第八話 僕の中の彼の力。
シーウェールズに越してきてから三十日、こちらでいうところのひと月が経った。
こちらの暦も十二の月で表すようになっている。
今は八の月が終わろうとしている。
日中の暑さも峠が過ぎ、夕方は涼しくなってきていた。
夜に窓を開けると海が近いこともあって、心地よい風が入ってくる。
ルードは窓際に横たわって涼んでいるリーダのおなか辺りに頭を乗せて、一緒に涼んでいた。
夕食が終わり、クロケットは食器を洗い終えて二人の傍へ座る。
夕涼みをしながら、ゆったりと流れるいい時間だった。
「ねえ、母さん」
『どうしたの?』
「クロケットお姉さんの故郷なんだけどさ」
「私の集落ですかにゃ?」
クロケットは洗い物を終えて戻ってきた。
濡れた手を布で拭きながら、首を傾げている。
「うん。母さんだけに行ってもらうのもなんか駄目かなって。最近僕、何もしてないから」
『あのね、ルード。あなたはまだ子供なの。わたしの種族であればわたしと同じくらいの大きさになっているかもしれないのだけれど、あなたは人間。無理しなくてもいいの。大人になるために必要なことを覚える時期……、でもあなたは大人以上の知識を持っているわ。だから焦ってしまうのね』
「私もルード坊ちゃまと同じ歳のときは、外で遊んでいましたにゃ。朝晩は家の手伝いをしてましたけど」
「うん。わかってはいるんだよ。でも、ここに来てからは、海に潜ったり料理をクロケットお姉さんに教えたりしてるだけでさ。このままでいいのかなって思っちゃったんだ」
『ルード、あなたは慌てないで自分が何をしたいのか。何をすべきなのかを探すといいわ。それは
「母さん」
『何かしら?』
ルードは身体を反転させてリーダの首元に顔を埋める。
「あのね。僕は世界で一番母さんが好きだよ」
『えぇ。わたしもそうよ』
「でもね、僕は母さんに怒られるかもしれない」
『いいの。あなたがしたいことはなにかしら?』
「うん。僕はママに会いたい。クレアーナに会いたい。会ってありがとうって言いたいんだ」
『……あちらに戻ってしまうの?』
リーダは少し寂しそうな目をしてしまう。
「ううん。違うよ。僕ね、ルード君に会いに行ったとき、フェムルード君と話をしたんだ」
『えっ? もしかして。あの夜、わたしと一緒に寝てたのは……』
「うん。僕と、フェムルード君だよ。『ありがとう、やっとあっちにいける』って言ってくれて、行っちゃったんだ」
『そう。あのとき、あの子も一緒だったのね。だからママってわたしを呼んだのね……』
「うん。僕も聞いてた。きっと『ありがとう』って、『だいすきだよ』って言いたかったんだと思う。だから、僕は、一緒に来ていいよって言ったんだ」
『……ありがとう、ルード。あの子に会わせてくれて。嬉しかったわ。もういちどママって呼んでもらえたのだから』
「だから僕も、ママとクレアーナに会って『ありがとう』って言いたいんだ。僕はまだ何もできないと思う。でも、僕は母さんの力を借りて会いに行っても仕方がないと思ってるんだ。僕自身の力で会いに行かないと駄目なんだ」
『ルード。あの子、他に何か言ってなかった?』
「うん。『ボクのちからはきみにあげるね。ルードくん』って言ってた」
『そう。きっとルードがあの子を助けたように、あの子もルードを助けてくれるわ。それはあなたたちの力だから、大事に使うのよ』
「うん。だからね、僕と僕の中にある力だけで頑張ってみようと思う。いつになるかわからないけどね」
ルードはリーダの身体をきゅっと抱きしめた。
『あの子がルードの中に生きてるのね。やっぱりあなたは私の息子。あの子があなたと引き合わせてくれたのね。ありがとうフェムルード、わたしもあなたに会えて嬉しかったわ。もう聞こえてないかもしれないのですけどね』
「ルード坊ちゃま」
「どうしたの?」
「私はルード坊ちゃまといつまでも一緒にいますにゃ。死ぬまでずっと、いらにゃいと言われる日まで」
「ありがとう、クロケットお姉さん。僕も大好きだよ」
歳よりも、見た目よりも大人なルード。
