第7話 万華鏡

「女将さん、冷酒もう一本頼んます!」

 赤ら顔の佐上は、行きつけの小料理屋で、注文を重ねた。

「女将さん、人間には、ケツの穴がある。そんでケツの穴が一つあいてるだけで、ライターくらいそん中に隠せてしまうんですわ!せやからいうて、入院患者や、ましてやその家族のケツの穴まで調べられまっか?そんなことして、彼らと信頼関係を築けまっか?病院は刑務所とは違うんや!

 例えば、お注射しましょう言うた時に、患者さんがすんなり腕を出してくれはったら、信頼してくれてはるんやなぁと嬉しくなるもんですわ。それだけに、今日の一件は、ほんまに悔しい。悔しゅうて仕方無い!」

 小料理屋は大学病院の近所であり、本日、消防車が出動する騒ぎがあったことも、そもそも佐上の職種も、女将は知っている。「守秘義務とは?」と内心疑問に思いつつも、酔った常連客の聞き役を務めていた。

「主治医もまるで魔女裁判みたいに、お偉方に尋問されてはったけど、まあ立派なもんでしたわ。元々真面目で、博士を目指す理論派だけのことはある!」

「お隣、よろしゅおすか?うち、そのお話をもぉっと聞きたいわぁ」

 ふいに、白いワンピースの女性が、佐上の返事を待たずに、その隣の席を占めたのだった。


「魔女裁判」にて、沢村幸穂医師は、毅然として語った。

「私は医師として、医療従事者として、患者やその家族に必要最低限の信頼を寄せます。可能であれば最大限信頼致します。彼らが私に寄せる信頼は、そのこと無くして生まれるとは思えません。

 今回、医療従事者の信頼を家族によって裏切られ、重大な結果に至った事実とは、真摯に向き合う所存です。しかし、治療に伴う人権侵害をこそ必要最小限に留め、患者やその家族と信頼関係を構築すべしという理念は、諸先輩方から薫陶を受けた通りであり、精神科のみならず全科共通のものであると心得ております」

「対外的には、それで良いでしょう」

 メディア対策室の弁護士も、そこはあっさりと認めた。

 続いて、幸穂の治療方針が吟味された。これは、上級医たちの役目だ。そして、焦点は、患者を保護室から四人部屋へと移し、家族との面会も認めていたことが拙速に過ぎたのではないかという点だった。

 しかし、四人部屋に移ってからの三日間、元府議と同室者たちの間でトラブルは報告されていない。そして、患者は、家族がルールに違反して与えたライターによって自傷行為に及んだが、主治医は、そもそも閉鎖病棟内にライターなど存在しないことを前提として、患者の処遇を緩和したのだ。よって、治療方針に明らかな問題は無し——それが結論だった。

 今回ばかりは、「おのれあのアホ息子め」というのが、病院側の本音でもあり総意でもあった。


 私は、床にへたり込んで吐息した。

 もう夜も遅いが、なんとか帰宅できた。

 ただ、透は今夜も当直勤務であるため、会いたくても会えない。私は、独りぼっちなのだ。

 アホ息子に端を発したぼや騒ぎについては、支障の無い範囲で、透にも伝えておいた。すると彼は、「妻のそばにいたいから」と、今夜の当直を交代してほしいと同僚に交渉してくれたらしい。もっとも、ご老体たちに急に言っても無理だったそうだが、彼の気持ちだけでも嬉しかった。

