第十三話 優しい嘘、生きていたママ。
やっと母、エリスレーゼの居場所がわかると思ったのだが、クレアーナの言葉ですべてが終わってしまった。
ルードの目からは、とめどなく涙が流れてしまっている。
押し殺すように嗚咽を漏らしていた。
クレアーナは少し前に泣き散らしたのだろう。
震えるルードを抱きしめて、背中をぽんぽんと優しく叩き続けていた。
ルードは泣き止んでクレアーナの話を聞くことにする。
クレアーナはルードを抱きしめたまま話を続ける。
「──もう五年前になります。エルシード様が、あの醜い豚、エラルドに殴られてしまったのです」
クレアーナも激しい憤りを感じていたのだろう。
エルラドを表現する言葉からもわかってしまう。
「……うん」
ヘンルーダは二人を心配そうに見つめていた。
「エルシード様がつい言ってしまった『パパは太ってるのに、なんで美しいって言われるの?』。その言葉が原因でした。激高したエラルドは手加減せずにエルシード様を殴ったのです。その拍子でエルシード様は階段から落ちてしまいました。慌てて駆け寄ったのですが、首が曲がってはいけない方向に……。即死でした。エルシード様は事故死ということになったようです。私に力があれば、その場で敵を討つこともできたでしょう。力がない自分を呪いました……」
「う、ん」
「……その後すぐでした。エリスレーゼ様は心に傷を負ったのでしょう。倒れられてしまいました」
「…………」
ルードの身体の震えが大きくなっていたのをクレアーナは感じていた。
「……もう耐えられません。いくらエリスレーゼ様の言いつけだとしても、私には坊ちゃまに嘘は申せません」
「えっ?」
驚きとともに、ルードの身体の震えも止まっていた。
クレアーナはルードの両肩を手でしっかりと掴んで、目を見てこう言った。
「ごめんなさい、坊ちゃま。お母様は、エリスレーゼ様は本当は生きていらっしゃるのです」
「ほ、ほんとなの?」
「ですが、もう長くないかもしれません。……お医者様もそう言われていました。そのため、もし坊ちゃまが見つかっても、病でやせ細ってしまった姿を見られたくない、心配させたくないのでしょう。私に嘘をつけと、死んでしまったといいなさいと……」
悲しみに染まっていたルードの目に、希望の光が灯ったような感じがとれる。
ただ、事態は急を有するかもしれない。
「いいから連れて行って。僕ならなんとかなるかもしれない。ヘンルーダさん、ここに連れてきていいよね?」
「えぇ。構いません」
ルードは立ち上がってクレアーナの手を引っ張る。
「ほら、時間が惜しいんだ。いくよ、クレアーナ」
「ですが」
「いいからっ」
ルードの顔に焦りの色が見える。
ただ、希望に満ちた目をしていたのだ。
猫人の集落を出て、クレアーナを背に乗せたまま暗闇を走って抜ける。
城下が見えたあたりで、ルードは足を止めた。
「坊ちゃま、エルシード様が亡くなったときのことは本当のことなのです。そのせいもあって、エリスレーゼ様は本来坊ちゃまが隔離されていた、あの部屋で病と闘っておられるのです」
「そっか。あの部屋ね」
「坊ちゃま、あの豚はエリスレーゼ様を他の人の目に触れさせたくないようです。毎晩のように私は、エリスレーゼ様が眠られた後に坊ちゃまらしき少年を探しに町に出ていたというわけなのです」
「それであそこにいて、見つかってしまったということなんだね?」
「はい」
「あのさ、母さんが身に着けていたもの。何かある?」
「はい。ここに、エリスレーゼ様の汗を拭った布が」
「それ、僕の鼻先に持ってきて」
「はい。これでよろしいでしょうか?」
「うん。これがママの匂いなんだね。うん、わかった。これですぐに探せる」
走り出そうとしたルードをクレアーナは声で制する。
「坊ちゃま。城の守りは夜でも容易いものではありません」
「クレアーナ。僕はフェンリルだよ? 母さん、フェルリーダの息子のフェムルード。フェンリルなんだ」
「……そうでした。私が心配することではなかったのですね」
フェルリーダという名前にクレアーナは心当たりがあったようだ。
それのおかげで、ルードは何をやってもきっとどうにかできてしまうだろう、そう思えてきたのだった。
