41 白蛇神社 四

 白蛇神社に来てから一週間が経過した。

 辰也はあてがわられた畳敷きの部屋で座禅を組んで瞳を閉じている。体内に向けた意識を集中し、気を巡らせた。

 驚くほどすんなりと、気が全身を流れていく。ここに来てからようやく気づけたことだったのだが、蛇気が流れを阻害していたのだ。しかし今や蛇気は完全に体内から追い出された。全身の疲労もすっかり取れて、体も驚くほど軽くなっている。

 悪さをしていたのは蛇気であったと、もっと早く気づくべきであった。今まで気づけなかったのが馬鹿のようにすら感じる。

「仕方がないよ」とハナは言う。「それだけ辰也は限界だったんだ」

「……ふむ」

 その限界を無理で押してジャジャへ挑もうとしていた自分をむしろ恥じた。あの状態で挑んでも、もはや勝機は見えなかったろう。

 とんとん、と戸を叩く音が聞こえた。美也子である。

 許可すると一週間前と変わらぬ美しい所作で戸が開いた。

「それでは白蛇様の元に参りましょう」

「ああ」

 と辰也は頷いた。

 結局のところ、一週間が経過しても辰也は美也子を抱かなかった。

 白蛇は責任を取らなくとも良いと言うが、辰也にとってはそうもいかない。ハナも何を言うか分からない。言わなくとも色々な何かを我慢する羽目になるのは明白で、辰也にとってそれだけで手でを出さない理由となる。

 美也子とは二日間はぎくしゃくしていたが、三日経ってからは良くなった。もっともハナは、「……美也子さんが諦めたのよ……」と呆れたような声で言ったのだが。

 そのようなことを美也子の背中を見つつ廊下を歩きながら考えていた辰也であったが、視線を感じたのか怪訝そうな顔で彼女は振り返った。

「……何か?」

「いや、なんでもない。考え事をしていただけだ」

「そうですか……」

 ため息を吐くように彼女は呟いた。


 白蛇がいる舞台に美也子と辰也は立っている。

「随分と良くなっているようだな」

 白蛇は重々しい声でそう言った。

「はい。おかげさまで気の巡りも良くなり、体が軽くなりました。正直、驚くほどです」

「そうであろう。それだけお主の体は限界であったのだ。今まで倒れなかったのが奇跡のようなものだ。して、もう出立するのであるか?」

「はい。いつまでもお世話になるわけにはいきません。一刻でも早くジャジャを討伐しなければいけませんから」

「そうだな。妾としては美也子のために引き止めたいのが本音だが、ジャジャを倒さなければならぬ」

「はい」

「……その前に、よろしいでしょうか」

 と、唐突にハナが口を挟んだ。

「……何だ?」

 じろりと睨むように白蛇はハナに視線を注いだ。

「そろそろこの社にいるもう一人を紹介していただけませんか」

 途端、白蛇の目が大きく見開いた。

「は、ハナ様? どういうことですか。ここには私たちしか」

 困惑した様子で美也子は問うた。彼女は何も知らないようである。

 ハナが答えるよりも先に、白蛇が口を開いた。

「お主……気づいていたのか。さすがは常世桜の元巫女と言ったところか」

「え? 白蛇様?」

 白蛇へ顔を向ける美也子。辰也はじっと黙って姿勢を保ったままである。

「はい。それも私たちがここに訪れてからずっと、この社に滞在していましたよね?」

「うむ。その通りだ。紹介をするつもりはあったのだが、機を逃してしまっていた。美也子、すまなかったな」

「い、いえ。しかしハナ様おっしゃられたことは、本当なのですか?」

「ああ。しかし隠していたのは訳がある。彼女の要望でもあったが、何よりも驚くような人物であったからな」

 そう言って白蛇は、頭を己の後ろへ向けた。

「出てこい。恥ずかしがる時間は終わりだ」

 すると、白蛇の陰の中から一人の少女が音もなく進み出た。

 全身が純白の出で立ちである。

 真っ白な巫女服を纏っている彼女の白い頭髪が、木張りの床に垂れている。白濁した瞳は無遠慮に辰也を見返す。肌は色素が薄く透明感があり、華奢な体と合わさってひどく儚げな印象を抱かせた。