 私は、いつものペンダントを……ペンダントトップの結婚指輪を握った。

 しかし、急な頭痛とともに、眼前に彼岸花が咲き乱れる予兆を感じた。これは、頓服薬を飲まなければ……

 突然、スマホが鳴動した。

『幸穂、今日は大変だったらしいやない。生きてるか?』

 母よ、あなたに死者と交信する才覚が芽生えたのではない限り、私は生者である。

 母から電話とは珍しい。透の差し金かもしれないと、私は推測した。

『実は今、あんたの家のすぐそばまで来てるんよ。けど、階段でギックリ腰を起こしてしもて……ちょっと助けてくれへん?』

 私には、小児科医に往診を依頼した覚えは無い。やはり透の仕業だろうか?しかも、とんだアクシデントにより、私が診療する側に回らなければならないらしい。

 私は、ドアを開けて飛び出す前に、頓服薬だけはしっかりと内服した。

 ギックリ腰に倒れた母の周囲に彼岸花が咲き乱れるだなんて、それこそ地獄絵図だから。


 ドアを大きく開けた次の瞬間、私は、立ってはいられないほどの強い揺れに襲われた。

 人間の姿をした震災が押し入ってきて、私に掴み掛かるや押し倒した。そして、あられもなく体を重ねてきたのである。

「幸穂ちゃん!幸穂ちゃん!幸穂ちゃん!やっと会えたぁ……」

 その涙声で、彼女が誰なのかはわかった。

 先日届いた葉書に似た、柑橘系の体臭にくすぐられる。

『幸穂、まだ生きてるかぁ?私は、今夜はもうお酒を飲んでしもたから、代理の人に行ってもろたんやけど。サプラ〜イズ?』

 確かに、既に出来上がった母の、笑い上戸な雰囲気が伝わってくる。

「そうか……ギックリ腰のお母さんなんて、いいひんだんや……」

 私は、差し当たりそこは理解して、白目を剥いた。


 弥生はなぜか、私の額にキスを一つ落としてから立ち上がった。

「二人だけの同窓会、しよ?」

 濡れたような瞳と唇で笑い、小首を傾げる。長い黒髪に白いワンピースという出立ちは、下手をすればホラー映画のヒロインじみてしまうが、眼前の弥生は小粋だ。

 私は、まずは、すぐにも彼女にお引き取りいただくべき理由を探そうとした。

 しかし、弥生は、どんな手を使ったのかは不明だが、私の母と結託したのだ。同窓会の前に私が身構えていたような害意を持ち合わせている可能性は低そうだ。

 そして、彼女がいてくれれば、私は独りぼっちにならずに済むではないか。

「まずは、お宅拝見やぁ」

 私が結論に至る前に、既に弥生は歩きだしていた。

「……ご足労いただくほどの家ではないと思う」

 案の定、弥生は、すぐに足を止めた。その目は、とある家具に釘付けとなった。

「なんやの、これ?」

「ハンモック。吊り下げるんには、支柱が二本必要やけど、ここは賃貸やし、魔改造するわけにもいかへんから、スタンド付きの据え置きタイプを買ってん」

「なんで、ハンモックはんが二つもあって、こないに威張り散らしてはるん?」

 そう。我らが2LDKの「2」の部分は、夫婦二人がそれぞれに愛用しているハンモックに占拠されているも同然なのだ。

「うちの間取りでは、二人で使える大きいサイズのは置けへんから、一人一つずつ……」

 納得いかない様子の弥生が、ひたひたと私に歩み寄る。その美貌は謎の怒りに満ち、いっそ鉈でも持たせたら似合いそうなほどだった。

「いや、私も透も、子供の頃にロビンソン・クルーソーに憧れてたねん。で、『無人島からなんか一つ現実世界に持ち帰るんなら?』いうて、これ買うたんやけど……」

 弥生は、両手で私の肩を掴んで、ガックンガックンと揺さぶった。

「まだまだこれからの夫婦が、そないなことで、はどないしてるんよ?」

「そんなん、お風呂で……」

 ……しまった。私は、揺さぶられた勢いで、余計な個人情報を口走ってしまった。

 すると弥生は、猛然と浴室へ向かった。我が家において、バスルームを探して迷子になるなんて有り得ない。

「ちょっと、幸穂ちゃん。こないにちっちゃなユニットバスで、一体全体どないしてるん?」

 どないもこないも、夫婦なのだから、興が乗れば一体化しているわけだが、それを口に出したら、女神様の更なる怒りを買うような気がした。どうして弥生に怒られなければならないのかが謎なのだが。

「もう、弥生ちゃんには敵わへんわ。軽く食べへん?私、晩御飯がまだやねん」

 露骨に彼女の話を逸らすための作戦だった。しかし、弥生のお陰で、いくらか食欲が湧いたことも事実だった。

「ええねえ。でも、うち、車で来てしもたから、お酒はまた今度、な?」

「うん、私も、こんな遅くから飲んだら、明日までに抜けへん自信があるから、お酒はパスや」

 私が、チーズを専用の容器に入れて電子レンジに掛けた時点で、弥生はピンと来たらしい。

「幸穂ちゃん、さっきは無人島やったやろ?こっちはもしかして……アルプスのお山からお持ち帰りしたん?」

「そう、その通り!『ハイジが食べてるみたいなチーズを食べたい』いう願望を、現実に落とし込んだら、こうなってん!」

 私は、弥生の正解に嬉しくなった。卓上にホットプレートを準備して、冷蔵庫から作り置きの具材の数々を取り出し、チーンと加熱されたチーズの容器を、ホットプレートの真ん中に置く。

