有終の掛け軸を飾る⑤

 励ましあって別れて帰宅してからも、テンションは落ち着かなかった。

 南に再三言い含められたけれど、気持ちを制御することは難しい。そわそわと練習していた用紙を部屋中に広げた。みんなの文字を見ることで、どうにか気持ちを落ち着けようとする。

 まだ少し不確かで、一生懸命さに満ち溢れているのは千秋ちゃん。柔らかい筆運びは優しい龍。お手本を忠実に再現した生真面目さは莉乃会長。そして、揺らがず頼り甲斐のある重厚で生命力に溢れた几帳面なのが南。

 触れると熱が入り込んでくるかのような書。

 南の文字は、あたしにはないものがある。それが何なのか。あたしはそれを上手く言語化することはできないけれど、心が惹かれてやまない。それだけが真実だった。

 好きだと分かち合った。それだけで構わない。あの日のことを思い出すと、少しだけ冷静さが戻ってくる。静かに満たされていくものがあった。

 そうしてその波に身を任せて、本番当日を迎える。ずっとやりたいと思っていたことが叶う日だ。

 一人でやり続ける日々にさよならして、仲間とやる日々がやってきた。楽しくて充実した日々だった。それが終わってしまう。

 高揚感も確かにある。けれど、一方で終わってしまうことが悲しい。相反する感情が交ざり合って、心の中がぐちゃぐちゃになっていく。

 気もそぞろに書道室の扉を開くと、中は静閑としていた。まだ誰も来ていないみたいだ。

 昨日、黒板に貼り付けたままにしてあった用紙を眺める。なかなかどうして上手くまとまっていた。みんな、上達している。それに囲まれている自分の文字も好ましい。

 いつもの自分の文字を嫌っているわけではない。でも、ずっとみんなと遠ざけられてきた。それが認められているがゆえのことだと理解している。自由に書ける自分の書は気に入っていても、どこかで寂しさを覚えていた。

 でも、今は違う。こうして並び立ってくれる仲間ができた。

 書について話しても、南は話に付き合ってくれる。それがひどく嬉しかった。南の隣は心地好い。一緒にやれる。嬉しくて仕方がなかった。

 がたりと物音がして、南が顔を出す。


「おはよう」

「おはよう。早いな」

「大事な日だからね!」

「どうせおとなしくしていられなかっただけだろ。準備しておくぞ」


 南は淀みなく動く。感慨とか、そういうものはないのだろうか。胸の内にはさまざまなものを抱えている熱い男であるはずなのに。表面に出ないものだ。


「もう大体は袖に運んであるから、持っていくのは最低限でいいけど、墨田は手ぶらでいいからな」

「なんで?!」

「紙を破られても、こけられても、墨をぶちまけられても困るからに決まっているだろ」


 馬鹿なことを聞くなという顔で断言される。初対面のことがあるからか。南はどこかあたしを見くびっている。むくれると、南は目を眇めてこちらを見た。


「君は君自身の準備をしていろ」


 はっと昨日のことを思い出す。


「つなぎだね! すぐに着替えるよ!」


 机の上に置かれたダンボール箱に近付こうとすると、後ろから頭を鷲掴みにされた。粛然とした雰囲気のある南だが、案外すぐに手が出る。


「いたいよ!」

「昨日も注意しただろう。君は俺に着替えを見せたいのか?」

「変態なの?」

「君が言うんじゃない」

「いだだだだだ」


 眉間の皺が深まって、握力まで強まった。徐々に手加減がなくなってきている気がする。


「ちゃんと髪を結べ。みんなが揃ってから女子だけで着替えろ」

「覗くの?」

「減らず口を叩くのはこれか?」


 頭を解放するなり、ぎゅむと頬を摘まれて引き伸ばされた。


「いひゃい! わるなみ!」

「君が悪いんだろう。墨が」

「どーぐみたいによはないれよ!」

「何を言っているのか分からないな」


 絶対にわざとだ。

 南は言うだけ言うと、手を放して離れていく。いつもあたしのことをどうしようもないマイペースだと言うけれど、南も大概だ。

 そのペースを崩さないままに、一脚の椅子の座面を叩く。瞳はあたしを捉えていて、着席を促されているのが分かった。時々言葉を惜しむ南に、しょうがないと思いながら腰を落とすと


「後ろを向け」


 と人差し指を回してくる。

 従うと、南の指が髪に触れてきた。大振りではあるが、雑ではない。櫛もないのに、事もなげに髪がまとめられていく。

 しばらく待っていると、すっと指が離れていった。


「……できたぞ」

「どう?」

「それは聞かないといけないルールでもあるのか」

「具合を知りたいんだもん」

「失敗はしていない」


 あたしの要望から微妙に的を外された。南にはそういうところがある。

 不満に眉を寄せると、深い吐息を零された。胡乱げな瞳がこちらを一瞥してくる。腕が伸びてきて、前髪の生え際を撫でられた。


「似合ってなきゃ、やり直している」


 ふふん、としれずに声が漏れた。南は滅多に褒め言葉を口にしない。嬉しくなる。


「ありがとう、南。今日は頑張ろうね」

「空回りすんなよ」

「そこは素直に同意してよ! 本番前なんだよ? 情緒がないの?」

「君に情緒について語られたくはない。忠告は大事だろう。失敗したくないのなら、気をつけるべきだ」

「だから、頑張るんでしょ。南は余計なこと言わなくていいの」

「それは君も一緒だ」


 そう言われて、自分もいつもりより無駄口を叩いている自覚をする。仕方がない。南だって同じであるような気もしたが、それ以上余計な言葉は飲み込んだ。


「……一緒に楽しもうね」


 袖口を掴んで見上げると、南は粛々とこちらを見下ろした。


「分かっている」


 本当に余計なものは何もない。言葉は極限まで削られていたが、たったひとつの肯定で十分だった。

 仲直りをして以来、こうした瞬間に襲われることがある。共鳴するようで快い。にこにこと見上げると、掴んでいた手をとんとんと指で叩かれた。


「そろそろみんな来るぞ」

「だから?」

「離れろって」

「秘密なの?」

「誤解はいらないだろ」


 叩いていた手があたしの指を掴まえて外そうとする。体温が離れていくのが物悲しい。まだ繋がっている指を絡めようとしたところで、ばんと扉が開かれた。条件反応のように、手を放られる。

