第四章 虎口を脱して、虎口に戻る

1 ミナミ限定逃走方法

 日中の熱を蓄えた屋根の熱気が、日が暮れても最上階の屋内に吐き出され続けた。窓を開けていても気休めにしかならない。高いままの室温が、身体を動かす気力を奪い、湿度に溺れそうになる。

 そんななかでもルシアは協力的に動いてくれた。

「移動するかもしれへんから、着替えてといてもろてええ?」

「動きやすい格好がいいんだよね」

 外出禁止から一転しても、クドーにあっさり了承した。六十リットルサイズのカーペンタートートバッグの中を物色する。

「外出るのは怖いけど、家の中でじっとしたまんまも不安だったの。だったら動いてる方が気が紛れるじゃない」」

 クドーが席を外すまえから、さっさと脱ぎ、ゆったりしたサマーニットと七分丈のパンツに着替えた。

「サンダルより、スニーカーを持っていませんか?」

 外から戻ってきたリウが、ルシアの足元に目をとめて訊いた。

「ヒール低いし、大丈夫やないかな。それよか遅かったやん。なんかあった?」

「東方向が騒がしい。玉屋町たまやまち千年町せんねんちょうあたりで何かあったのかもしれない。確かめようとしたけど、無線が通じない」

 場所によっては無線が入らない場所がある。が、ここは屋上だ。クドーは自分の無線で確かめた。

 つながらなかった。

「うわぁ、やな感じがしてきたなあ……」

 二台そろって不備な無線機が当たることは、まずない。

 予算不足のミナミ分署でも、無線は比較的、問題が少ない備品だった。情報伝達と応援要請ができないと、持っている警官の命にかかわってくる。

 故障や電波障害を別として、通じない原因をあげれば無線妨害があった。アマチュア無線機を送信改造し、同じ周波数で妨害電波を発射する単純なもので、やるほうも面白半分のイタズラでやらかしたりする。