 辰也とハナは、その姿を一目見た瞬間驚いた。彼女のことを忘れようとも忘れられる訳がない。

「蛇巫女っ……」

 黒蛇ジャジャの巫女である。

 辰也は反射的に身構えて柄に手を添えたが、ハナが「待って」と止めた。

「へ、蛇巫女様……ですか」

 美也子もまた驚きを隠せない。

「会ったことがあるのか?」

 白蛇は聞いた。

「はい」辰也が答える。「前に一度だけ」

「ほお。ならば紹介はいらぬな。美也子も蛇巫女については知っておろう?」

「は、はい……」

 と美也子は緊張した面持ちで肯首した。

「……どうして、蛇巫女が……?」

 彼女は敵なのに、とハナが尋ねた。声が震えている。

「まず初めにはっきりせねばならぬが、彼女は敵ではない」

「え?」

「ぬ?」

「それは……?」

 それぞれが疑問の声を出す。

「蛇巫女は、ジャジャによって強制的に巫女にされた。神には巫女が付き物だと言ってな。しかしあやつは巫女の役割を知らぬ。故に儀式を行わず、ただの象徴として手元に置いているのだ」

「ほ、本当に」

「うむ」

 白蛇が答える。

「……蛇巫女さん。私が刀の前は人であったことは知っているのでしょう?」

 蛇巫女は、こくりと頷いた。

「どうして、神気が宿っているの? あなたが持つ神気は、私が人だった時と同じぐらいある」

「おお、さすがだ。そこも気づいていたか」

 白蛇は感嘆とした声を上げたが、ハナはそれには取り合わない。真っ白な黒蛇の巫女の言葉を待つばかりである。けれど蛇巫女は、返答せずに見返すだけである。

「答えて」

 と、ハナは語気を強めた。

「……それは、すまぬ」白蛇が謝罪した。「言い忘れておった。彼女は言葉を喋れぬ。いや、正確には、言葉をジャジャによって封じられている」

「ど、どういうことですか?」

「あやつのことだ。余計な言葉を発されて真実を知られることを恐れているのだろう。しかし、そういうわけでな。妾が蛇巫女の心を読んで答えよう」

「……分かりました」

 あっさりとハナは引き下がる。神が人の心を読むのはごく普通のことだからである。例えば常世桜は、夢という形で己の意思をお告げで伝えるが、それは心を読めるからできる技能であるのだ。

「さて、蛇巫女はなぜ神気を宿っているのか、だが。簡単なことだ。彼女はこうなる前、陽の巫女であったからだ」

「陽の巫女……ですか。しかし、殆どの陽の神は駆逐されたはずでは?」

「ふっふ。彼女はこう見えて……なに?」

 と言いかけた白蛇は、蛇巫女の方へ頭を向けた。辰也でも分かるほど、彼女から強い圧を感じてしまう。

「……す、すまぬ。恥ずかしいから乙女の歳を言わないで、だそうだ」

 何やら唐突に緊張感が失せた。

 だが美也子は「もっともだ」と頷いて、ハナも「それは仕方ない」と納得している。よく分かっていないのは辰也だが、女子の多勢を敵に回しても良い結果にならないのは重々承知しているので何も言わないのだった。

「こほん」わざとらしい咳払いを一つして、ハナが続けて質問する。「どうして、あなたはここに?」

「……頼みがあるそうだ」

「頼み?」

「……蛇剣衆の頭領を、殺してほしいのだと……」

「彼に何かをされたの?」

 即座に首を大きく振って否定する蛇巫女は、必死さが伴っている。

「……ジャジャのくびきから彼を解き放って欲しい、そうだ。それから、これ以上の質問には答えられないと、謝っておる」

「どうして?」

「ジャジャが呼んでいるからだ」

 蛇巫女は悲しそうに目を伏せて、軽く一礼した。それから振り返ると、とぼとぼと歩いていく。ジャジャの元に帰りたくないようであった。

 やがて蛇巫女は、完全に辰也たちの前から姿を消した。




 辰也とハナは、美也子の案内で社の奥へ向かっていた。そこから外に出ると、蛇空のおどろおどろしい暗闇が広がっている。

 美也子が持っていた提灯で前を照らし、さらに進んでいくと、岩壁がそびえ立っており、蛇の口のような真黒きて巨大な洞穴が開いていた。穴にはしめ縄がかけられて、沢山のお札が貼られている。

