プロローグその2
リーダは人の子であったルードを育てることに抵抗はなかった。
故郷に帰れば人の姿で生活していたからであろう。
息子のルードは意思の疎通ができたことから、とにかく手がかからなかったのだ。
乳児を持つ母親ではありえない状況。
ルードが特別なのだろうが、自分がしてほしいことを言葉で伝えてくれる。
母やヘンルーダに聞いた苦労話は、今のリーダには当てはまらなかったのだ。
一緒に暮らし始めて一年ほど経ったあたりのことだった。
困ったことに母乳の出が悪くなってきていたのだ。
この日からリーダの苦悩が始まる。
仕方なくルードに離乳してもらうことを考えたのだが、人間であるルードに与える離乳食をどうしたものか。
故郷に帰っていれば問題はなかったのだが、今帰るわけにはいかない。
ルードを連れて行っても自分の子だと認めてもらえるかどうかが不安なのだ。
ルードと暮らしてまだ日は浅いが、この子を手放したくない、リーダはそう思っている。
ルードが寝ているときにこっそりヘンルーダに相談にいったのだ。
ヘンルーダたち猫人は人と同じ姿をしているため、手先が自由に使える。
色々とアドバイスをもらって帰ってきて、ルードの可愛らしい寝顔を見る。
起さないようにルードの頭を撫でようとしたとき、ふと目に映った自分の肉球を見て、ため息をついてしまった。
まだかろうじて出ている母乳でなんとか誤魔化しながら、ルードの食事の方法を考えていた。
ルードはリーダの母乳を『美味しい』と言ってくれている。
それに関しては母として嬉しく思っている。
こんな経験をした母親はリーダが初めてだろう。
故郷の外ではこんな姿をしているが、こう見えても案外器用なのだ。
ルードのおしめを交換したり、風呂に入れたりするのは余裕でできる。
だからこれまで困ったことはなかったのだ。
故郷を出てから食事に関してはかなり不満があった。
リーダがこちらで普段食べているのは、比較的小さい草食の獣を狩ってきて、それに岩塩を爪で削ったものを揉みこんで丁寧に焼いたものだった。
幸い家には温泉が湧いている。
源泉はかなり温度が高いので、風呂には別に湧いている泉の水を一緒に引いて温度調整をしているのだ。
温度の高い源泉近くに採ってきた野草を漬け込んで、一度熱を通してから食べるようにしている。
好んで採ってくる野草は、味もよくリーダは案外気に入っている。
その野草と肉が朝食であり、昼食であり、夕食だったりする。
肉も適度に脂がのっていて美味しく、食いしん坊のリーダはほぼこのような食事で満足していた。
彼女は別に食通ではない。
美味しいと思ったものが食べたいときに食べられればそれで満足なのだ。
ただ、今になるとそれでは困ってしまう。
ルードが美味しいと言ってくれるかが不安だったのだ。
思い切ってルードに相談してみようと思った。
ルードはよちよちと立って歩くことができるようになっていた。
「ねぇルード」
「どうしたの、母さん」
リーダが呼ぶとこちらへ歩いてくる。
ゆっくりと、笑顔も一緒に。
ルードはリーダの近くまで歩いてくると、どっこいしょという感じにぺたんと尻餅をついたような感じに座った。
首を傾げてリーダを見上げる。
それがまた可愛らしくてたまらないのだ。
「ちょっとごめんね」
「うん」
リーダは爪を引っ込めた指先で、ルードの唇をちょっと持ち上げた。
まだ歯は生えそろっていない。
数本生えてきているようだが、ものを咀嚼することは難しいかもしれない。
「あ、やっぱりまだみたいね。あのね、お母さんね、おっぱいが出にくくなってきてるのよ」
「そうだったんだね。僕が飲みすぎちゃったのかと思ってた」
確かにルードの成長は速い。
ここへ来て半年しない間に、ものに捕まりながら歩くようになってしまった。
手先も思ったより器用に動くようだが、まだまだ力が足りない。
リーダの指を自分の意思で、きゅっと握ってくれるくらいにはなっている。
「だからね、違うごはんをあげようと思ったのだけれど、あなたはまだ歯が生えそろってないからね……」
「僕はかあさんがくれるのなら、何でもいいよ」
「そう? それなら今夜からちょっとだけ食べてみる?」
「うん」
いつものように夕食を作ったのはいいのだが、どう考えてもルードが食べられる硬さではない。
