籠の中の赤い鳥(6)
僕は明の家を後にし、高塚との計画を実行に移す準備をするために自宅へと歩き出した。夕焼けや虫や鳥の鳴き声すらも寂しそうに見える。じめっとした空気がゆっくりと体にまとまりついた。もしかしたら雨が降るのかもしれない。予定では、二十時前に高塚の自宅へと向かい、合流した後に高塚が宿泊客へ睡眠導入剤の入ったお茶を渡しに行く。仮にお茶が苦手な人であれば、島の湧水や、果物のジュースも用意してあるので心配はない。
僕は帰宅すると、作業場に向かった。準備しておいた大きなボストンバッグを二つ持ち、急足で高塚の自宅へと向かった。家まで向かう途中、テントからは沢山の人の嬉しそうな騒ぎ声が聞こえ、ふんわりと食事の匂いがした。そんな時間か。きっと海辺や森、花畑の丘で食事をとっている人もいるだろう。
高塚の家が見えてくると、ヒグラシの鳴く声が激しくなったような気がした。風と共にふんわりと土と葉が舞い上がるような匂いがする。ドアをノックすると、ガラガラと引き戸が開いた。高塚は無言で僕を家の中へと招き入れた。そしてそのまま高塚の背中を追って浴室へと入る。
浴室は昭和のお風呂をイメージしており、昔のように足が伸ばせないほど小さいバスタブとは違って、人間二人ほどは余裕で入れるほど広いバスタブではあるものの、壁は古いタイプの緑色の四角いタイルになっており、タイルの隙間には所々ピンク色の水垢があった。床は滑りにくいようにザラザラとした茶色い派手な模様のタイルを使用している。
高塚には、浴室に大人が一人寝そべることの出来る大きなテーブルを用意するように伝えてあったため、バスタブの目の前に大きなステンレス製のテーブルが用意されてあった。光で反射し、表面がきらりと眩しく光った。
「何を持ってきたんだ」
僕は、黒いボストンバッグをテーブルの上へと広げると、解体用の器具を丁寧に置き、全身覆うことのできる透明のレインコートやゴーグルを二人分取り出した。そして、ビニール素材で出来た分厚い藍色の寝袋のような袋を取り出す。
「ここまで用意させてしまって申し訳ない。俺は今からお茶を渡しに行ってくる」
僕が頷くと、高塚は浴室から出て行った。そしてゆっくりと扉がしまった。その瞬間、手が小刻みに震え始めた。腋や額からダラダラと汗が溢れ、体を冷たくしていく。上手くいく。上手くいく。そう何度も頭の中で繰り返した。目を閉じて、大きく息を吸い、深い息を吐き出した。そして何度も両頬を両手で擦ると、しっかりしろと自分に言い聞かせた。ドクドクと騒いでいた心臓の音が落ち着きを取り戻した頃、高塚が浴室へと戻ってきた。
「どうでしたか」
また心臓がドクドクと騒ぎ出した。
「なんの疑いも持たずに受け取ってくれたよ。一時間経ったら様子を見に行こう」
「そうですね」
うるさかった心臓は、少しだけ落ち着きを取り戻した。けれど、本番はここからだ。
高塚が口を開いた。
「俺はな、いつも仕事ばかりしてた。家にいても、外にいても、妻といる時間ですらずっと仕事のことを考えてた。新婚当初から考えたら、会話も減ってな。妻はそんな俺に、もっと気楽にやろうっていつも励ましてくれていたんだ。だけど俺は仕事人だったからな。そんな世の中甘くねえって思ってたんだ。妻と子どもを食わしていけるのは俺だ。俺だけがこの家を守っていると思っていたし、妻には仕事をさせず、楽させてやりたかった」
僕はじっと高塚の言葉に耳を傾けた。浴室の蛇口から水がぽたりと落ちた。
「もちろん妻にも感謝していた。俺が家を開けている間、子どもたちの面倒を見てくれていたし、頼れる親戚もいなくてな、ずっと一人で頑張ってくれていた。けど、俺も頑張ってる。俺の方がお金を稼いできているんだから、大変で、それが当たり前だと思ってた。だから、妻に労いの言葉はかけても、どこか俺の方が辛いだとか、俺の方が苦労してるなんて思ってた。でもな、間違いだったんだよ。妻は長年の過労から心身ともに病んでな、床に伏せちまった。その時に俺自身の間違いに気付いてもな、もう俺の言葉は届かなかった。俺の謝罪も感謝の言葉も、何も聞いてくれなかった。ただ窓の外を寂しそうに眺めてた。最期にな、本当に最期だ。その時に妻は呟くように言ったんだよ。綺麗なお墓に入りたいって」