「うん。ちょっと荒っぽくいくから。掴まっててね。ママを見つけたら、クレアーナが抱いて僕に乗ってくれたらそれでいいから」
「はい。わかりました、坊ちゃま」
▼
揺れることなどお構いなし。
かろうじてクレアーナがしがみついていられるような、そんな無茶な走り方だった。
ルードはなるべく手薄な、人気の少ない堀へ近づいていく。
スピードを緩めないまま、堀を一気に飛び越した。
足音を立てないように走り続けていることから、まず人には気づかれないだろう。
エランズリルドの王城が見えてくる。
かすかに辿れるくらいの弱い母の香を頼りに、屋根の上を跳ねるようにルードは進む。
城の本体というべき、一番綺麗に作られている場所ではなく、隣にひっそりと佇む、同じ色をした屋敷が目に入ってきた。
バルコニーがせり出した裏手に周り、ルードは足を止めた。
部屋の数が無数にあり、どこからエリスレーゼの匂いがするのか判断できない。
ルードは誰かに感づかれないよう、獣語を使ってクレアーナに質問することにした。
『クレアーナ。ここから匂いがするんだけど、どの部屋?』
『はい。五階部分にある、一番右の角です。ですが、あそこまで行くのに誰かに──』
『忘れたの? 今の僕は』
『そうでしたね』
ルードは建物近くまで足音を立てずに近寄ると、ひと蹴りで飛び上がり、目的のバルコニーへ着地してしまった。
さすがのクレアーナも目を丸くして驚いていた。
ルードははやる気持ちを抑えて、音をなるべく立てないように部屋へ続く扉を開けた。
暗くて狭い部屋だった。
短い間だったが、きっとここでルードは育ったのだろう。
中央にあるベッドには、女性が眠っているようだ。
近寄ってその女性の顔をそっと見た。
かなりやせ細っていたが、懐かしい面影がある。
ルードは声を立てずに、涙を流しながら母、エリスレーゼを見ていた。
胸が上下しているところを見ると、まだかろうじて無事なのかもしれない。
母子の再会を涙しながら、クレアーナはしばしの間見守っていた。
ルードは感慨に浸っている暇はないと思い、クレアーナに目配せをする。
先にベランダに出て、クレアーナを待った。
クレアーナは軽々とエリスレーゼを抱きあげる。
そのまま音を立てないように注意しながらルードの傍へやってきた。
『乗って。急ぐよ』
『はい。エリスレーゼ様、坊ちゃまですよ……』
そう一言だけ獣語で言うと、クレアーナはエリスレーゼをしっかりと抱きなおし、ルードの背中に跨った。
背中の感触を確かめてから、ルードはベランダの床を蹴った。
その跳躍は城の敷地を大きく飛び越えるような。
ルードの中に物凄い力が漲ってくる。
兄、フェムルードが助けてくれているのかもしれない。
いつもではできないような、そんな力に溢れた跳躍だったのだ。
多少の足場の悪さをものともせず、ルードは建物の屋根を蹴って猫人の集落を目指してひた走る。
集落の中央では、ヘンルーダを始めとしたルードに救われた人々が待っていてくれたのだ。
ヘンルーダが静かに口を開いた。
「ルード君。部屋を用意したわ。そこにお母様を」
「ありがとうございます。助かります。クレアーナ」
「はい。かしこまりました」
すぐにひとつの部屋へ案内される。
そこはとても清潔な布がベッドに敷かれた部屋だった。
クレアーナはそこにエリスレーゼを起さないように優しく寝かせる。
「クレアーナ。もしかしたら僕、倒れるかもしれないけど、心配しないでね」
「何をなさるつもりですか?」
「ん。見てたらきっとわかるよ。でもなるべく僕から離れててくれる? みんなも頼むよ。生まれて初めて全力で魔法を行使するから、何があるかわからないんだ」
隣の部屋で人の姿に戻ったルードは、エリスレーゼの寝ているベッドに座った。
猫人の人々は窓から、ドアの向こうから心配そうにルードを見ていた
クレアーナはルードの傍をはなれようとしなかった。
目を瞑ってひとつ深呼吸をする。
「じゃ、いいね?」
「はい」
ルードはヘンルーダのときのように、エリスレーゼの頭を両手で挟むと、ゆっくりとした口調で詠唱を開始する。
『癒せ。万物に宿る白き癒しの力よ。我の願いを顕現せよ。我の命の源を……、すべて残らず食らい尽くせっ!』
ヘンルーダに使った治癒の魔法と違う詠唱だった。
