの、廊下や階段を利用する者はいなかった。無人の階段で立ち止まった意味がわからない。

 不意にクドーが振り返った。

「ルシア、脱いで」

「……は?」

 言われた言葉を理解するのに、たっぷり四秒かかった。


 

 一階までおりると裏口に走ったが、南京錠で固定されていた。

 正面から出るしかない。

 クドーは、バインダーファイルを入れたフロシキ・リュックの位置をなおす。後ろにルシアにつけ、ビルから出る表出口の手前で、用心深く外をうかがった。

 屋台がある通りから少し離れているせいで、人通りはほとんどない。足を踏み出しかけたが、すぐに引っ込めた。

 入り口の陰に身を潜め、走ってきた靴音をやりすごす。

 足音が遠ざかってから顔を出した。再び通りを確認。サマーニットのシルエットを気にしているルシアに声をかけ、外に踏み出す。

 遠くにばかり目をやっていたせいだ。入り口横にあった、塗装がはげた一本脚のテーブルにうっかりぶつかりかけた。天板には回収にくる修理業者へのメモ。

 ルシアには苦笑いでごまかして、公衆電話をめざす。

 まずはリリエンタールと連絡をとりたかった。顔見知りの店から電話を借りることができれば早いのだが、この周辺の店の閉店時刻はすでに過ぎていた。

 公衆電話まであと十メートルというところで、ルシアを自販機のかげで待たせた。

 防犯上の理由もあって自動販売機はあまり普及していない。このついでに、水分補給を……と思ったが、褐色の炭酸ドリンクや甘いジュースばかりで選ぶ余地がなかった。

 深夜でなければ屋台やドリンクスタンドで、ジュースからお茶まで安く買えるし、公共機関なら飲水機ウォーターサーバーがあるのだが。

 唯一の甘くない飲み物、ウーロン茶缶をチョイス。ルシアに手渡した。

 公衆電話にはクドーひとりで向かったが、受話器をとる前からあきらめた。

 壊れていた。小銭を失敬する輩が、荒っぽい方法を使うせいだ。人が少ない通りの公衆電話では少なくなかった。

「じゃあ、ほかの電話さがす?」

 引き返してきたクドーにルシアが訊いた。

「いや、こっちから、じかに行こ」

 もう一本買ったウーロン茶缶を傾けて答えた。

 千年町か玉屋町あたりが騒がしいとリウが言っていた。イベントでも事件事故でも、人が集まるのなら警官も出てくる。コンタクトしやすい。

「このへんは公衆電話もあんまりない……!」

 視界にすみに入った違和感に、缶を傾ける手も言葉もとまった。

 きな臭さをまとった男が路地から出てきた。こちらに向かってくる。

 スタイルがいいルシアの容姿は目立つ。フレデリーコの仲間でなくても、ちょっかいをかけられて余計な時間をとられたくなかった。

「目を合わせんように歩いて」

 クドーは、路地から出てきた男に気を取られすぎた。

「手間をとらせるな」

 背後をとられていた。声の男に振り返ったクドーは、反射的に身構えた。

 長身のリウより、さらにでかい。横幅なら1,4倍はある。

 サイドを極端に短くし、トップにボリュームをもたせたスリックバックオールバックヘアの男が、威圧的に見おろしていた。

「乱暴に扱うなと言われてるが、逆らったら容赦はしない」

 ルシアに向けられている視線に、クドーは不意打ちを狙う。手に持っていたウーロン茶缶を残っている中身もろとも男の目元めがけて投げつけた。

「ルシア、逃げ——!」

 最後まで言うことすらできなかった。



 ダニエラは、目印にしていたタカハシ診療所をやっと見つけた。

 会長の部下に案内されて来たときは昼間だったうえ、街灯の明かりが乏しいせいで、小さな看板を見落としていた。

 ルシアの無事を早く確かめたくて気が急く。目当ての<昭和ナムグン南宮ビル>を探し、建物の外観に注意をはらっていたせいで、前方の注意がお留守になる。道端のテーブルに衝突しかけた。

「っと! なんでこんなとこに粗大ゴミおいてるの!」

 一本脚のテーブルを忌々しげに蹴りつけ、駆け出した。

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