すりつぶすにしても、すり鉢もないことからこのまま小さくちぎって与えてもまずいだろう。
リーダは故郷の学園を幼少部から高等部まですべての教科において、主席の成績で卒業している。
それは料理や裁縫などの、女生徒の受ける教科についてもだった。
知識としては完璧なものを持っているのだが、いざこの手でやろうと思ってもどうにもならない。
あれこれ考えて、リーダが結論に至った方法は。
爪を伸ばして肉を小さく切る。
野草もいい感じの柔らかさに煮えているものを小さく切る。
それを味が壊れないように細心の注意を払って、奥歯ですり潰してから。
「ふぁい、ルード」
「あーん。んっんっ。おいしっ」
まだ歯の生えそろっていない口でもぐもぐと咀嚼してから、喉を鳴らして飲み込んだ。
結局、リーダが口移しであげることにしたのだった。
「野菜炒めみたいで美味しいかも」
「やさいいため? 何よそれ?」
「僕もよくわかんない」
ルードはリーダに嘘を言わない。
こうして、出にくくなった母乳の代わりに、ルードは新しいごはんを食べることができるようになったのだ。
リーダはフェンリルの姿だったから照れはなかったと思っている。
もし故郷で人の姿をしていたとしたら、それは恥ずかしいという限度を超える行為だったかもしれない。
ルードは相変わらず饒舌だったが、それでも思考状態が今の姿に引きずられているのか、子供らしい振舞をしている。
それがまたリーダにとって、悶絶するほど可愛いのだ。
▼
あれからすくすくと育ったルードは五歳になっていた。
食べ物を採りにいくとき、リーダの背中に乗って一緒に行くようになっていた。
ルードに色々教えながら、食材になるものを採ってくる。
ルードからリクエストがあり、リーダはヘンルーダからあるものを貰ってきたのだ。
ルードは不思議なことに、リーダ以上の知識を持っている。
小さかった頃のルードはリーダに言われるがまま、毎食の食事を食べていたのだが、最近とある欲求が出てきたみたいなのだ。
「母さん」
「なぁに?」
「料理をする道具がほしいんだけど」
「えっ?」
それは見事な手際だった。
ルードは初めて使うだろう、ナイフや鍋を器用に扱っている。
「えっと。左手は猫の手……、っと。うん。あとは塩を削ったものを……」
「何を作っているの?」
「うん。野菜炒めだよ」
「これが?」
「塩しかないから、味が単純だけど、肉も野草も美味しいから多分大丈夫」
自分とリーダの分をひとつの皿に盛りつけて、リーダを挟んで座っている。
ルードは『はし』という食器を、枝を削って作ってしまったようだ。
その細い二本の木をうまくつかって野菜炒めを一口食べてみる。
「うん。思ったよりもいいかも。はい、母さん」
ルードは器用にその『はし』を使ってリーダに食べさせてくれる。
こんな日が来るとは思っていなかった。
可愛い息子にごはんを食べさせてもらうのだ。
これが嬉しくないわけがない。
リーダは食べさせてくれたものを口の中で咀嚼してみる。
それは思ったよりも美味しく『うちの子天才じゃないかしら?』と親バカになってしまうほどの衝撃だったのだ。
「あら? あらあら、美味しいわ」
「母さんが食べさせてくれたのも美味しかったけど、もっと美味しいものが食べたいな、って思っちゃったんだよね」
「息子の作ってくれたごはんが、こんなに美味しいものだと思わなかったわ」
「えへへ。ありがと」
その日からフェルリーダ家では、ルードが食事を作るようになったのだ。
ルードが欲しがるものは、リーダも知識で知ってる『香辛料』というものだった。
ヘンルーダからそれを分けてもらうと、ルードは色々な料理を作り始める。
毎日ちょっと違った料理を食べさせてくれる。
ルードも料理をするのが楽しいらしい。
何より大好きな母と一緒に美味しいものが食べられる。
それが何よりの喜びだったのだろう。
▼
「ルード、ごはんまだかしら?」
「もうちょっと待ってー」
ルードが六歳になったとき、彼が料理をするようになってから、リーダの『食っちゃ寝』が加速していった。
『今まで育ててくれたから』とルードはご飯を食べさせてくれる。
リーダと同じものを食べているというのは前から変わっていないが、リーダが食べていたものよりかなり美味しいのだ。
