第四話 海が好き、魚も大好き、エビも好き。

 冬が過ぎて雪解けの季節になろうとしていた。

 クロケットもこの家に来てすぐ慣れてくれたみたいだっだ。


「はぁ、本当にいいお湯ですにゃね」

『そうね。このお湯があったからここに家を作ったのよ』

「ほら、駄目ですにゃ。ちゃんと肩まで浸かって温まらないと。まだ寒いのですから」

「いやだ! もう上がるんだっ!」

『そうですよ。我儘を言うのではありません』

「いや、そうじゃないから。お風呂が嫌いなわけじゃないからっ」


 母のリーダにジロリと睨まれ、クロケットに背中から抱きしめられながら、ルードはジタバタしながら嫌がっている。

 それもそうだろう。

 風呂に入っているのだからルードもクロケットも裸なのだ。

 小さめとはいえ、クロケットの胸がルードの首あたりに当たっている。

 それにルードは十二歳の男の子。

 意識をするなというのが残酷なのだろう。

 そんなルードの気持ちは、リーダとクロケットにはわかっていない。

 ただ風呂を嫌がっているようにしか思えないのだから。

 このあたりが父親のいない家庭の困るところだろう。

 男の子のルードの気持ちなどわかってもらえないのである。


「あー、そこそこ。ルード坊ちゃま、お上手ですにゃぁ……」


 何をしているかといえば、もちろんブラッシングであった。

 ルードの知識を総動員して、改良に改良を重ねて作ったいい香りのする木製のブラシ。

 一本一本の先が丸くなっていて、地肌を傷つけないように作ってあるのだ。

 これはリーダも絶賛していた。

 ブラッシングするとうっとりと目を閉じて、なんともいえない表情をしてくれるのだ。

 リーダ用とクロケット用で大きさの違うものを作ってある。

 リーダ用は手のひらよりも大きなもの。

 クロケット用は手のひらより少し小さいものだった。

 クロケットたち猫人にも髪をブラッシングするという習慣がなかったせいか、ここに来てからの彼女の髪は黒く、つやつやし始めていたのである。


 クロケットは猫人である。

 身体能力は人間よりも遥かに上のようだ。

 ただ、争いごとの苦手な種族なため、前に起きたようなことが心配されるのである。

 とても心の優しい種族なのだ。

 最近はルードの買い物についていくことが多くなっていた。

 フェルリーダ家から人間の町まで結構あるのだが、クロケットは遅れることなくルードについてこれる。

 それなのに人間に捕まってしまうなんて、とルードが話すと。


「にゃははは。あのときは、すっごく油断してたのにゃ。お母さんのことが心配でそれどころじゃなかったのにゃ」


 と、誤魔化していた。

 本当に優しくて危なっかしいお姉さんである。


 リュックのような鞄を背負って二人は買い物に来ている。

 人間の町ではクロケットのような猫人は目立ってしまう。

 そのため、クロケットはルードのしもべということになっている。


「魔獣使いのお兄ちゃんじゃないか。今日は何が必要なんだい?」

「はい。その甘いお菓子と果物の砂糖漬けをお願いします」

「よく買ってくれるよね。お兄ちゃんが食べるのかい?」

「いえ、母が大好きなんですよ」

「そうかい。いつも買ってくれるからおまけしておくからね」

「すみません。じゃ、そこの砂糖漬けも一緒に」

「はいよ。いつもありがとうね」


 銀貨と引き換えに商品をもらう。

 この銀貨は、リーダが鉱山があるかなり遠い山へ足を延ばしたときに、そこから採ってきてくれた宝石の原石を換金して手に入れているものなのだ。

 そのおかげでこうして買い物ができている。

 普段食べている米は猫人の集落から譲ってもらっているから買う必要はない。

 野草(自然に生えている野菜の類)や獣の肉は森から獲れるのだが、甘いものや生活に必要な雑貨などはこうして町へ買い物に来ていたりするのだ。

 クロケットが買い物についてくると言いだした当初、初めて連れてきたときはちょっとした騒ぎになってしまったことがあった。

 いくら綺麗な女性に見えるとはいえ、耳は隠せない。

 この国では人間以外は人と認められていないようなのだ。

 そんなクロケットを庇うために、ルードは咄嗟に『僕は魔獣使いなんです』と誤魔化したのだが、『あぁ、魔獣使いね』とあっさりと受け入れられてしまった。

 かなり昔だが、同じように魔獣を連れた人がいたこともあったらしく、この世界では稀にいてもおかしくないようなのだ。

 ただ、猫人を従えているのは初めてだったらしい。

 それも耳さえ違わなければ、クロケットは人間の中ではかなり綺麗な方なのだから。

