籠の中の赤い鳥(5)


「もし、嫌なことを聞くようだったら申し訳ないんだけど」と、僕が言うと、志崎はこちらを見て「大丈夫だよ」と言った。


「実のお母さんとは会ってるのかなって」


「連絡とってるよ。たまにだけどね。この島にくる前に和解できたんだ」

そう言って、志崎は空になったコップをカウンターに置いた。壁に吊るされたラベンダーから、ほんのりと爽やかな香りが漂っている。


「謝られたんだ。お母さんから聞かなくても分かってたけどね。お母さん、どうしたらいいか分からなかったんだ。仕事と家事で手一杯で、心も体も癒される時間がなくて、子どもから受ける愛情じゃなくて、大人からもらうプレッシャーのない愛情が欲しかったって」


大人からもらうプレッシャーのない愛情。僕には子どもはいないが、なんとなく分かる気がした。僕にとってイチは癒しであり、僕が育て親ではあるが、確かにイチからもらう愛情だけでは満たされない孤独はあった。


「世間一般的に見たら、母親は子どもに無償の愛を与えるのが当たり前で、優しく接するのが当たり前で、子どものためなら自分のやりたいことも、綺麗になる時間も犠牲にするのが当たり前。自分の旦那さん以外の人からもらう愛情なんて良くないって、はしたないことだと思っていたらしい。思っていたから、その感情を抑えれば抑えるほど、私に八つ当たりしていたって。それにどこか、お父さんと一緒にいればよかったって、私が少なからずそう思ってるんじゃないか。こんな親は嫌なんじゃないか。親として失格なんじゃないかって。そう思ったら、自分の方が駄目な人間に見えないように、自分が大きい存在であることを、私に分からせるためにきつく当たってしまっていて、気付いていても不安や憤りからそれらを止めることができなかったって。要約すると、そんなことを言ってた」


僕には子どもを育てる大変さは分からない。どれだけ話を聞かされても、そのフィールドに入って痛みや辛さや喜びを経験することは出来ない。けれど何となく分かることは、子どもが本当に大好きで、配偶者や子どもとの相性も良い人にとっては幸せな環境であっても、いざ結婚してみたら配偶者や子どもとの相性が合わなかったり、裏切られたり、隠し事があって浮き彫りになる事実からイザコザが生まれたり、どこかで歯車が噛み合わなくなれば、自分自身も関係性もボロボロになって、いつの間にか歯車同士が円滑に回らなくなり、動かなくなっていくのかもしれない。


「私と離れてから、そういうことだったんだって気付いたって言ってた。それは私も同じだった。離れていると俯瞰的に物事が見れるからね。重荷になっていたものを降ろした時、本当の自分が見つかったりする。私と母はいつの間にかお互いを重荷に変換していたのかも知れない。二人の間に愛がないわけではないんだ。お互いに好きなはずなのに、食い違ってしまう。それは本当はこうしたいと思うことが出来なくて、思い通りにならなくて、心にどんどん蓋をしてしまうからだ。そしたらいつの間にか、本当の自分の気持ちにすら気づかなくなってしまう」


愛があっても食い違う。愛があるから食い違うのだろうか。


「そうなっていくのは、この世の中の当たり前と、その当たり前を受け入れてしまう自分自身。自分で縄を持ってきつく縛ってしまっているんだ。縄を解く方法は、とても簡単なことなのに、うまく行かないって嘆いてばかりになってしまう。変化は怖いしね。今だって苦しいのに、新しい環境の方がずっと怖いように感じてしまうから。一歩足を踏み出せば、本当は怖いところじゃないって気づく。私はそうだったから」


窓にはてんとう虫が止まった。しばらくすると、てんとう虫がちまちまと歩き出した。


「私はね、母を許しているんだよ。ずっと前からね。でも、あまり接触しないことも愛だと思うんだ。愛しているけれど、近くにいると傷つけあってしまう関係になるからね。でも会えなくてもいいんだ。会えないからって、絆がないわけじゃない。愛がないわけじゃない。私と母も、もちろん創も高塚さんも、みんな別々の人間。みんな違うのが当たり前。言葉では十人十色なんて言うけど、もっと深いんだよ。一人一人違うっていう意味は。もっともっと違うんだ。だから、交わらないこともあっていいんだよ」


「なるほど、そっか。きっと僕の両親もそう思って、一定の距離を保っていてくれたのかもしれない。だから僕は伸び伸びと、自分の好きなことと向き合っていられたのかも。それは寂しい気持ちになる時もあるけど、高塚さんや明みたいな人と、いつか出会えることもある。孤独を感じない関係、だけど依存し合うわけじゃない。そんな人たちと出会える」


「そうだね。そうやって気づくために、幼い頃に感じた孤独も悲しみもあっていいんだろうね。光の先には必ず影があるように。どちらも共存して初めて形になる」

明の言葉を聞き、僕は両手の指を交差させ、ぎゅっと祈るように握った。


「創、大丈夫だよ。この島は君が思っているよりもずっと宝箱のような島なんだよ。みんなが幸せになる島だよ」


僕はハッと顔を上げた。様々なプレッシャーに押し潰されそうになっている自分の気持ちに気づいたのだ。


「それにはまず、君の気持ちが幸せになる必要があるね」

明の言葉が脳内を反芻した。僕の幸せは、どういうことなのだろう。何を幸せとするのだろう。どんな感情を幸せだと思ってきたのだろう。


この島にやってきた理由の根底にあるのは誰の目も気にせずに、一人で物作りをしたいという気持ちからだった。


けれど、どうだ?


実際離れてみたら、思った以上に心に隙間があった。


いつその隙間が埋まったんだ?


きっとそれが埋まったきっかけは、なんの見返りも求めるわけではない高塚や、志崎からもらう思いやりや評価だ。


なんでそれで埋まるんだ?


僕は僕が嫌いだったからだ。僕自身が僕を認めていなかったから、人が怖かった。自分のことは嫌いなはずなのに、また周りから傷つけられたらどうしようと、怖がった。だけど、そうじゃないってことに気付いたんだ。高塚や志崎のおかげで、人とうまく関われない不出来な部分も、変わっている部分も、僕は僕を認めてあげられるようになった。少しずつ自分を好きになればなるほど、僕の心は満たされた。


僕の目からは静かに涙が零れ落ちていた。志崎はそれを穏やかな表情で、ただ見守っているようだった。温かくて、じわじわと、それはまるで小さな花が全身で開花するように、静かに溢れ出してくる。


「僕、どうしてだろう。今とても満たされた気持ちになったよ」


「うん、それが幸せとか、愛のエネルギーだよ。きっとね」


「これが幸せって感情なのかな」

幸せは、もっと軽くて心臓のあたりがポカポカするものだと思っていた。きっとそれも幸せの一種に違いないけれど、僕が今感じたこの感覚は、速度を上げて水を注ぐように、全身で感じる幸せだった。


「大きいよね、いいエネルギーって。本当に大きい。愛ってどんな感情よりも一番大きくて、どの感情にも変換できてしまうほど深いエネルギーなんだよ」

そう言って、明は目を細め、穏やかに笑った。

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