ルードはヘンルーダの集落からもらってきた小麦で、薄いパンのようなものを焼いて、それに肉と野菜を挟んで、肉汁で作ったソースを垂らして食べさせてくれる。
それがまた、珍しい食感で美味しいやら、楽しいやら。
「あぁ、美味しいわ。でも、このままじゃわたし、駄目になっちゃうかも……」
「ん? どうしたの、母さん」
ルードと食材を採りに行くとき、身体を動かしてはいるのだ。
ただそれは運動というところまでには達していない。
人を軽く置き去りにしてしまうほどのリーダの運動能力からいえば、散歩程度にしかなっていないのだ。
おまけにルードの作る食事は美味しい。
フェンリルの姿からは考えられないほど食べる量は少ないように見えるが、それは人の姿のときと同じだから仕方がない。
人の姿のときはけっして少ない方ではなかったのだ。
今のリーダが食べている量はそういう意味では少なくはない。
このままでは『食っちゃ寝』が『ぽっちゃり』になりかねない。
リーダはウォルガードにいた頃、スタイルには自信があったのだ。
王女ということもあり、どこへ行っても注目を浴びる。
いくらリーダが『適当』で『やる気のない』本性だったとしても、『猫人を被っていた』こともあり、体裁は整えてきたのだ。
何を聞かれても即座に答えられるように、知識だけは詰め込んできた。
そのおかげもあって、今こうしてルードと暮らしていけるのだ。
今の生活はお金を必要としない。
ウォルガードにいた頃は、買い食いをするときにはタダでできるわけがないのだ。
そのため最低限のお金は小遣いとして母、フェリシアからもらっていた。
ヘンルーダのところで色々用立ててもらっているが、それはすべて物々交換。
ヘンルーダから聞いているが、猫人の集落も生活にお金を必要としていない。
自分たちで狩りをし、家畜を育てながら麦などを作っている。
自給自足できていることだけを見ると、ウォルガードと似ているのだ。
猫人は身体能力は高いのだが、戦いに不向きの種族。
狩ることのできない牛に似た獣をリーダが狩って、背中に乗せてヘンルーダにそのまま渡して必要なものをもらってきている。
リーダにとってはそれこそ運動にもならない狩りで、息子の欲しがる必需品と交換してもらえているのだから助かっているのだ。
リーダはふと思った。
もしウォルガードに戻ったとして、向こうに残してきた服が着れるか心配になってきたのだ。
ルードの作るごはんが美味しいからといって、このままでは母や祖母に言われた『食っちゃ寝』になってしまう。
『ルードついてらっしゃい。わたしが狩りを教えてあげるわ』
「ほんと? やったー」
ルードは一緒に出掛けられるのが嬉しいのだろう。
まさかリーダの運動不足解消が目的だとは思っていないようだ。
毎日のようにルードを連れて狩りをしにいく。
獲物の動き、気配の消し方。
『ルード、それでは獲物に気づかれてしまうわ』
「……うん」
実を言うと、リーダはものを教えるのがあまりうまくないようだ。
確かにリーダが気配を消すと、ルードが見失ってしまうくらいにうまい。
『違うの。こうよ、こう。そこからすーっと意識を薄くしていくの。違うのよ、こうよ』
「……母さん。難しいよ」
天才肌というのだろう。
そこでルードは、リーダの言いたいことを記憶の奥にある知識と照らし合わせる。
リーダは天才だったが、ルードもある意味おかしいのだ。
なんとなく、こうなんだろうな。
そんな感じで成し遂げてしまう。
似たもの母子というべきか。
毎日ルードを背中に乗せて、森を走っている。
これでいくらかは運動不足が解消されていることだろう。
毎日作ってくれるルードの料理を美味しく食べたら、次の日走りまくる。
それが母子のスキンシップの一環でもあり、隠れたダイエットでもあったのだ。
この努力の結果は、いずれウォルガードに帰ったときにしかわからないだろう。
「母さん。はやいねー。楽しいねー」
『そうかしら? それじゃ、今日はもうちょっと頑張っちゃおうかな』
ルードを背中に乗せて、気持ちよく疾走するリーダだった。
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