「ここです」

 と美也子は言った。

「……分かった」

 辰也は迷うことなく洞穴へと足を踏み入れた。手には提灯を持っている。

 中は陰気が充満していた。

 辰也は慎重に歩を進めながら、先ほどのことを思い返す。


 蛇巫女が出て行った後のことである。

「ここで休ませた礼の代わりに、妾からも頼みがある」

 と白蛇が言うのだ。

「礼、ですか。俺にできることであれば、何なりと」

「うむ。というよりも、お主にしかできん」

「と、言いますと」

「社の奥に洞穴があってな。実はそこには鬼が棲んでいるのだ。その鬼を退治してもらいたい」

「鬼、ですか」

「うむ。その鬼はジャジャから匿っておったのだが、妾が張った結界の隙間から蛇気が入り込んでしまったのだ。その影響で、鬼は凶暴化しつつある。その前に退治してほしいのだ」

「……結界を解いてしまえば、ジャジャが勝手に倒すかと思いますが」

「その鬼は、無論、陰気の持ち主であるが、元来は大人しい鬼での。争い事を好まぬ。それで蛇気によって己が変わっていくのを許せぬのだ。しかしジャジャに殺されるのは望まぬと。同じ殺されるのであれば、屈強な人間の手によって葬り去られたいと。この頃は口癖のように言っておる。どうだ? その望み、叶えてやってくれぬか?」

 そうして辰也は一も二もなく承諾したのであった。


 辰也は奥に辿り着いた。

 提灯を地面にそっと置く。

 明かりが炙り出したのは、鬼である。

 辰也の倍はある巨大な肉体は太い筋肉で鎧のように覆われている。肌の色は赤褐色。着ているのは虎柄の下着を一枚だけ。轟々と芝生のように生えそろった燃えるような赤い髪の隙間から、鬼の証しである二本の角が生えていた。無骨な顔は険しく、鋭い目で現れた辰也を睨んでいる。

「……貴様が白蛇が言っていたジャジャを殺す者か」

 腹に響く声で鬼は言った。

「……そうだ」

 負けずと睨み返す辰也。

 鬼を見るのはこれが初めて。存在しているだけで見る者を圧倒する威容は、それだけで相対した者を萎縮させる。故に勝負は目の前に立った時から始まっている。鬼の姿に萎縮した瞬間、負けは決まってしまうのである。

 一歩も引かぬ辰也に、鬼はにやりと笑う。

「なるほど。俺に怯んではジャジャを殺せるはずもないが、その点では貴様は合格だな」

 鬼は楽しそうに言って、洞穴の洞穴の壁に立て掛けてあった金棒を軽々と持ち上げる。辰也と同じ身長の長さを持つそれは、巨大な鉄の塊であった、持ち手は鬼の手に合わせた太さだが、そこから先は巨木のような大きさに膨らんでいる。もはや人が持てる代物ではない。鬼でしか扱えぬ強力な武器である。