「はい、お好みの具材をプレートでぬくめてから、ピックに刺して、チーズを絡めて召し上がれ。このチーズフォンデュこそが、我が家の定番……いや、鉄板やから」

「ホットプレートだけに?」

「そうそう!」

 私と弥生は、子供じみた笑い声を立てた。

 私は、手始めにウインナーにチーズを絡めた。

「弥生ちゃん、食物アレルギーは無かったやんね?」

 小学生時代の給食風景を思い出しつつ、私は確認した。

「うん!そんなん覚えててくれたんや!」

 弥生は、プチトマトを口に運んで、驚くほど喜んでくれた。

 そもそも、医師になるには、大量の暗記物をこなす才覚が必須だ。私は、同業者の中ではさほど目立たない部類のはずだが、記憶力を褒められて悪い気はしなかった。

「うちは、今夜は自由の身。彬樹さんは、親族会議やいうて、今夜は神戸にお泊まりやねん」

 神戸といえば、石蕗グループの本拠地だったはずだ。

「え、弥生ちゃんは行かんで良かったん?」

「うちは内縁やもん。サクッと余所者扱いえ?」

「ふうん、それはそれで気遣いを求められそうな立場なんやなぁ」

 私が二度ほど頷くと、弥生は、艶っぽく含み笑いした。

「幸穂ちゃんは、無人島やらアルプスやら……結婚生活、楽しそうやねえ」

「そやね。二十歳はたちを過ぎての初恋やったけど、私、透と出会えて良かったわ。

 彼みたいに情緒的に安定した人と生活するんは、ほんまに新鮮で……」

 父は、持病ゆえに不安定である。母もまた、そんな父に反応して不安定化した。

 そして何より、そんなことを赤の他人に打ち明けてしまっている自分のことが、自分でもとても新鮮だった。

「透は透で、私を初めて見た時から、を感じて、気になってたんやって」

 途端に、弥生は咽せた。何個目かのプチトマトがペースト状となり、ちょっとした吐血のようにその口元を染める。

「弥生ちゃん、ほら、タオルタオル!タオル投入!」

 弥生は、ブランド物の白いワンピースを汚染から守った後、怨みがましい涙目を私に向けた。

「……うちはボクサーではないけれども、なんや透さんに右ストレートをお見舞いしとうなったわ!

 侘び寂び!?そんなん、若いお嬢さんへの褒め言葉では、絶対に有り得へんえ!」

「うん……綺麗な舞妓さんへの褒め言葉にはならへんやろなぁとは、私も思う」

 医学生だった当時、一見して苦学生だとわかる透から、「沢村さんには侘び寂びの趣を感じる」と告げられた私は、その意味するところを随分とネットで検索したのである。

 医学用語ほど明確な定義があるわけもなく、「ままならぬ環境に安住しようとする覚悟」「苔むしたような渋い美しさ」などといった説明文に頭を抱えた。ただ、当時の私が、二十歳前後にはありがちな、華やかさや、溌溂さや、浮わついた雰囲気とは無縁だったのは確かだろう。透と初めて会話を交わした日にも、私の父は保護室にいたのだから。

 私は後日、「そっちこそ、苔むしたお地蔵さんみたいに安心安全感の塊やん」と言い返した。

「え、本当?僕は、情緒的な物は何もかも、震災に持ってかれちゃったと思ってたけど、もはやぺんぺん草も生えないやって思ってたけど、実は安心安全感に苔が生えてるの?」

 透は、へにゃへにゃと笑ったのだった。

「ちょっと幸穂ちゃん、いつまでを追い掛けるような思い出し笑いしてるんよ!」

 見れば、弥生の手元のミニハンバーグが、ピックでメッタ刺しにされていた。もはや怨恨の線しか考えられない有様だった。

 そして弥生は、頬を膨らませてそっぽを向いた。

「うちの初恋は、幸穂ちゃんやのに……」

「え?」

「うちを中川から助けてくれたん、幸穂ちゃんやん!」

 私を睨んだ弥生の双眸は、いつの間にか、花街を彩るぼんぼりのように燃えていた。

 小学五年生のあの放課後の事件は、私も忘れられやしない。だが……

「結局のところ、弥生ちゃんが録音器を持ってへんだら、あれはどうにもならへんだ。

 同級生が危ない目にうてたから、非常ベルを鳴らした……私は、当たり前のことをしただけやで?」

 すると、弥生は激しくかぶりを振った。

「うちにとっては、ああ、生まれてきても良かったんやと思えるくらい、特別なことやったんよ!