でも放っておけない。
何もできないけれど、一緒にいたい。
クロケットは改めてそう思ったのだった。
▼
眠ってしまったルードを見ながらリーダとクロケットは話していた。
『あのね。クロケットちゃん。実は、ルードがわたしの元から離れていくかと思っていたの』
「えぇ。私もそう言うのではにゃいかと思っていましたにゃ。でも、それは違いましたにゃ」
『そうね。死んでしまったあの子が、ルードと一緒にここにいる。わたしの元からいなくならないって思っただけでね、泣きたくなるのを我慢するのが大変だったわ』
リーダの目から、涙が溢れていた。
クロケットは懐から布を取り出してリーダの目を拭っている。
「私も、
クロケットの目にも涙が溢れそうになっていた。
瞬きするたびに、長いまつげが合わさるたびに、ひとつ、またひとつと涙が頬を伝っていた。
『今はルードを一緒に見守りましょうね。あなたはわたしの娘になるのですからね』
「はい。お義母様」
『あら、それはまだ早いわよ。この国でも成人は十八歳なのだから』
「あと六年もあるんですにゃね……。今は我慢しますにゃ」
▼
次の朝、とんでもないことがルードの身に起きていた。
『ルード、ルード、起きなさい』
ルードはリーダに揺すられるような感じの中、目を覚ました。
「……あ、母さんおはよう」
『おはよう、じゃないわ。その姿……』
「えっ? 何か変なの? 寝ぐせでもひどい?」
「ルード坊ちゃま……」
クロケットは手鏡をルードの目の前に差し出した。
それを見たルードは、あまりの驚きに声を上げてしまった。
「な、な、な……。なんだこれっ!」
なんと、リーダより二回りほど小さい身体で純白の長い毛。
見た目は彼女そっくりの姿になってしまっていたのだ。
『純白のフェンリルなんて、それも人がフェンリルになった話は、わたしは聞いたことがないのよ』
「でも、すごーく、綺麗な毛。可愛いですにゃよ?」
クロケットは嬉しそうにルードにブラッシングをしている。
「もしかして、ルード君が言ってた『ボクのちから』ってこのことだったのかな?」
『そうかもしれないわね』
「でも、この姿じゃママに、クレアーナに会っても。僕だってわからないよ」
『そうね。わたしも四百年生きてるけど、こんなに不思議なことに出会ったのは初めてよ。こんなことになるなんてねぇ』
ルードは自分がリーダと同じ姿になっていることは、嬉しいとは思っている。
誰が見ても親子だとこれならわかるだろう。
リーダが四百歳を超えてたという事実も、地味に驚いてたのは口に出さなかったが。
「でもこのままじゃ困るんだ。もとの姿にもどらないかな……」
ルードは目を瞑ってそう思った。
そのとき、ルードの身体が白い光を発し始める。
『あら、ルード。何か呪文を唱えたの?』
「ううん。何もしてな……」
「うにゃっ。眩しいにゃっ!」
その光が収まると、毛の生えていないルードの背中をクロケットがブラシをかけている間抜けな光景がリーダの目に映っていた。
『うふふふ。ルード、戻ってるわ。人間の姿に……。何が起きたのかしら?』
「うにゃぁ……。つるつるですにゃ」
ルードは何気に素っ裸だった。
「えぇっ?」
よく見ると、ルードが寝ていた場所には、破けた彼の寝間着が見るも無残な状態で下敷きになっていた。
ルードはもう一度さっきの姿になれるかやってみることにした。
同じように今度はフェンリルの姿になりたい、そう頭に思い描く。
すると、ルードの身体が光に包まれ、純白のフェンリルの姿になれたのだった。
連続して人の姿とフェンリルの姿に変わっていると、初めて魔法を使えるようになったとき、夢中で呪文を詠唱しまくって魔力を使い果たしてしまったときがあった。
そのときと同じような気怠さが体を襲ったのだ。
ルードはフェンリルの姿のままぺたりと動けなくなってしまう。
「好きなように人の姿に戻れるのはわかったけど、魔力を使うみたい、だね。……ふぅ、ちょっと疲れたかも」
『馬鹿ね。面白がってやるものではないですよ。でもね、わたしはこの姿のルードも好きよ』
