エリカとアスチルベ(2)

 高塚の姿が見えなくなると、僕は小高い丘を眺めた。冷たい風が潮の匂いを運び、僕の鼻を掠める。その匂いを深く感じたくなり、目を瞑った。


大切な人は家族以外いなかった。学生時代と言えば、運動が得意ではなかったため、休み時間には真っ白いノートに新しいおもちゃの構造を設計したり、本を読んでいた。そんな僕は周りから見れば、とてつもなく浮いていたし、それからと言うもの万年いじめてもいいと思われる対象になっていた。僕自身も変わり者であることの自覚はあった。周りからすれば突拍子もないことを言ってしまい、周りが目を見開いて驚いたり、集合がかかる度にしっかりと整列することや、先生が聞きたくもない退屈な話をし始めた時には、黙っていなければならないし、さらにキョロキョロと辺りを見渡したり、足元を眺めていることも許されない。そんな集団生活に疑問を抱いていることをクラスメイトにうち明けた時は、眉間に皺を寄せて変な顔をされた。


触れないでとバイ菌扱いを受けたり、話しかけても返事をしてもらえないのは日常茶飯事だった。後ろから石を投げられたり、あからさまに逃げられたりしたこともある。僕が教室のドアを開けたら、誰もが会話をやめ、そして目をそらして会話を再開する。僕はそんな状況でも、ひたすら平気なふりをしていた。机に顔を伏せ、頭の中でずっとおもちゃを作るイメージだけを重ねた。体を丸めて誰にもノートの中を見られないように設計図をひたすら描いた。教室の埃っぽい臭いは今でも脳内にこびりついているし、似たような匂いがする場所は苦手になった。


時折、いつものように平気なふりをしていても、張り詰めた糸が切れそうになると目の奥からは涙が滲み出ていたし、喉からは何か熱くて苦しいものが込み上げていた。気づけば、誰とも目を合わせられなくなっていたし、何故か同級生には敬語で話すようになっていた。そしていつの間にか嫌われる理由を増やすのが怖くなっていた。


おもちゃを作るために買ってもらったカッターは指や腕の関節を浅く切りつける道具になっていた。自分で自分を痛めつけて、周りと同じでいられない自分への戒めにしていた。親から傷について尋ねられた時は、おもちゃ作りで怪我をしてしまったと嘘をついたし、時には飼い猫のイチに引っ掻かれたと嘘をついた。もしかしたら気づいていたのかも知れない。それでも両親は深く聞いてこなかった。


僕は僕が嫌いだった。けれど僕が好きなものは疑いもなく好きだった。それだけが救いだった。僕の部屋はいつでもおもちゃたちに囲まれていた。そこには最新のおもちゃも並んでいたが、やっぱり昔のおもちゃは魅力的だった。すぐに壊れてしまうところも愛おしい。何度も自分で直して遊ぶのだ。汽車の走る音や、揺れると綺麗な音がなる星のモビール。ぎこちない動きをするくるみわり人形。簡単な作りなのに綺麗に飛行する木製の飛行機。怖いのか可愛いのか分からない個性的な顔の人形たち。


僕はこんな素敵なものを完璧に作れるようになりたいと毎日祈るようにおもちゃを作り続けた。彫刻刀の使い方は完璧だったし、長時間の工作によって、僕の指には硬いマメがいくつも作られていた。


 いつの日か、学校を休んでも両親や先生に何も言われなくなった。僕はただ毎日、暇を持て余した時間をおもちゃ作りと、それらの知識を得るために唯一日本の書物が全て保管されている図書館に通い詰め、本を読み続けた。


図書館と部屋を行き来するだけの僕には友達すらできなかった。ほしいとも思わなかった。どうせ変人扱いをされるのは目に見えていたからだ。みんなと同じであることは、正しいことなのだろうか。苦しんでまで周りに合わせて生きていく必要はあるのだろうか。正しく整列する意味を、同じ制服を着続ける意味を、みんなが似たような家に住む意味を、もっと分かりやすく、納得いくように説明して欲しかった。外でボール遊びをしなくても、本を読んでいたって、読まなくたって、粘土をこね続けていたって、大勢で遊ばなくたっていいじゃないか。