 そやから、蒼早登になった後、幸穂ちゃんのお父さんに言い寄られた時にも、うちは言うた。

 心中は嫌どすけど、うちの旦那になってくれはるんやったら嬉しおす——うちのほうから、そう言うたんや!いつか幸穂ちゃんのお母さんの立場になれるんやったら、そんなに嬉しいことは無いって思てん!」

「やめて、弥生ちゃん。その冗談は、なんぼなんでも笑われへんわ」

 私は、眉間に深い皺を刻んだ。中川の一件について感謝されるぶんには、特に問題は無い。しかし……

「弥生ちゃんが私のお母さん?そしたら、私のほんまのお母さんの立場はどうなるんよ!」

 すると、弥生は、両眼に火を灯したまま、唇を歪めた。それは、嘲笑のようでもあった。

「幸穂ちゃんは、ほんまになぁ〜んも気付いてへんのやなぁ」

 どういう意味だろう?私は、自分が無知であることを知らないとでもいうのだろうか?

 弥生は、卓上に頬杖を突いた。

「うちは、今夜は自由の身やと言うたやろ?実は、舞妓の先輩やった人が、この近くで小料理屋さんを開いてはるから、うちは、ここに来る前、そっちに顔を出してん。そしたら、そこで意気投合した男の人が、飲み友達の家で飲み直したいて言わはったもんやから、うちがフェラーリで送ってあげたんやけど、送り届けたその先が……幸穂ちゃんのお母さんの家やってん」

「はいぃ!?」

 弥生は、私の理解が追い付かないうちに、自分のスマホを操作した。

「あ、お母さん?弥生どすぅ。実は、お母さんのお友達のこと、ついうっかり幸穂ちゃんに喋ってしもてぇ……へえ、そうどす!お披露目のチャンスどすえ!」

 弥生よ、少なくともではなかったろうに。

 弥生は、ビデオ通話の画面を、私に向けた。

 見れば、母はケラケラと笑っており、その隣に誰かもう一人いる——黒くて丸いお盆で顔を隠した誰かが。

「初めまして。沢村幸穂と申します」

 私は、生真面目に挨拶する以外には、何も思い付かなかったのだ。

『初めましてやないで、もう、あんたぁ』

 母の笑い声が高くなる。

 そして、謎の人物がついに、お盆の陰からひょっこりと顔を出した。

「ぐはっ……佐上師長!?」

 確かに初めましてどころではない。本日……いや、ぼちぼち昨日だろうが、ぼや騒ぎの後処理にタッグを組んで当たった、頼れる同志の姿がそこにはあった。やたらにやけた赤ら顔と化してはいたが。

 失礼ながら、いきなり彼の遺影でも突き付けられたほうが、私のショックは小さかったろう。

『あんなぁ、私は精神科医ではないし、あんたもまだ精神科医ではなかった頃から、患者への接し方のコツとか、佐上さんには、あれこれ教えてもろてたんよ』

 母よ、私が透と付き合うよりも前から、佐上氏とお付き合いしていたということでしょうか?

「あの……お母さん、事と次第によっては、卒婚なんて中途半端やのうて、離婚したほうがスッキリするんやない?私からは以上です」

『も〜う、幸穂は真面目の塊なんやから!私は結婚なんて、金輪際こりごりやわぁ』

 なら、なおのこと独身に戻った上で、誰憚ること無く楽隠居生活を送るという手も……

 などと、私に言わせてもくれぬまま、母は電話を切ってしまった。

「なぁ?お母さんにはお母さんの人生が、ちゃ〜んとあるんやでぇ。そやから、若いもんは若いもんどうし……」

 やおら、弥生のスマホが鳴動した。

「嘘ぉ、彬樹さんやわ!」

『弥生、今どこだ!こんな夜中に家にいないとは……』

「そんなん、今夜は神戸にお泊りやって言うてはったよって……」

 さては、外泊すると嘘を吐いておいて、内妻の素行をチェックするスタイルだったのかもしれない。

 私は、すかさず電話を代わった。

「初めまして。沢村幸穂と申します。弥生さんとは小学校でご一緒しておりました。

 今夜は、弥生さんが我が家を訪ねてくださり、懐かしさのあまり、ついつい時間を忘れてお引き留めしてしまいました。どうも申し訳ございません」

 電話の向こうで、男が息を呑む気配がした。

「ああ……あなたが沢村先生ですか。いやはや、こちらこそ、愚妻がご迷惑をお掛けしてしまったようで……ただ弥生は、本当にあなたにお目に掛かりたがっておりました。それはもう、いじらしいほどに……」

