第二章 冴川賢

Disillusion

 冴川賢は日本に向かう飛行機の中にいた。今回の帰国は一時的なものではなく、もうアメリカに戻るつもりはなかった。


 冴川はソフトウェアエンジニアだ。誰もが知っている一流大学から、外資系企業に新卒入社。その後異例の速度でシリコンバレーの本社に転籍となった。


 およそ誰から見ても完璧なチートスキル級の経歴であったが、世間的な成功を掴むほど冴川の中で何かがずれている感覚は強くなるばかりだった。

 

 十分すぎるほどの待遇。長時間労働とも程遠い。それでも、自分が書いたコードの先に良くなる世界を、幸せになる人をどうしても想像できなかった。


 大切なものを置き去りにしてきたような、本当にいるべき場所から逃げ出したような罪悪感だけが積み重なってゆく毎日。それが限界に達したとき、冴川は上司に退職を告げ、日本への帰国を決めていた。


 飛び出した先にあったのは多様な人種が作り出す、全く別の社会。だが、世界中どこへ行こうと、人間が集まれば起こる問題は似通ってくる。そして、アジア人男性という、日本で生活していればまず意識しない自身の属性は、無条件に守られる側のものではなかったということだ。


 誰からも認められる仕事をしていれば、バラ色とは言わなくても、少しは満たされた人生があるのではないか。日本を遠く離れた異世界での生活は、そんな甘い見通しを打ち砕き、彼を幻滅させるのに十分すぎるほどであった。


 ◆◆◆


 ふと気がつくと、日本人のスチュワーデスがカートを押しながらすぐ横に来ているところだった。


「お食事は、和食と洋食をご用意いたしております」


「和食でお願いします」


 単純な会話とはいえ、やはり母国語でのコミュニケーションは楽だ。冴川は一切の迷いなく和食を選ぶと、前の座席の背にあるテーブルを下ろした。


 エコノミークラスの機内食とはいえ、このレベルのものが安価に食べられるところはシリコンバレーにまず無いだろう。


 ご飯に焼き魚、大して代わり映えのしない普通の弁当。慣れ親しんだ優しい味付けは、彼の心を安堵させるには十分すぎるほどの効果があった。


(美味い……!こういうのでいいんだよ)


 無職という人生の一大事も忘れ舞い上がっていることに気づき、冴川は単純な自分がなんだか可笑しくなった。


 ◆◆◆


 食事を終えたが特に眠くもなかったので、手癖でスマホを取り出しSNSをチェックしようとしたが、機内ではWifiが無いのを失念していた。何もせずに待つには着陸までの時間は長い。


(なにか映画でも見てみるか)


 特に何も考えずに選んだ洋画は、大学で清掃員をしている青年が、廊下に書かれた数学の難問を解く導入で、何故かとても引き込まれて一気に見てしまった。


(『君のせいじゃないIt's not your fault』、か)


 余韻の中、印象的なシーンを回想しながら呟く。そして、それは彼が求めている救いの言葉に違いなかった。


 自分のせいで失ってしまったもの、助けられなかった人。向き合うことを避けてきた心の傷を思い出させられた冴川だったが、同時に不思議と暖かい気持ちが胸に広がるのを感じていた。


 映画の中の彼のように救われて、自分の足で人生を前に進めていくことができるだろうか。たまたま暇つぶしで選んだ作品でも、それが伝えるメッセージと、このタイミングで出会ったことには何かしら意味があるように思えてならなかった。


 最終の着陸態勢に入った旨のアナウンスに思索から引き戻され、窓の外を眺めてみると、地形や建物がはっきり見て取れる高度だった。


(日本に、帰るんだな)


 日本。高齢化や少子化、長期のデフレに苦しみ、かつての輝きを失いつつある斜陽国家。


 その一方、ゲーム、アニメ、マンガと世界に誇る独自の文化を持つ、極東の島国。一度離れたからこそわかる特異さ。


 この地で為すことに向き合わなければ、いかに成功をつかもうと、きっとその先には何もない。何を為すべきかはまだはっきりとしないまま、飛行機は成田空港に向け、徐々に高度を下げていった。

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