 道ですれ違う男性が振り向いてしまうくらいに彼女は綺麗だ。

 最近はルードが根気よく教えたせいか、人間の言葉も片言だが話せるようになってきていた。


「ありがとうございますにゃ」


 ルードに続いてそう挨拶をすると、雑貨屋の店主も笑顔で応えてくれるようになった。

 そうして徐々にだが、クロケットが一緒に買い物をしにきても珍しいものを見るような目で見られなくなってきたので助かっている。


 ▼


 クロケットは料理や裁縫、掃除も完璧だった。

 ただ、料理は猫人の料理だったため、ルードの作っていたものとはかなり違っていた。

 猫人の集落では塩はとても貴重なものだったため、味がとにかくあっさりしていたのだ。

 ルードは五歳になったあたりから料理をするようになった。

 それまではたき火のような竈でリーダが焼いた肉や、生で食べても大丈夫な野菜などをリーダが噛み砕いてルードに与えていたのだ。

 ルードはその行為が少し照れ臭かったのだが、大好きな母であるリーダからもらえるごはんだったため、照れながらそれを食べて育っていった。

 ただ、五歳あたりになると、道具をうまく使えるようになったため、リーダに頼んで料理道具を手に入れてもらってからは、ルードが作るようになってしまったのだ。

 その程度のことで驚くリーダではない。

 ルードが最初から異常なほど大人びていたことから、そんな気がしていたのだという。


 ルードが作ったごはんは美味しかった。

 リーダも喜んで食べていたほどである。

 クロケットが猫人の集落でルードが作った料理を初めて食べたとき、衝撃を受けたらしいのだ。

 今まで作っていた料理はなんだったのだろう、と。

 猫人の料理は、あまり香辛料を使わない。

 前述の通り、塩もほとんど使うことがないのだ。

 貴重な塩と胡椒は保存食になる干し肉を作るときに使うくらいだろ。

 味が単調になってしまうのだが、そういう習慣がなかったためそういうものだと思って育っていたのだ。

 それをルードがあれこれ持ち込んだ調味料とまでは言えないが、各種香草や岩塩。

 その使い方に感銘を受けて『ルード坊ちゃまのお世話をして、この料理を教わりたい』そう思ったと彼女からは聞いている。

 今ではある程度の料理の味付けが猫人の集落でも行われているらしい。

 ときどき三人で訪れては交流を欠かしていないので、猫人の食習慣はがらっと進化したのだった。

 もちろん、ルードの目当ては米だったのだが。

 仲良くしてくれる猫人の子供たちとモフモフするのも大好きだった。

 彼が生前そういう趣向の持ち主だったかはわからないが、リーダに育てられてからはモフモフするものが大好きになった。

 もちろん、クロケットの耳としっぽも大好物であった。


 クロケットの入れてくれたお茶を飲みながら、ルードたちが買ってきた甘い果実の砂糖漬けをお茶うけにのんびりとした時間を過ごしていた。

 リーダは大きめの器で温かいお茶を飲んでいる。

 前足を器用に使って、大きめのティーカップのような器を固定して上手に飲んでいるのだ。

 フェンリラであるリーダの味覚は、ルードとあまり変わらない。

 特に甘いものが大好きで、食べているときは蕩けそうな表情になっている。

 だからこんな日常が今ではフェルリーダ家では当たり前になっていたのだ。


『クロケットの入れてくれたお茶、美味しいわね。この甘い果実もたまらないわ……』

「いえ、フェルリーダ様のおかげでこうして美味しいものが食べられるのですにゃ。甘くて美味しいのですにゃ……」


 まるで女子会のようになっていたフェルリーダ家の居間。

 それを嬉しそうに眺めているルード。

 年の離れた姉のようなクロケット。

 いつも綺麗で優しい母のリーダ。

 春の陽気の中ルードは『家族っていいな』と思ったのだった。


 ▼


 季節は夏になっていた。

 ルードのとある欲求が強くなったため、ちょっとした旅をすることになった。


「海産物が食べたい」

『どうしたの? ルード』

「母さん。海って知ってる?」

『えぇ、ここからかなり離れたところにあるのは知っているわ。それがどうしたのかしら?』

「美味しい焼き魚とかエビとかが食べたい」

『それは湖では駄目なの?』

「川魚はあまり好きじゃないんだよね。泥臭くて、料理も大変だから」


 そんなルードのちょっとした我儘で、海へ行くことになったのだ。


 ▼


「う、み、だーっ!」


 ルードはその場に飛び上がって喜んでいる。


『わたしも初めて来たのだけれど。風の香りがいいわね』

「そうですにゃ。私も初めて見ましたが、こんなに広い水は驚きましたにゃ」

