12.赤い口紅

 私は『高田馬場ひまわりマンション』に行った。この前、七海と来たときは快晴だったが、今日は雨模様の肌寒い日だ。今は雨が上がっているが、今にも降り出しそうな黒い雲の下にマンションは陰鬱に建っていた。今日はベランダに布団や洗濯物を干している家はなかった。


 私はエントランスを抜けて4階に上がった。見覚えのある406号室の玄関の前で立ち止まった。インターホンを1回鳴らした。室内からは何の物音もしない。この前七海がやったように、少し時間を置いてインターホンを3回続けて鳴らした。少しすると、ドアが開いてオーナーの岩本が顔を出した。


 岩本の顔を見ると私の胸が大きな鼓動を打った。岩本は一昨日私が288番の八代浩二を買ったのを知っている。そして、池袋駅東口のホテルユーカリを使ったことも知っている。岩本がホテルユーカリを指定したのだ。そして、八代浩二がホテルユーカリの315号室で絞殺されたことも知っているはずだ。


 私は身構えた。岩本が私に八代浩二のことを聞くのではないか? なぜ、八代を殺したと私に詰問するのではないか?


 しかし、岩本は何も言わずに、この前と同じように奥に引っ込んでいった。私は黙ってリビングダイニングに入った。


 椅子に座っていると、岩本がタブレットを持ってきた。私は197番の男をタブレットで探した。売られている男の紹介は番号順にはなっていない。そのために、197番の男を探すのに時間が掛かってしまった。


 やっと探し当てた197番は中年の男だった。髪に白いものが混じっている。額がかなり広くなっていた。顔には疲労の色があった。くたびれたシャツを着ていた。番号の下には「会社員」とだけ記載されていた。


 私はオーナーの岩本を呼んで、197番とだけ告げた。岩本はタブレットを持って奥に引っ込んだが、少しして手に紙を持ってきた。岩本がリビングダイニングを出て行くと、私は急いでその紙を覗き込んだ。


 『197番 池袋駅東口 ホテルユーカリ 315号室 16時』と手書きでメモが書かれていた。


 私は飛び上がった。


 また、ホテルユーカリなの! そして、また315号室? いったいどうして? でもホテルユーカリは警察が見張っているのでは? 私は事件の容疑者だ。警察には見つかりたくない。

 

 私の頭は混乱した。すると、大倉の顔が頭に浮かんだ。ホテルユーカリの315号室で197番の男を買わないと、大倉は秘密をばらすだろう・・選択肢はなかった。


 私はオーナーに渡す2万円をテーブルの上に置くと、黙ってマンションを出て池袋に向かった。


 私は池袋駅の周辺で赤い口紅とサングラスを買った。私はいつもピンクの口紅をつける。こんな赤い口紅は塗ったことがなかった。私は駅に戻り、駅ビルのトイレでその赤い口紅を塗った。サングラスを掛けた。そして、髪を留めていたバレッタを外して髪を肩に流した。トイレの鏡で見ると、鏡の中にいつもと違う私がいた。私は一昨日と少しでも違う印象を演出したかった。


 私は池袋駅東口からホテルユーカリまで人ごみの中をゆっくりと歩いた。誰にも姿を見られたくないと思うと早足になりそうだった。私はそんな気持を落ち着かせるのに苦労した。


 早足で歩くと目立つわ。ゆっくり歩くのよ。いつもの日常のように歩いて、そして振舞うのよ。


 私は自分にそう言い聞かせながら歩いた。人ごみの中では、誰も私に注目する人はいなかった。


 やがて、見覚えのあるホテルユーカリが見えてきた。私は何気ないふりを装いながら、一旦ホテルの前を通り過ぎた。警察が張り込んでいないかと警戒したのだ。ホテルの玄関に人影はなかった。


 それでも私は慎重に行動した。ホテルユーカリの前を通り過ぎて、通りの角で立ち止まった。人を待っているような素振りでホテルユーカリを観察した。ホテルからは誰も出てこない。誰もホテルに入って行かない。重苦しい空がホテルの上にあった。


 この一帯はホテル街になっているが、雨模様ということもあるのだろうか、今は人通りがまるでなかった。私はそのまま10分ほど待った。すると、ホテルユーカリの隣のホテルから男女が出てきた。ホテル花園と書いてある。ホテル花園から出てきたのは、赤いレインコートを着た若い女とグレーのスーツ姿の中年の男だ。会社の男性上司と部下の女性に見えた。どこにでもいる不倫カップルだ。女が男の腕を取っている。二人は肩を寄せ合って私の前を通り過ぎた。私の前を通るときに、レインコートの若い女がちらりと私を見た。私は咄嗟とっさに顔を伏せた。

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