 彼は結局、すぐに帰宅するよう弥生を諭しただけで、それ以上追及することは無かった。

「うちにとっては、幸穂ちゃんは、ジャンヌ・ダルクみたいな英雄やさかい。それは、彬樹さんにも話してあるねん」

 私も漸く理解していた。弥生は、思い出をえらく理想化した上で、私に好意を寄せているのだ。しかし——

「ジャンヌ・ダルクは嫌かもしれへん。火炙りなんてごめんやし、私は、無神論者で、神様の声を聞いたこともあらへんから」

「もしも神様の声が聞こえたら、うちがどんだけ幸穂ちゃんを好きかわかるやろに……」

 弥生は、私の頬に、しっとりとした掌を当てた。しかし私は、顔を横に振った。

「聞こえへんて、神様の声なんて……」

 もしもそんなものが聞こえたら、それは、私が父と同じ病を発症したということだ。

「なあ、幸穂ちゃんは、いつ躁鬱病になるん?」

 弥生が甘い声でそう言ったことが信じられずに、私は目を剥いた。

「だってぇ、躁鬱病になったら、エッチになるんやろ?」

「まあ、躁状態に性的逸脱行為せいてきいつだつこういを伴うことは、そう珍しくはないわ。セクハラだの不倫だのに走って、社会的な信用を失う人もいてはる」

 私は咄嗟に、生真面目に説明する以外には、何も思い付かなかったのだ。

「幸穂ちゃん、発病したら、いっぱいいっぱいエッチになってや?透さんだけでは物足りひんようになって、うちとお付き合いしてくれるんを、いつまでも楽しみに待ってるよって。

 うち、幸穂ちゃんのためやったら、ベッドの上で、な〜んぼでも踊ってあげるえ?」

 弥生は、私の額にまたキスをして、それから、鼻先まで齧った。

 漸くドアへと向かう素振りを示したが、振り返りざま、「アイルビ〜バァーーック!」と力強く宣言した。どうやら、往年のハリウッド映画の悪役気取りらしい。

 私もドアの外へ出て、弥生を見送った。

 彼女は、夜目にも鮮やかな真っ赤なフェラーリのオープンカーで走り去った。

 おそらく、私たち夫婦が欲している3LDKの中古マンションよりもお高い車である。


 私はまた独りぼっちになった。すると、そっと物陰から現れるように、ちらほらと彼岸花が咲き始めた。

 それらはやがて、壁を這い登り、天井一杯に咲き乱れた。空まで埋め尽くすほどに繚乱した。

 やがて、彼岸花たちが寄せ集まって、ピカピカに真っ赤なフェラーリを容作った。

 私は、フェラーリに飛び乗ると、天の河を思うままにドライブした。

 誰かが私を火炙りにしようと追い掛けてきても、天の河にいれば、きっと大丈夫なはずだ……

 星は巡り、人も巡る。

 父は巡り巡って、良く出来た娘婿に診てもらえることになった。

 母はいつの間にやら、親密な飲み友達に恵まれていた。

 そして私には、発病を待ち望んでくれる人が現れたのだ。

 私は笑った。今まで息をするように悩んでいた全てがアホらしくなって、笑い転げた。

 うっかり内臓を吐き出して、人の姿を失ってしまいそうなほど笑い続けた……


「幸穂!ああ、起きてた?実は、院長がさ、早起きは得意だからって、午前五時きっかりに当直を代わってくれたんだよ!」

 透が帰宅した早朝、私は、独りぼっちで床にへたり込んでいた。

「ねえ、幸穂……大丈夫?寝られなかったの?」

 透は、私の肩に手を置き、顔を覗き込む。

「ん〜」

 私は、暫し指を咥えた。

「お花がいっぱい咲いてん。それがフェラーリになって、天の河をドライブしたんやけど……夢やったんやと思うから、少しは寝れたんやと思うえ?」

「幸穂、すごく疲れてるように見えるけど」

 顔を顰めた透に、私は、両手両足で抱き付いた。

「私……お風呂に入りたいねん」

「え、いいの?」

 透も嫌ではなかったようで、たちまち相好を崩した。

 私は、透の肩口に顔を埋めながら、本当は大声で叫びたかった。

 私には、発病を待ち望む人がいる!無責任な冗談だったかもしれないが、透さえもが望まぬそれを、楽しみだと彼女は言ってくれたのだ!

 私は、息を止めた。弥生のことを、今は透にも内緒にしておくのが心地良かった。その秘密が私をふわふわの風船に仕立てて、空へと運んでくれそうだった……


 彼岸花は散らない。

 一度咲いたら、散らぬままに立ち枯れるのだ。

 人生だってその程度のものなのだろうと、私は漸く理解した。


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彼岸花 如月姫蝶 @k-kiss

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