「話は聞いているのだろう?」楽しそうに鬼は言う。「始めよう」

 辰也は納刀したまま身構える。

 鬼は何も構えていない。泰然としている。だがまともに斬りかかっても敵うはずがない。あの金棒の一撃を僅かにでも喰らえば命はない。

 分があるのは速さ。それから決して折れぬことのない桜刀ハナ。

 辰也は気を高めていく。

 だがそれにしても、気の高まり方が段違いに違う。以前よりも早く強く高まっている。蛇気が体内から排出された結果だろう。

 ならば、と辰也はさらに空の境地を発動させた。

 果たして頭痛は来なかった。しかも前よりも広く深く周囲を近くできている。怖いぐらいだ。

 呼吸を一つ入れて、足元に気を集中させた。

「ほお?」鬼は愉快そうに口元を歪める。「面白い!」

 豪風の如く迫力で、鬼は襲いかかってきた。片手で持った金棒をただ力任せに振るってくる。

 型も何もない一撃。しかし恐るべき一撃である。まともに当たれば全身が粉々になるに違いない。

 だが、辰也は冷静そのものだった。

「桜花一刀居合術流春一番」

 瞬間、鬼の視界から辰也が消えた。振るった金棒は空振りになったが、次いで出鱈目に振り始める。だが当たった感触はない。

 ど! と蹴る音が洞穴の中で響いた。

 その刹那。

 鬼の丸太のように太い首に、桜刀ハナが食い込んだのである。

 しかし流石と言うべきか。異様に固く太い筋肉に阻まれて、刃が止まってしまったのである。浅く致命傷には程遠い。

「ぬう、貴様も俺を殺せぬか」

 鬼はどこか落胆した声で言った。

「まだだ!」

 咆哮と共に、辰也はハナを両手で握り直し、再び気を高める。

「剣宮流錬気法山桜!」

 その瞬間、刃は進んでいく。じりじりとだが、着実に。赤黒い血がだらりと垂れた。

「お、おおっ」

 今度は期待にこもる声を鬼は上げながら、金棒を持っていない左腕で殴りかかった。

 刹那、山桜を解除して、後ろに飛んで避けた。

「ふっふっふ。良いぞ。面白い! やはり強者はこうでなければいかぬ!」

 鬼は金棒を再度振るった。

 だがいつの間にか納刀した辰也は、再び春一番を放った。

 今度は鬼の腕が蹴られた感触が起き、先ほど斬りつけた場所と同じところに寸分も違わずに刃が入った。

 そうしてさらに、山桜を重ねる。鬼の傷口はより一層深くなる。

 だが鬼も負けてはいない。今度は自ら洞穴に体当たりを喰らわせた。

 辰也もまたも寸前に逃げることに成功した。だが鬼もその行動を読んでいたのか、すかさず金棒で追撃する。

 辰也は山桜を再び発動させながら、中空で身構えた。

 襲いかかった金棒とハナが衝突する。

 凄まじい衝撃音が発せられた。


「え?」

 洞穴の外で待っていた美也子は、その時、あまりに大きな音が響いて身を竦ませた。

 同時に大地が少し揺れた。

 地震だろうか、と一瞬訝しむが、音は洞穴の奥からだ。

「剣宮様」

 美也子は胸に手を当てて、心配そうな目線を奥へ送った。


「辰也、大丈夫?」

 声が聞こえてきて、辰也は目を覚ました。

 全身の酷い痛みが、己が今まで気絶していたことを教えていた。

「大丈夫だ」

 そう言いながら、辰也はのっそりと立ち上がる。

 鬼の一撃を喰らった瞬間、辰也は山桜を瞬時に解き、今度は剣宮流練気術花びらを発動させながら、金棒を足で蹴って衝撃を逃した。

 しかしそれでも間に合わぬほど、鬼の一撃は格別だったのだ。

 この衝撃はかつて蛇剣術大蛇破を喰らった時と同程度。いや、当時よりも練気術が強化されていることを鑑みれば、あれ以上の一撃だ。

「まだ、戦えるのだろう」

 鬼は悠然と言った。

「……ああ」

 と辰也は当然のように頷いた。

「た、辰也。これ以上は」

「大丈夫。戦える。俺を信じてくれ、ハナ」

 間を置いてから、ハナは答える。

「……分かった。でも死んだら駄目だよ」

「ふ。分かっているさ」

 辰也はハナに傷一つ付いていないことを確認してから鞘に納め、再び気を高めた。

「またその技か。いい加減、飽きてきたぞ」

「ふん。馬鹿の一つ覚えでね。これしかお前に勝つ手段が見当たらないのだ。それに、この技を攻略したわけではなかろう?」

「ふん。良いだろう。三度目の正直だ。今度こそ、防いでやる」

「それはこちらの台詞だ。今度こそ、お前を斬る」

 ごう、と唸りを上げて金棒が薙いできた。

 空の境地で知覚して、飛び上がる辰也。鬼の腕を足場にして目にも止まらぬ速さで駆け上がる。

 しかし鬼はそれを読んでいた。逆側の拳で裏拳を放つ。例え金棒を用いない素手の一撃でも当たれば致命的である。

 だが、空の境地で知覚している辰也は横に飛んで空振りに終わらせた。

 そうして壁に着地。同時に前に跳ねた。

 まるで跳弾のように、次々と壁を蹴っては移動する。春一番によって強化された脚力は、そのような事すら可能にしたのだ。

 鬼からすれば、四方八方から聞こる壁を蹴る音に翻弄された。何しろ姿は見えずに音だけが聞こえてくるのだ。しかも洞穴の中で音は反響している。もはやどこにいるのか予測すらつかない。