リーダはルードの横に寝そべり、彼を覆って抱くようにする。
「そういえば、母さん」
『ん? 何でしょう?』
「ボニーエラさんが、母さんのことを王女って言ってたじゃない」
「そうでしたにゃ。私もそう聞きましたにゃ」
クロケットはさっき中断してしまったルードのブラッシングを再開していた。
『あぁ、そのことですね。それは本当ですよ。わたしは
「王女っていうとさ、お姫様ってことだよね?」
『この歳でそう言われるのも、ねぇ。それにわたしは外に嫁いで子供を産んでいるのですから、王女とは違うのですよ。夫に逃げられてしまったのも……』
「母さん。僕、やりたいことがもうひとつできたよ」
『どうしたの? 急に』
「僕、強くなりたい。強くなって、そのフェンリル、殴ってやりたい。フェムルード君だって死にたくなかったんだ。それなのに、母さんを怒鳴っていなくなったなんて。僕の中のフェムルード君を馬鹿にしてるのと同じだよ」
『ルード、ありがとう……』
「僕も男だけど、ほんと、どうしようもないのがいるよね」
『えぇ、本当に』
「あとね、この姿になれたんだから、母さんの生まれた国に行きたい」
『えぇ。もう少し大きくなったら。……そうね、十五歳になったら連れて行ってあげるわ』
「うん。そのときまでもっと強くなるよ。クロケットお姉さんも一緒だからね」
「ありがとうございますにゃ」
▼
ルードは昼くらいにやっと魔力が回復して、人間の姿に戻ることができた。
クロケットはブラッシングが終わったルードの毛並みが気に入っていたそうだ。
「も、もう少しだけこのままでいてほしいにゃ。モフモフした感触がたまらにゃいんだにゃ」
そう言ってルードに抱き着いたまま離れようとしなかった。
確かにルードもクロケットの耳やしっぽを触りながら『モフモフしてて気持ちがいい』と言ったことがあるのだ。
それを憶えていたのだろう。
「この感触が『モフモフ』にゃんですかにゃ。すごく気持ちがいいですにゃ……」
そんな感じで離れようとしなかった。
さすがにリーダにはできないらしく、ルードにだけそうして抱き着いていたのも納得はできなくもない。
かといってルードのあの姿は『裸』なのだ。
よくよく考えてみると、リーダも服を着ていないのと同じ。
元々そういう習慣のないリーダは気にはしていないようだが、ルードにはちょっと恥ずかしいのだ。
今のルードは人の身体からフェンリルの身体になるとき、おおよそ倍くらいの大きさになってしまう。
服が破けてしまうのは必然的と言えるだろう。
かといって伸縮自在の服など存在しない。
人間からフェンリルの姿になるときは服を脱がないと無理だということになる。
フェンリルから人間に戻るときは、服を持っていないと駄目だ。
どう考えても無理があった。
家の中であれば大丈夫だろうけど、外ではどうすることもできない。
破れたはずの服が勝手に直っているなど、物語のように都合のいいことは起きないのだ。
フェンリルでいるときの身体の使い方は、移動しなければそれほど苦にはならない。
人間の姿のときは二本足で移動するが、フェンリルのときには四本足だ。
ルードの魔力が戻る前に、おしっこがしたくなって移動しようとしたのだが、筋力の使い方がおかしいらしく危うく漏らしてしまうところだった。
ルードはリーダに泣きそうになりながら、うまく歩けないことを伝えた。
リーダはルードの首の上を痛くならないように咥えて、軽々と持ち上げた。
そのまま風呂場まで連れて行ってもらって事なきを得たのだが、ルードは便所で用を足せなかったことが悔しくて泣きべそをかいてしまった。
そのあと、よちよち歩き状態のルードに歩き方と走り方を教えてくれた。
リーダとてもが楽しそうだったのを、クロケットもニヤニヤしながら見ていたようだ。
ルードは頭もよく、要領もよかったのでうまく歩けるようになるまで、それほど時間はかからなかった。
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