僕には日本のこうした常識が分からなかった。例えば学校にどうしても行きたくないから行かないという選択肢を取ると、周りとは違う。ずるい。迷惑だと騒ぎ立てる。誰かを傷つけているわけではないのに、それは誰かにとって迷惑な行為なのだ。やめるべきだと言われる。きっとこれからもこの類のことは、僕にとって理解に苦しんでいくのだろう。現代は多様性の尊重とは口ばかりで、何も変わらない。何千年と月日が経とうと全く変わらないのだ。


戦争がなくなっても日常の小さな戦争は無くならない。人を傷つけることをやめられない。誰かが抜きん出て輝けばその花を踏み潰したり、誰かが芽を出せずにもじもじとしていれば気持ち悪いと踏みつける。そんな人間たちに嫌気がさしていた。目を開けると、あまりの眩しさに視界がくらりと歪んだ。息を大きく吸い込むと、僕はその場を後にした。


 目を覚ますと、ぼやっとした視界の中でカレンダーに目を向ける。じっと日付の書かれた数字を見つめていると、今日は高塚のお店の中を案内してもらう日だと気づいた。バッと体を勢いよく起き上がらせると、僕は足元に並べられたスリッパを履き、寝室を出た。


僕の朝にはルーティーンがある。朝起きたらすぐにコーヒーを入れる。ウォーターサーバーですぐにお湯が出るのだが、高塚にヤカンというもので沸かしたお湯からコーヒーをいれる適温まで熱を下げたコーヒーが一番美味しいと聞き、僕もそうするようになった。


ヤカンのお湯が沸き上がるまでの時間で、電動歯ブラシを使って歯を磨き、顔を洗った。最近は原沢からおすすめされた酵素洗顔がお気に入りだ。顔を洗い終えると、イチのお皿にキャットフードを入れ、お湯の温度が下がる前に手動のコーヒーミルでコーヒー豆を砕く。これが楽しい。


手入れは面倒なものの、コーヒー豆を引いている時に手へと伝わるゴリゴリとした振動が心地いいのだ。落ち着いてコーヒーを飲む時は、赤いダブルソファーでと決めている。壁にかかっている歯車のおもちゃがクルクルと回りながら動いているのを眺め、時計の秒針に耳を澄ませた。目の前にあるレトロなブラウン管テレビの電波は入るわけもなく、ただの飾りとなっていた。少しだけ開いた窓の隙間から風が吹くと、コーヒーの匂いが香り立ち、心が和む。


 以前、高塚に教わった暖炉というものを家に設置するために、新たに設計図を作っているところだった。正直家の中で火を扱うのは初めてなので恐怖心はある。けれど、暖炉の資料を見た時に書いてあったサンタクロースという人物にとても興味があり、僕は暖炉に憧れを抱いていた。


昔はサンタクロースやオオカミが煙突の中からやってくるおとぎ話があったそうだ。昔の人の発想は面白い。特に三匹の子豚という絵本に出てくる三番目の子豚には、自分と似ているところがあって好印象だった。時間がかかってもいいものを作る。僕と同じ考えだ。レンガの家はおしゃれだし、煙突のある暖炉はとてもユニークな設定だ。その下に大鍋を置き、最後は悪い狼が煙突から入ってきて大鍋の中で煮えてしまい、みんなで狼鍋を食べるという結末も面白い。


昔話は突拍子もなく驚きと笑いを与えてくれる。火を扱うかはともかく、もう少し落ち着いたら、僕の家にも暖炉を設置したい。コーヒーもいつの間にか飲みきり、コップの底が見えたところで、僕は急いで着替えて高塚の家へと向かうことにした。

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