あのときとは違う、物騒な言葉も混ざっていた。
詠唱が終わったとき、ルードの全身から純白の光があふれ出てくる。
その光はルードの腕を通り、手首に達し、手のひらからエリスレーゼの頭を包んでいく。
エリスレーゼの頭から顔、首、両手、胴、足までゆっくりと光が包んでいった。
ルードの動向を注視していたクレアーナは、慌ててルードを抱きかかえた。
ルードは力なく後ろへ崩れ落ちてしまったのだ。
「坊ちゃま。大丈夫ですか? 大丈夫ではないですよね?」
「う、うん。ちょっと、つかれちゃった……」
顔から血の気がなくなってしまったような、体中の力が抜けてだらりとしてしまったような。
間違いなく魔力が枯渇しているのだろう。
ルードはそのまま、クレアーナの胸に力なく倒れ込んでしまった。
▼
ルードは夢を見ていた。
優しいママ。
優しいクレアーナ。
毎日とりとめのない会話だけの日常。
ただそれだけでも幸せだった。
その幸せが醜い豚によって壊されてしまった。
布にくるまれて投げ捨てられた。
捨て台詞を残して、醜い豚は遠ざかっていく。
何もできない自分が嫌だった。
そんな、何度も見た夢だったと思う。
▼
いい匂いだ。
優しく額にかかる髪を指で撫でられているように感じる。
夢に見る優しい声が、聞こえてくる。
「この子、本当に生きてた頃のエルシードに似ているわね。双子のお兄ちゃんだからかしら」
「そうですね」
「でも、大きくなったわ。こんなに可愛くて、あの人に似なくて本当によかった……」
「えぇ。あの豚とは似ても似つきません。エルシード様も可愛らしかったですからね……」
耳元でそんな会話が聞こえてきた。
ルードは全身にまだだるさが残る感じがしたが、構わず目を力いっぱい開けてみた。
そこには、夢に見た、優しい目がルードを見ていたのだ。
「あら。起きたみたいね。クレアーナ、この子、今、名前は何て言うの?」
「はい。フェムルードという名前です」
「フェムルード……、おはよう。久しぶりね、元気にしてたかしら?」
「……ママ?」
「えぇ。そうよ」
ルードは目に涙を溜めたまま、力を振り絞って身体を反転させる。
涙の滴がルードが体をひねったおかげで、宙を舞った。
ぱたぱたとシーツの上に落ちたと同時に。
エリスレーゼに抱き着いて泣き始めたのだった。
「ママ、ただいま。遅くなってごめんなさい……」
「いいの。私もクレアーナに嘘を言わせてしまって、ごめんなさいね。おかえりなさい、でもここにいたら何をされるか……」
「大丈夫だよ。あの城から追ってこれる場所じゃないから安心して。ここはね、猫人の集落なんだ。安心していいから」
「そうだったの。あなたを育ててくれた人たちかしら?」
「ううん。僕のもうひとりのお母さんはね。フェンリルなんだ」
「まぁ。信じられないけれど、多分本当なのね。この白い髪。苦労したのね……」
「坊ちゃま、エリスレーゼ様はまだ回復されて間もないのです。それくらいにして、寝かせてあげましょう」
ドアをノックする音がした。
クレアーナがドアを開けると、そこにはヘンルーダがお膳を抱えて立っていた。
「失礼しますね。ルード君起きたみたいね。これ、お母さまに食べていただいてくれるかしら? お湯を多めに緩くして、鳥の肉を一緒に煮込んだので、滋養がつくと思うのね」
「はい。ありがとうございます。ヘンルーダさん。クレアーナ、僕動けないからお願いね」
ルードはのそのそと身体を引きずるようにベッドの横へ寝転がってしまった。
「あら。美味しいわ。初めて食べたわ。麦じゃないみたいね」
「えぇ。これは、ルード君が私たちの村を救ってくれたときに見つけた米という食べ物なのです」
「そうだったね。そういえば、フェムルードは赤ちゃんのときから頭がすごくよかったわよね、クレアーナ」
「えぇ、最初は本当にばけも……。いえ、天才かと思いましたね」
「クレアーナ。今僕のこと『化け物』って言おうとしなかった?」
ルードは寝返りを打って、すごく嫌そうな顔でそう呟いた。
「いえ、そんなこと言うわけないではないですか。気のせいですよ」
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