「うわ、しょっぱっ」


 ルードは海水を舐めて驚いていた。


「だ、大丈夫ですかにゃ?」

「あのね、クロケットお姉さん」

「はいですにゃ?」

「この水をね、鍋で煮詰めると、塩になるんだよ」

「うにゃっ! それは本当ですかにゃ?」

「うん。だからね、塩なんて高価なものじゃないんだよ」

「こ、これが全部、塩ににゃるんですかにゃ……」

『本当にルードは物知りよね。もう驚いたりはしないのだけれど』

「うん。なぜか知らないけど、わかるんだよ。だからどうしても海の魚が食べたくなっちゃって」


 ルードはいまだに前世の記憶が蘇ったわけではない。

 ただ膨大な知識がルードの頭に浮かんでくるだけなのだ。

 だからこの世界に転生した事実も知らないのである。

 自分が赤子であった頃の記憶は、心の中にしまい込んでいる。

 生まれた屋敷であった衝撃的な事件のせいもあって、そんなことは忘れてしまったのである。

 今でも産んでくれた母と、クレアーナのことを忘れたわけではない。

 いつか会いに行きたいとは思っているのだ。

 あのときは、母が悪いわけでもクレアーナが悪いわけでもない。

 不幸な出来事だった。

 だが、今のルードの母はリーダなのだ。

 十二年育ててくれた彼女の愛情の方がまさっている。

 産んでくれたことを感謝はすれど、リーダから離れるつもりはさらさらないのである。


 ルードは上半身裸になり、どぶんと海へ飛び込んだ。

 リーダから泳ぎは教わっていたので、怖いことはなかった。

 海の水は澄んでいて、目の前の光景はとても美しかった。

 人並み外れた肺活量を持つルードは、海の底でとあるものを見つけた。

 それを三尾ほど腰の袋に入れて海面に浮きあがってくる。

 陸へ戻ってくるとリーダのもとへ走っていく。

 リーダの傍に座って、その殻を剥いて、ぱくっと食べてみる。

 口の中に広がるほのかな甘味と潮の香、ぷりぷりとした歯ごたえ。


「うんうん。これだ。間違いないよ。ほら、母さんもクロケットお姉さんも食べてみて」


 殻を剥いたそれをクロケットに手渡すと、ルードはもうひとつをリーダの口元へもっていく。

 リーダは疑うことなくそれを口に含んだ。

 軽く咀嚼すると、何とも言えない目をしてため息をついた。


『……はぁ。何ていうのかしら。言葉にできないくらい、美味しいわ……』

「ほ、本当ですにゃ。甘くてぷりぷりしてるのにゃ」

「これがね、エビっていうんだよ。生でも美味しいけどね、鍋で炒めても、火であぶり焼きしても美味しいんだ」

『そうね。湖にはない美味しいものなのね。さすがに驚いたわ……』

「海って美味しいんですにゃね……」

「それ違うから、海が美味しいんじゃなくて、エビが美味しいんだからね」


 リーダに育てられ、鍛えられたルードの体力はたいしたものだった。

 海に潜っては手製の銛で魚を突き、深く潜ってはエビやカニを獲ってくる。

 その間に簡易的な日差しを遮る場所を、リーダとクロケットが作っていた。

 強い日差しは二人にはきつかったらしく、少し暑そうにしていたのだ。


 ルードは腰の大きな布袋に入りきらないほどの海の幸を獲ってきた。

 潮風はさすがに慣れていないと肌がべたべたしてくる。

 風呂のないここでは夜を明かすのは、二人にはちょっときついだろう。

 かといって近くの港町へ行ったところで、二人が歓迎されるのかどうかわからないのだ。

 二人が涼んでいる間に魚の鱗を取り、エラと内臓を取るなどの処理を終わらせてしまう。


「母さん、クロケットお姉さん。どうしよう、帰ろうか?」

『ルード、何事も経験よ。近くの町へ行ってみましょう。もし受け入れてもらえなければそこで帰ることを考えたらいいわ』

「そうですにゃ。ルード坊ちゃまにゃらできますにゃ」

「そうかなぁ。……うん、行ってみようか」


 ルードは傷んでしまうともったいないから、海の幸を凍らせておくことにする。


『氷よ、凍てつけ』


 本来であれば、こんな単純な呪文詠唱ではないのだろう。

 ルードが試行錯誤して、詠唱を短くしてしまったからできるようなものなのである。

 海の幸の表面が薄く凍っていく。

 布の袋を三枚重ねて海の幸を放り込んでおいた。

 これで暫くは傷んだりはしないだろう。

 リーダが人間の匂いを辿って町を探している。


『こっちの方角に人が沢山いるところがあるわね。行ってみましょうか』

「うん」

「はいですにゃ」

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