有終の掛け軸を飾る⑥

 緊張した気配は、ステージに立った途端に雲散霧消したようだ。照明の中で、文は一際きらめいていた。

 目を細めて、正面へ視線を向ける。

 ステージの順番は、前が吹奏楽部。後が演劇部だ。おかけで観覧の人はいるが、興味はなさそうな顔をしているものが多い。見てもらえるだけで上々だろうけれど。

 けれど、関心を寄せてもらえない残念さが芽生える。今までの俺ならば出てこなかった感想かもしれない。随分と文に毒されているようだ。

 BGMは放送部が使用許可曲を並べたところから、文が直感で選んだ。パフォーマンスであるので流れるのも仕方がないが、やはり慣れない。練習でももう少し多めに流しておけばよかったとは、後の祭りだろう。

 書く順番は、千秋、龍之介、莉乃、俺、文となっている。

 千秋が深呼吸をして、紙の前に立った。大きな筆は、最初は取扱注意状態だった。今はもう、しかと支えられるようになっている。

 千秋は何度も確かめた場所に一画目を入れた。雄々しい線が引かれていく。確かめるような運筆は硬い。線も太くて力強いのが千秋だ。小学生のころを思い出すような強弱のなさ。

 けれど、それが千秋の味になっている。

 目安ともなる一日千秋を書く千秋を見る生徒の目には、好奇心が走り始めていた。外国人の千秋が華麗に書道をこなしている。物珍しいのだろう。意外性を活路にするのはいかがなものかと思うが、それで興味を惹けたのならば良かったのかもしれない。

 予定よりも少し大きな文字を書いた千秋の筆が、龍之介へ渡った。

 千秋とは対となるような柔らかな運筆が進んでいく。基本は楷書に決めたが、龍之介の文字には他よりも少し多めに行書の雰囲気が含まれていた。千秋と比べれば、手練なことがよく分かる。心地好いリズムで綴られていく文字は魔法のようだ。

 これだけ腕があってもやめるんだな、ともったいなさが浮かぶ。だが、イラストの腕も同好会のポスターで知っている。こうしてやってくれるだけでもありがたいことだと感謝した。

 千秋が引き寄せた視線を、龍之介は上手く繋げたようだ。ぽたりと墨が落ちる粗相も、落ち着いた文字配置で挽回していた。

 バトンが莉乃に回っていく。目の合った莉乃に頷いて、戻ってきた龍之介とは苦笑いを交わした。

 舞台の中央に立つ莉乃は、美女生徒会長としての注目度を遺憾なく発揮していた。

 莉乃の腕は正確だ。臨書の特訓が生きたのか。それとも、生真面目な性質が上手く作用したのか。何にしても安定感がある。

 飛び抜けて豪快なパワーがあるわけではない。堅実なのは、やり始めたばかりのものの特徴だろう。莉乃は気にしているようだが、初心者なことを勘考すれば十分な実力だ。成長が楽しみだった。

 とはいえ、本日の緊張は拭えなかったらしい。正しい文字が小さくまとまってしまっていた。

 結果的に、千秋とのバランスが取れたのではあるまいか。

 考えている間に、莉乃から筆が回ってくる。莉乃は心細そうな顔をしているので、大丈夫だと頷いておいた。

 紙の前に立つまでの距離の間で、文がこちらを見ている。頷かれることも、ボディランゲージが取られることもない。どこまでも澄み切った瞳に言葉はいらない。俺も一切の言動を返さずに書に向き直った。

 既に文字の書かれた紙。失敗は許されない。今まで感じたことのない緊張感を覚えながら、筆を振るう。

 いつもと一緒だ。

 世界に埋没する。

 一人でなくてはならないなんてことはなかった。誰かと一緒でも、世界は見られる。爽快感が胸を突いた。それを咀嚼しながら、任された文字を配置する。

 バランスを取るのは、俺の得意分野だ。

 個性が足りないと評されることもある弱点が、今はうってつけだった。

 それをこなしてから、文の元へと向かう。

 筆を渡すと、指が触れ合った。ビリビリとした電撃が全身に走る。文はそれを確かめるように俺の指を撫でてから、筆を持っていった。短いやり取りで、心が触れ合ったような気分になる。

 文が真剣な眼差しで書を見据えた。体育館全体の空気ががらりと変わる。ぴんと張り詰めたような清涼な空気。それはギャラリーにも届いたのだろう。息を飲む音が聞こえた。

 ああ、と胸に歓喜が沸き立つ。

 すごいだろ、と自慢したくなった。

 文はすごいだろう、と。これが書道なのだ、と。こんなにも心沸き立つ魅力的な芸術なのだ、と。

 他の誰でもなく、自分が魅せられていた。生き生きとした顔で腕を振るう文から目が離せない。

 文には、自分を表す単語だけでなく、真ん中の書の文字も任せた。文は最後まで部長がいいと俺を推していたが、部長命令として従わせたのだ。そうして良かった。しみじみと、素直に思う。

 それは決して才能なんて生まれ持った能力だけではない。重ねてきた修練がその小さな身体に詰まっている。何十時間。何百時間。何千時間。毎日毎日、飽きもせずに書に向き合ってきた。

 俺と同じだ。同じように積み重ねてきた力を込めた文字だ。同じ場所に、一緒にいる。そう思えたことが比類なく至福だった。書を通じて溶け合うような快楽すら抱く。

 文の文字は、みるみるうちに最後の一画に差しかかろうとしていた。

 終わって欲しくない。それほどまでに見惚れた時間は、無情にも進んでいく。淑やかで凛々しい。文の気配がざぷんと剥がれ落ち、真っ白な元気っ子の姿に変わった。

 終わったのだ。

 くるりと客席を振り返って綻ぶように笑った文に、我に返ったような拍手が鳴り響く。それは、ひとりひとりに伝達するように体育館中に広がって、音の塊となって舞台へとぶつかってきた。

 それに感じ入るように唇を噛み締めた文が、気づいたようにこちらを見る。

 最後はみんなで一礼だ。爛々と輝く瞳で俺たちを呼ぶ文に導かれて、横一列に並んだ。

 隣に立つ文が万感の籠もった瞳でこちらを見上げてくる。そこにはどことなく自慢げな。パフォーマンスは面白いだろうと言いたげたな。そんな色が乗っかっていた。

 いつからこんなにも、文とアイコンタクトだけで会話ができるようになったのか。むず痒いような、困ったような気持ちで前を向く。

 ――ああ。

 何のとっかかりもなく、よかったと思った。

 興味深そうな、興奮したかのような、観客の瞳がステージを見上げている。充実感が胸を満たして、上手く呼吸ができない。

 一人でだって、感じ取れないわけじゃなかった。だが、今壮烈に体感させられている。一人じゃできないことがある。

 今ここにある完成品は、まだ慣れない漢字に負けずに取り組んだ千秋が、漫研の展示との両立をストイックにこなした龍之介が、初心者でありながら生徒会の仕事にプラスして努力を重ねた莉乃が、何よりも一途な文が、そして誰でもない俺が、今日まで積み上げてきたものだ。

 同じような顔で笑う仲間を見回して、俺は深く頭を下げる。

 長いお辞儀の後に顔を上げると、余韻を語り合う生徒の中でカメラを回していた秋生が、満足そうに笑っていた。

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