高塚の震えた言葉は、自分の中に潜む感情に説得をしているかのようだった。今から行う過ちと対峙するために、葛藤しているのかもしれない。僕は高塚に何一つ言葉をかけることは出来なかった。
しばらく無言でいると、あっという間に一時間が経っていた。僕たち二人は先ほどの寝袋のような袋を持ち、テントへと向かった。僕たちの気持ちを現したかのように、強い風が小雨を誘導し、僕の顔へと吹きつけた。その風は丘の向こうへと木々を通り抜けて消えていった。去った風の後を追うかのように伸びた芝生や雑草がサラサラと大きく音を立てている。
白いテントの外から小声で中にいる男性に声をかけた。返事はなかった。僕と高塚は恐る恐るテントの中へと入っていく。中は薄らと暗く、手のひらサイズのランタンが点灯しているだけだ。薄灯の中、テントの奥をみると男が体を横にして一人寝そべっていた。肌の色は白く、茶色い癖っ毛で体格はほどほどにがっしりとしており、若い男だ。僕たちは軽く声をかけたり、体を摩ったりしたが、男が起きる気配はない。
「ここまで眠りこけるとはな」
と、高塚が小声で言った。
「強力な睡眠薬なので」
僕が答えると、高塚は納得して頷いた。
「広げるぞ」
高塚が囁いた。僕は頷いて、二人で袋を広げた。僕は男の両脇に手を入れ、高塚が男の膝あたりを掴むと、静かに掛け声を上げ、男性を持ち上げた。男性はとても重く、腰に痛みが走るほどだった。男の体を袋の中へと移動させると、ジッパーを引き上げ、閉めた。袋に包まれた男を持ち上げ、二人でゆっくりと重い足を動かし、テントの外から出た。
高塚の家まで運んで行く。あまりの重さに腕が悲鳴をあげて限界だった。なんとかその痛みを耐え、浴室の床へと男を起こさぬようにゆっくりと置いた。高塚は腰痛を患っているため、苦しそうな声を出したあと、腰を右手の拳で強く叩いている。
「そういえば、臓器保管パックはどうなりましたか」
高塚は、浴室の戸棚からパックを取り出した。最新型の透明臓器保管パックらしく、そのパックに入れただけで、真空化され、温度も鮮度も保たれるそうだ。
「そういや、窒息死させるとは聞いていたが、どうやって窒息死させるんだ」
「寝袋に入ったまま、上からクッションで顔を押さえつけて、窒息死させます。僕が体を抑えるので、高塚さんはクッションを顔に押し付けてください」
「分かった」
僕はボストンバッグから硬い灰色の低反発クッションを高塚に渡すと、体の上に跨がった。
「多分、窒息死する瞬間は力が抜けると思いますが、念のため余分に数分抑えたままにしてもらえますか」
高塚は頷いた。僕が寝袋の上へと跨り、暴れないように足を固めると、高塚は男の上半身の上に跨り、クッションを顔があるであろう場所に押し付けた。袋の中の男が反射的に体をバタバタと力強く動かし始める。心臓が震え上がった。その瞬間僕たちの体にも力が入り、力の限り抑え付けた。高塚の背中は汗でびっしょりと濡れており、着ていたTシャツは汗染みなのか、元々そういう色だったのか判断がつかなかった。僕も額から汗をダラダラと流し、目に入りそうな汗を防ぐため、ぐっと目を瞑った。
どれくらいの時間抑え続けただろうか。とても長く感じたが、袋の中の男から力が抜けた。そして確実に殺害するため、数分待つと、僕たちはそっと男から離れた。気が抜けて思わず手を床につくと、ざらりとしたタイルの感触が気持ち悪かった。僕と高塚の荒い呼吸は徐々に整えられ、静寂に包まれた。
「死んでるか」
静寂を破った高塚は、唾をごくりと飲み込み大きく深呼吸した。
「確認します」
袋に近づくと、顔の方向からジッパーをジリジリと開け、僕は男の脈を確認した。
「大丈夫です。死んでいます」
僕の上擦った声を聞き、高塚はその場にしゃがみこみ、脱力していた。
「そうか………そうか」
俯いていて表情は分からなかったが、高塚の手は震えていた。
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