 辰也はさらに壁を蹴った。目前には鬼の首の傷。

「春一番」

 ぽつりと呟いて、無防備になった傷に三度目の攻撃を加える。

 春一番によって加速された速度が緩まぬうちに、山桜を発動させ両手でハナを保持し体重をさらにかけた。

「ぐうお!?」

 今度こそ、鬼の首が断たれた。

 どう、と辰也は着地。数瞬遅れて鬼の首が背後の地面に転がった。

 荒く息を吐きながら、懐紙で刃を拭うと鞘に治める。

 横たわった鬼の体と頭を見やる。鬼は長く洞穴で生活し、かつ蛇気によって弱っていた。もしも完全な状態であったなら、果たして勝てたかどうか検討もつかない。

 そうして歩き去ろうとしたその時であった。

「くくく。ようやったぞ人の子よ」

 驚くべきことに、頭だけとなっても鬼は話しかけてきたのである。

 人外の生命力に驚嘆しつつ、辰也は振り返った。

「貴様の名、冥土の土産に聞かせてくれぬか」

「……剣宮辰也」

「おお、そうか。剣宮辰也と申すか。しかと覚えたぞ、剣宮辰也。地獄に行ってもその名、覚えていようぞ。貴様が地獄に落ちた時、また戦おうぞ」

「それはありえないわ」

 とハナが口を挟んだ。

「む? そういえば、お主、刀か」

「そうよ」

「喋る刀か。これは愉快」げらげらと笑い、「お主の名は?」

「桜刀ハナ」

「おう。ハナとやら、なぜありえないのだ?」

「辰也は地獄に落ちないもの。行くのは極楽よ」

「ふははは! そうかそうか! 極楽に行くか! これは一本取られた!」

「そうよ。辰也は極楽に行くの」

「おい。ハナ? 俺は……」

 恐らく行くのは地獄だろう。辰也は、そう思ったのである。

「辰也もなの?」ハナは呆れた様子である。「辰也は極楽に行くのよ。絶対。私が決めたんだから、間違いないよ」

「これは面白いのお! 刀に尻を敷かれておる」

 げらげらと鬼はまたも笑う。

 そうしてひとしきり笑った鬼は、それから真剣な声を発した。

「……ふっふっふ。これでもう思い残すことない。剣宮辰也よ、あの憎き黒蛇も見事に斬って見るが良い」

「……言われなくとも」

 鬼はもはや喋ることはなかった。

「陰気が、消えた……」

 ハナは呟いた。言われた通り、濃密なまでに充満していた陰気はなくなっている。

 鬼は完全に死んだのだ。




 鬼との死闘でさすがに疲弊した辰也は、結局白蛇神社にもう一泊した。

「行くのか」

 最後の挨拶に白蛇の元に訪ねた辰也に、白蛇は声をかけた。

「はい、今までお世話になりました」

「お主の武運、祈っておるぞ」

「はい。ありがとうございます」


 白蛇の元から離れた辰也は、神社の境内に出て立ち止まった。

 後ろを振り返ると、今まで付き添ってくれた美也子が俯いている。

「白崎殿には本当に助けられた。感謝している。ありがとう」

 辰也は頭を下げたがしかし、美也子は何も反応を示さない。目線を地面に落としたままだ。

「……それでは、俺は行くよ。いつまでも健やかにいることを願っている」

 辰也は美也子に背中を向けた。足を踏み出す。目指すは暗闇の中。

 けれど数歩歩いたところで、後ろからしがみつかれた。暖かで軽くて柔らかな感触が辰也の背中に伝わっている。

「白崎殿?」

 美也子は震えていた。水滴が落ちていくみたいに呟く。

「……行かないで、ください」

「……白崎殿……」

「このままここに、いてくれればいいではありませんか。なぜ、わざわざ危険な場所へ。なぜわざわざ死ぬかもしれない場所に」

「それは、これが使命だから」

「使命なんて……放っておけば、いいではありませんか。あなたの命以上に大切なものなんて、あるはずがありません」

「俺の命は、桃源島の……いや、この星全体の命がかかっている」

「それでもっ」

「その中には、白崎殿の命も含まれている」

「そ、そんなことは、分かっています。ですが、ですが」

「申し訳ありません、俺はそれでも、行かなければ」

 そう言って辰也は、美也子を自分の体から離した。

 倒れるような声がした。それから泣き声が背中越しに聞こえてくるが、辰也は振り返らない。その代わりに歩を進めた。

 

 蛇空が生み出した暗黒の中を、提灯を頼りに歩いていく。

「良かったの?」

 と、ハナが優しい声で聞いた。

「ああ」

「白蛇様は許してくれると思うよ」

「そうだろうな」

「……そうだね。あの子のためにも、ジャジャを斬らないといけないもんね」

「ああ。それに青空を取り戻せば、あの子には俺なんぞよりももっと良い男と出会えるだろう」

「……辰也は自己評価が低すぎるのが、やっぱり欠点だと思うな……」

「ふむ。そういえば、桜花一刀流の師匠にも同じことを言われたな」

「……そうなんだ」

 歩いていく。

 闇の中を。

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