 毎度のいやがらせやマニアの遊びだったとしても、別のトラブルとタイミングが重なると、深刻なパターンを疑ってしまう。

「じゃあ、電話で」

 自発的に受話器をとったルシアの表情が怪訝なものになった。ダイヤルも回したが、

「電話線が切れてるのかも……」

「移動しよう」

 即座に隠れ家を出ようと言ったリウに、クドーは反対しなかった。

 応援が呼べない状態での屋上家屋。<モレリア・カルテル>に見つかれば詰んでしまう。危険を感じたら、逃げの態勢に入るにつきた。

 いつから無線や電話がつながらなかったのかわからないが、地番の報告をスガ警部補に頼んでおいてよかったと思う。

「ルシア、ごめん。やっぱりスニーカーある?」

「待ってて。ベッドのそばにおいてあるから」

 リウは、ワークパンツのサイドポケットからハンディライトを出した。ルシアに手渡す。

「部屋の照明を落とします。水平方向ではなく、床にむけて使ってください」

 ベットがある部屋にルシアが向かってから、クドーは訊いた。

「カセットテープどうする? もういっぺん、ルシアに訊いてみよか?」

「時間が惜しい」

「そやな。すぐには応えてもらえそうにないし」

 バックを手にしたルシアが、スニーカーに履き替えてもどってきた。

「荷物は置いていってください。身軽がいい」

 そうしてライトを消そうとしたリウに、

「待って! 言うことわかるけど、ひとつだけ絶対もっていきたいものがあるの」

「あっ、あのゴツいファイルな」

 公社の電話帳みたいに分厚いバインダーファイルだ。

 クドーはテレビ台に駆け寄った。バインダーを引き出そうとする。すぐに横から、ルシアの手がのびてきた。

「ありがと。自分で持つから」

 ルシアがライトをクドーにわたし、ボリューミーな日記兼記録ファイルを脇に抱えた。そのまま部屋を目を凝らして物色する。

「バラけたら厭だから、何かに入れときたいんだけど……」

 部屋の中にあるのは紙袋、持ち手がはずれた帆布バッグと、適したものが見つからない。

「大きいけど、持ってきたバッグを使うよ。中身を全部出して軽くしたらいいでしょ?」

 ルシアが問うた先、薄闇のなかで見上げたリウが言おうとしていることがわかる。

 ——手ぶらのほうが速く動けます。

 ルシアにあきらめさせる台詞を出すまえに、クドーは窓際にかけよった。ダンサーにアイデンティティをおくルシアの気持ちを大事にしたかった。リウに頼む。

「いつものナイフも持ってるやんな? 上のほう、ちょうちょっと切って!」

 カーテンとしてさがっていた一枚布を切りやすいように引っ張った。

 何も訊かず、ポケットからマルチツールナイフをだした。メインブレードを引き出し、クドーに指示されたラインで布を切っていく。

「何するの?」

「バインダー入れ、作ったるわ」

「今から?」

「すぐでける。そんで、あたしが持つ。大事にしてるしてるもんを他人に預けるんはイヤやろうけど、荷物ひとつでも疲れ方がちごてくる。問題ないとこまで行ったら、すぐ返すから」

「そこまで大事をとらなくてもいいんじゃない?」

「なんも起こらんかったら笑てくれてかまへん。どのみち、運べるもんがあったほうが便利やろ?」

「そりゃ、もちろん」

 話しながらクドーは作業を進めた。

 床にひろげられた布の中央に、バインダーファイルを対角線上におく。両脇の端をそれぞれ、ひとつ結びにして、しっぽをつくる。上下の端を深く結んで、これもしっぽをつくった。両脇の端を上下の端でつくったしっぽでそれぞれ結ぶ。瞬く間に簡易リュックをつくりあげた。

「なんか、おばあちゃんの知恵袋みたいなリュック」

「パトロールと近所づきあいで、お年寄りと交流ふかめた収穫な」

「クドー」

 窓の外をうかがっていたリウが急かした。

「おまたせ、行けるで」

 クドーは、結び合わせてつくった輪に腕をとおしながら、

「あたしかリウが先にいく。絶対、離れたらあかんで。しんどくて動けんようになったときは、声かけて」



 ルシアは気軽に応えた。

「少しぐらいでへばる体力じゃない。大丈夫だよ」

 このときはまだ、七階ぶんの階段を一気に下りて逃げ切ることだと思っていた。



 ドアノブを握ろうとしたリウの動きがとまる。手振りでしめした。

 ——静かに。

 リウの耳が出迎えの合図——スチール缶がコンクリートを叩く音をひろったようだ。

「この場所を知っている人間はいますか?」

「紹介してくれた会長さん以外はいないはず……」

 クドーは、返していたハンディライトを再び渡された。

「東南の部屋の窓から出て。東側に逃走路を用意しておいた。あとを頼む」

 足止め役になるつもりだ。

「あんたも無茶せんとってや」

 受けとったライトをヒップポケットにねじ込み、行動を開始する。

 ミナミの建物群だからこそ可能な、平行移動でのショートカット方法があった。リウの言う「用意」はそれのはずだ。

 万人向けの策ではないが。

 ルシアをうながして、東南の部屋へと移動した。

 陽が落ちて暗くなった空間に、地上から人口照明の明るさがのぼってくる。

 足下だけほの明るい空間が、これからの、ちょっとしたサーカス体験の難易度をさらに上げてしまうか、気持ちのハードルを下げてくれるかは……。

 クドーは足元に注意しながら、開けっ放しだった窓から外へ出る。手助けを必要とせず、ルシアもついてきた。

 外に出て気づいた。リウがすぐには戻ってこなかったはずだ。

 屋上の南側のフェンス際に並んでいた、ブラックベリーやビワの鉢植えが、ルシアの家の周囲に移動していた。まるでルシアの家の主が育てているように置かれている。

 用意周到。屋上にあがってきた人間の視線をさえぎる緑の壁をつくっていた。

 ガーニングの陰をさっそく利用する。

 すぐに、お呼びでない客たちがやってきた。

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