40 白蛇神社 三

 翌日の朝。

 朝日が神社を照らしていた。久しぶりに浴びた太陽の光は存外に気持ち良く、ハナを伴って境内に出た辰也はしばらく堪能した。

 それから井戸から水を汲んで顔を洗っていると、

「剣宮様」

 背後から声がかかった。見ると、白い襦袢を羽織っただけの美也子がいる。

「おはようございます」

 彼女は、はにかんで一礼した。辰也も同じように返し、続いてハナも挨拶をする。

「お早いですね。病み上がりですので、もう少しゆっくりされれば良かったですのに」

「習慣でな。早くに目が覚めてしまうのだ。もっとも、朝の鍛錬はハナに止められてしまったが」

「当たり前でしょっ。もー」

 間髪入れずにハナが言う。

 辰也は苦虫を噛み締めた顔で肩を竦ませると、美也子がくすりと笑った。

「ふふっ。私もそう思います。どうかご無理をなさらぬように」

「そうだな……。君の言う通りだ。ただやはり……何もしないでいるのは落ち着かなくて困る」

「それは分かります。ですが、あなたが倒れれば悲しむ人がいます。そのことをゆめゆめお忘れなきようお願いします」

「ああ、分かってはいるのだがな……」

 ばつの悪そうな顔をして、辰也は呟く。

「この後すぐ朝食をご用意させていただきますね。お部屋でお待ち下さいませ」

「すまない。ありがとう」

「いえ。誰かに自分の料理を振る舞うというのは、緊張致しますが、嬉しいものなのですね。今までは白蛇様ぐらいで、人に食べさせるのは初めてで楽しいです」

「それならば良かった。俺も遠慮なく馳走になろう」

「はいっ」


 白蛇は今日も超然とした佇まいで、辰也と美也子を見下ろしている。

「ジャジャなどただの子供よ」

「子供、ですか」

 と辰也が返す。

「ああ。あやつはただ、太陽が気に入らないからと空を封じ、神様は己一人で良いと他の神々を駆逐した。気に入らなければわがままに駄々をこね、後のことなど知らぬ存ぜぬと突き通す。子供ではないか?」

「……そうなのかもしれませんが」

 あまりに途方がなさすぎるわがままだ。まるで現実感が湧かない。そもそも神と人の尺度がかけ離れすぎている。

「同時に極度の怖がりでもある。大量の分体を使役しているが、あやつ自体は外に出ぬ。もっとも、だからこそ神々を駆逐することができたのだがな」

「……不思議に思っていたのですが」

「む? なんだ。言うてみい」

「なぜ白蛇様は駆逐されずに済んでいるのですか。そればかりか、黒蛇は白蛇様を避けているように感じます」

「ぬう。それか」

 と白蛇は、困った調子で言う。

「どうなされましたか」

「いや、なに。神と呼ばれるようになってから、膨大な時間の中で過ごしたが、こういったことは今でも答えにくくてな」

「……は? と、いいますと……」

「あー、あやつはな、妾に惚れておるのじゃよ」

「ほ、惚れて? ジャジャが、白蛇様にですか?」

「う、うむ。その通りじゃ。無論、袖にしてやったのだが、しかしあやつは未だ諦めておらなくてな。黒蛇はここを避けて通るのじゃ。蛇剣衆も侵入を禁止されている。妾の気を引かんがためにの。故に、ここにいる間は安全というわけじゃな」

 まさかの恋愛絡みに、辰也は驚きを隠せない。

「そういうわけでしたか……」

「……だがな、これは体のいい軟禁じゃよ。いつあやつの考えが変わるか分からぬしの。そうなっった時、実力行使で妾を物にしようとしてくるかもしれん。そうなった時がこの社の終わりじゃ」

 と白蛇は目を細めた。

「白蛇様……」

 そう呟いた美也子の横顔を見やると、悲しげな瞳を白蛇に向けていた。

「……心配するな、美也子よ」と白蛇は優しげな声で言う。「少なくともお主が生きている間にはそのような事態にはならぬよ」

「で、ですが、それでも白蛇様は」

「それに、その前にそこにいる辰也がジャジャを退治してくれる。そうであろう? 辰也よ」

「我が身命に賭けて、必ずや」

 辰也は自身に言い聞かせるように強く宣言した。

「辰也様……」

 期待感を滲ませた声を出した美也子は、気色に富んだ顔で辰也を一瞥する。

「ふむ」と白蛇は頷いて、「妾のことはよい。それよりもお主だ、美也子」

「私、ですか?」

 急に指名された美也子は、きょとんと尋ね返した。

「ああ。お主もそろそろ相手を見つけねばならぬだろう? しかし今の世に良き男などそうはおらぬ。お主の父も、たまたまこの付近で倒れておった男を保護してやったのが馴れ初め。幸いここは神気に満ちておるし、数日滞在させておったら蛇気が抜けての。それから結局ここに住むようになって、それから二人は自然とくっ付いたのじゃよ。だがそのような偶然はそうそう起きぬ。そこでだ」

