11.要求

 私の頭から血が引いていくのが分かった。大倉は八代浩二の事件と私の関係を知っている!


 こ、この男は何者なの?


 そのとき、七海がトイレから戻ってきた。大倉は何気ない様子で私に差し出した紙を取って手帳の間にはさんだ。七海は紙には全く気がつかなかったようだ。七海の屈託のない声が聞こえた。


 「お待たせ。それでは三人でお昼でも食べに行きましょうか」


 私は思わず立ち上がっていた。


 「ごめん。七海。私、急用ができたの。今日はこれで失礼するわ」


 七海が驚いた顔を私に向けた。


 「えっ、どうして? 鮎美。あなた、後でお話があるって言ってたじゃない?」


 「七海。ごめん。それも別の日にさせて。とにかく、今日はこれで帰るわ」


 それだけ言うと、あっけにとられる七海を残して、私は急いで喫茶『パンプキン』を後にした。


 成城のマンションに戻っても、まだ胸の動悸は収まらなかった。


 その日、私は不安に脅えながら過ごした。


 珍しく恭一が20時前に帰ってきて、家で夕食をとった。食べながら、恭一が相変わらず会社の愚痴をこぼした。私は上の空で恭一に相づちを打った。私は恭一の後で風呂に入った。風呂から出ると恭一はもう寝ていた。


 私は日常に入り込むことができなかった。日常が私の知らない遠いところで流れていた。


 翌日、恭一を会社に送り出して、部屋の掃除を始めたときだ。私のスマホに電話が掛かってきた。知らない電話番号だった。私が電話マークをタップすると、男の声が聞こえてきた。


 「もし、もし。鈴木さんですか?」


 私は恭一と結婚して、鈴木鮎美になっている。


 「あ、はい。鈴木ですが?」


 「鈴木鮎美さんですね?」


 「・・・」


 「僕です。昨日、お会いした大倉です。A商事調査部の大倉健太ですよ」


 思わず私は叫んでいた。


 「あ、あなた、一体、誰なの? 大倉健太なんて嘘でしょう」


 電話の向こうで大倉が笑った。


 「僕の名前なんかどうでもいいですよ。それより奥さん。困ったことになりましたねえ」


 「・・・」


 「でも、安心してください。僕の言うことを聞いていただけたら、ホテルユーカリの315号室のことは誰にも言いませんから」


 「あなた、私を脅迫する気ね?」


 「脅迫? そんな人聞きの悪いことを言わないでください。僕は奥さんの味方ですよ。だから、奥さんが不利になることなんて誰にもいいませんよ。特に、旦那さんの恭一さんにはね」


 「・・・」


 「ただね、僕が秘密を守る代わりに、奥さんにもちょっとだけ、僕に協力して欲しいんですよ」


 「あ、あなた、何が欲しいの? お金?」


 大倉が笑った。


 「ははは。お金ですか? 奥さんはお金持ちだから、なんでもお金で解決しようとする」


 「・・・」


 「僕はお金なんていりませんよ」


 「じゃあ、私に何をしろって言うの?」


 「僕が奥さんにして欲しいのはね、実に簡単なことなんです」


 「・・・」


 「今日の正午過ぎに高田馬場の『高田馬場ひまわりマンション』に行ってください。そして、一昨日と同じ406号室に入って、あのオーナーから今度はね、197番の男を買って欲しいんです」


 思いもよらない大倉の要求に私の声が裏返った。


 「197番ですって?・・お、男を・・買えというの?」


 「そうです。今日は戸田さんはいらっしゃいませんが、男の買い方はもうご存じですよね。この前、戸田さんがやった通りにすればいいんですよ」


 戸田は結婚後の七海の姓だ。


 「それで、197番の男を買って・・私にどうしろというの?」


 「どうもしませんよ。この前と一緒ですよ。197番の男と楽しんでください。僕のお願いはそれだけです。じゃあ、奥さん、お願いしますよ」


 「あ、もしもし。待って・・あなたは誰なの? 何のためにこんなことを?」


 しかし、もう電話は切れていた。私は呆然とした。大倉のやっていることは脅迫に間違いなかった。しかし、その要求が197番の男を買えとは? いったい、何のために? 私は混乱した。


 しかし、それ以上は考えられなかった。大倉は今日の正午過ぎに高田馬場のマンションに行けと言ったのだ。時間がない。掃除と洗濯を済ませてメールを打ったりしていると、もう11時前になっていた。


 私は急いで化粧をしてマンションを出た。そして、12時過ぎに高田馬場の駅前に立っていた。



 



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