 取り計らったように、続々と部員が到着した。南はそれに乗っかって、あたしのそばを離れていく。


「瀬尾、一旦出よう。女子は着替えて。終わったら交代だ」


 取り付く島もなかった。不満はあったけれど、つなぎを着られるのは嬉しい。胸を躍らせながら着替えていった。すぐに男子と入れ替わって、準備は整う。輪のように集まって、それぞれの姿を見回した。


「いよいよですね」

「うん。緊張しちゃうね」

「深呼吸よ」

「人の字は?」

「ヒトノジ?」

「緊張がなくなるおまじないってやつだよ。手のひらに人の文字を書いて飲み込むんだ」


 龍の解説に、千秋ちゃんがそれを実行に移す。そうしながら、千秋ちゃんが思い出したかのように顔を上げた。


「そうです。神頼みでした」

「秋ちゃんのアドバイスか」

「ハイ。神頼みしました。コレ!」


 千秋ちゃんはせわしない動きで、かばんの中からお守りを取り出してくる。それをひとりひとりに手渡していった。


「ありがとう、千秋ちゃん」


 こんなふうに気を配ってくれることに大喜びしていると、どうも珍妙な雰囲気が漂っていた。首を傾ぐと


「安産祈願かぁ」


 と龍が微苦笑で零す。

 言われて初めて気がついて、改めて検分した。みんなが微妙な反応をしたことで、千秋ちゃんも疑念を抱いたらしい。不安げな表情になった。


「何か間違えましたか?」

「そうだね。安産祈願は赤ちゃんが無事に生まれてくるように、というものだからね。今の状況とは違うかな」


 苦さを持ち合わせたまま、龍が説明する。

 千秋ちゃんの相手を龍に任せっきりにしているところがあったが、こんなときにも物腰柔らかく説明してくれるのはありがたかった。あたしじゃ上手く説明できない。


「作品も生むものですけど、ダメですか?」


 ことりと首を傾げた千秋ちゃんに、みんなが目を開く。


「……ありかもしれないね」

「情緒的でいいんじゃないか」

「素敵な考えだわ」


 同意を得た千秋ちゃんが、麗らかな笑顔を見せる。いい具合に緊張も解けたようで、ほっとした。

 あたしはつなぎのベルト紐にお守りをぶら下げようとする。上手くいかなくて手間取っていると、見慣れた指が伸びてきてお守りを奪っていった。追うように見上げると、呆れた瞳と目が合う。


「何をしているんだ、君は」

「つけるんだよ!」

「不器用」


 端的な言いざまに不貞腐れると、南が腰を屈めて寄ってきた。いつもこちらから近付いているけれど、こんなふうに南のほうから近付いてくることはあまりない。突然のことにビックリした。南は手早くお守りをつけ終えると、すぐに離れていく。


「どう?」

「……いいんじゃないか」


 答えてくれた南に心が浮上した。


「南にもつけてあげる」

「いい」

「ちょっと! 千秋ちゃんがせっかくくれたのに、その言い方はひどいよ!」

「君に任せたら時間がかかるだろう。自分でつける」


 お揃いになることを否定されなかったことが嬉しい。南だけでなく、みんなでお揃いになる。

 そうして用意が済むと


「行くぞ」


 と南が全員を促した。

 あたしたちの前の演目は、吹奏楽部による演奏だ。袖に揃うころには、もう演奏は始まっていた。

 道中行き会った秋ちゃん先生とは、待機の前に別行動になる。客席でビデオを回すそうだ。先生も思っているより浮かれているらしい。あまり干渉してこない先生だけど、大一番ではつなぎを用意してくれるし、いい先生だ。見守ってくれる顧問でよかった。

 袖に並ぶと、どくんどくんと心音が高まっていく。長く息を吐いて呼吸を整えていると、後ろからお団子頭を掴まれた。抑え込むかのようなやりざまに振り向くことができない。


「大丈夫か」


 聞かれて初めて、自分が目算以上に緊張していることに気がついた。

 気がつくと、心音が嫌な音を立てる。つなぎの胸元を掴んで押さえ込もうとしたが、上手くはいかない。身体がぎこちなくなって、変なところに力が入る。

 南の手が離れていくと、不安がいや増していった。自分の心の在り方が分からなくなって、狼狽が急増していく。

 去って行ったはずの南の手のひらが、そっと下から掬いあげるように右手を包んできた。びくんと震えると、指を掴まれる。筆を持ちすぎて硬くなった皮が、さすさすと擦られた。

 どくどくと心臓がうるさい。


「俺がいるだろ」


 大それた物言いだ。だけど、心臓はどくりと返事をしてから、あるべきところに収まった。


「うん」


 湿った声は、南に届いただろうか。確認することはできなくて、ぎゅっと指を握り返すと、応えるように力がこもった。袖の暗闇の中で感じることのできる体温に浸る。

 それは


『次は書道部による書道パフォーマンスです』


 というアナウンスが入るまで続いた。

 もう行かなくてはならない。名残惜しい体温が離れて、最後に背を押された。その心強い手つきに甘えるように、足を踏み出す。

 光に溢れたステージの上から見下ろす世界は、キラキラと輝いて見えた。

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