「は、はあ」

「剣宮辰也と子を為すのはどうじゃ?」

「はい?」

「は?」

 辰也と美也子は同時に間抜けな声を出した。白蛇はそれを見て、愉快そうににやりと笑う。

「辰也もよう考えると良い。この先の戦いでお主は死ぬやも知れぬ。そうであろう」

「それは、はい」

「そこで、美也子を抱き子を為せば良い。それにお主も女を知らずに死ぬのは嫌であろう? 良い機会じゃろうて。幸い美也子はお主に気があるようだしの」

「ちょっ! 白蛇様何を言って……!?」

 顔を真っ赤にした美也子は慌てた様子で言った。

 白蛇はそんな美也子のことをわざと無視して、

「どうじゃ? 器量よし、料理も美味い。何よりも責任を取る必要はない。妾が許す。欲しいのは跡取りじゃ。どうじゃ?」

 辰也は困った顔で美也子を一瞥した。彼女は顔をますます赤くして、もじもじしながら時折辰也のことを見返している。ふと視線が合うと慌てて逸らしながらも、その実、辰也のことを気にしている。

 ハナは何も言わない。

「ハナ?」

 そこで問いかけてみると、少しの間があってからようやく声が返ってきた。

「……わ、私に聞かないでよ……。どうするかは辰也が決めて。大丈夫、何を選択しても私はあなたが決めたことを尊重するから……」

 心なしか悲しそうである。

 美也子は頰を赤らめたまま、満更でもない様子で辰也を見上げ、ごくりと生唾を飲み込んだ。

「まあ、今すぐに決めろという話ではない」と白蛇は言う。「まだ体から蛇気は抜けておらぬ。抱くのは蛇気が完全に抜けてからだ。そうでなくては、子に蛇気が宿ってしまうかもしれぬからな。それまでよう考えておくと良い」

 それから二人と一刀はその場から出た。

 一緒に廊下を歩く間も、共に食事をする間も、誰も何も言葉を発しなかった。

 ただ美也子は、りんごみたいに顔を赤々と染めたままだったが。




 ガス灯もなく道もない。暗く険しい山中である。

 小太りの修験者、野木松吉は、錫杖を右手に持ち、松明を左手で掲げて上を目指し登っていた。

 川に出会すと、今度は上流に向けて進んでいく。するとやがて、高く険しい岩壁と、そこから流れ落ちる大きな滝が見えてきた。

 壁際には人が一人ようやく通れるだけの狭い足場があり、滝の裏側へと続いている。野木は迷いなくその足場に乗った。

「ぬう」

 しかし太った体が邪魔をして、乗れる場所はほんの僅かしかない。

「……これも世を救うための試練」

 何やら独り言を呟きながら、ずりずりとすり足の要領で足場を行く。滑り落ちれば滝壺に真っ逆さまだ。そうなればいかに野木であっても命はないだろう。

 それでも迷いなく進み続けて、ようやく滝の裏側へと潜り込む。そこには洞窟があった。

 野木は洞窟の中に入っていく。

 松明の明かりを頼りに奥へ入り込むと人の気配が多数あった。

「頼もう!」と声を張り上げる。「我は野木松吉! 重大な用があり、こうして参った次第である!」

「……土倉の爺の弟子か……久しいの。お主、少し肥えたな?」

 皺がれた声と共に、野木の前に一人の老人が現れた。

「……これも我らが敵を騙すため」

 平然と返す野木である。

「土倉は壮健か」

「はい。元気があり余っているほどに」

「ふ。相変わらずのようだの。して、何用か」

「はい。実は桃源島の刺客が今ジャジャを討つべくこの蛇傀列島に来ております」

「ほう? しかしあやつらは一度挑み、敗れたではないか。また蛇剣衆に敗れ、おめおめと帰るのではないか?」

「それはありえませぬ。我らも彼と一度会いました。そして、実際に蛇剣衆と戦ったのです」

「ふむ? それで?」

「彼は勝ちました。それも尋常ではない力を発揮して。俺も、師匠も確信しました。ジャジャを討ち取れるのはあやつしかいないと」

「……たまたま弱い者と戦っただけではないか?」

「いえ。俺が直接見たのは蛇姫と呼ばれる蛇剣衆でした」

「蛇姫? あの娼婦の街の親玉か」

「はい。彼女は蛇剣衆だったのです」

 それから野木は事細かに戦いの一部始終を話した。蛇姫が操った蛇剣術の奇怪さに驚き、それを破った辰也の強さに驚愕を禁じ得ない。

「だが……」

 それでも言い淀む。

 無理もないと野木は思う。それほどまでに以前の桃源島の敗北は衝撃的だったのだ。

「俺は、ジャジャを倒せるのはあやつしかいないと、確信しています」

 やがて目の前の老人は、目を瞑って、思案する仕草を見せた。

「分かった……。儂等もその桃源島の者に賭けようではないか。して、その者の名は?」

「剣宮辰也」




 その晩。

「……ねえ、辰也。起きてる?」

 寝床に着いた辰也の枕元に置かれたハナは、そう尋ねてきた。

「ああ」

「もし、ね」

「うん?」

「もし、あの子を抱くのなら、せめて私は遠くに置いておいてね」

「……心配せずとも抱きはせぬ。それに、止めないのか?」

「……止めないよ。止めるわけ、ないよ。私はただの刀で、辰也は男なんだから」

「だが」

「辰也はそれで本当にいいの? どうなるか分からないのは本当なんでしょう? 私なら大丈夫。正直平気じゃないけど。嫉妬がすごいけど。でも、辰也に後悔して欲しくないの。それに、あの子は辰也に気があると思う。辰也が望めば、あの子はきっと拒まないよ」

「ああ……そうなのかもしれぬがな。それでも俺は、抱くならハナしかいないと心に決めている」

 ハナは言葉に詰まったようだった。

「照れているな」

 と辰也は指摘した。

 うぐぐ、と呻くような声がして、それからハナは続けて呟いた。

「……でも……私は刀だよ……。その言葉は、死ぬほど嬉しいけど……」

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