落葉




「トシって、あの時酔ってなかったのか?」

「あの時?」

「ほら、あの雨の日」


 今日も、外は生憎の弾雨。仕事をする土方の横で、ごろごろと転がる爽葉が、仰向けになりながら訊ねた。


「相当飲んだろう。角家でも、屋敷でもさ」

「ああ」

「ちゃんと全部飲んでたのかよ」

「飲んでたぜ」

「恐ろしいな……」


 爽葉は苦いものでも口にしたかのように顔を顰めて、土方を見上げる。


「本当に狡賢いこと、してなかったか?」

「まあ少し、酒を入れ替えたりはしていたが」


 平然と言ってのけた土方に、


「怖え奴」


 と爽葉はぼやくのだった。

 土方は器用な男だった。基本的に何事も、そつなくこなすことができた。若かりし頃の経験から学んだ手管てくだを、彼は様々な場面で上手く応用させていた。


「チビ助でも、練習すりゃあ下戸じゃなくなるかもしれねえぜ」

「本当?」


 爽葉がむくりと起き上がる。

 土方は酒にも滅法強く、酒が飲めずに甘いものばかりを好物とする近藤や、果敢に挑むもすぐに酔い潰れる爽葉とは真逆だった。

 新選組の隊士達も揃いも揃って酒好きばかり。その上厄介なことに、大の悪戯好きときた。そんな彼等にとって、爽葉は格好の獲物だった。山南や井上などの穏やかな人種も、「やめなさい」と言いこそすれ、実際に止めようとはしない。


「酒に強くなって、悪戯し返してやる!」

「おー。頑張れよ」

「違うよ! トシが手伝うんだよ!」

「あっ、おいてめえ、またっ」


 紙面の中央に、大きな墨の塊が落ちた。


「……よし」

「ん?」


 筆を置いた土方が、


「俺が酒のいろはを教えてやんよ」


 にやりと笑った。もう後には引き下がれない爽葉は、ドンと胸を張って、


「の、望むところだ!」


 と威勢良く言い切った。はいいものの。

 飲み始めて十数分かそこらで、爽葉は完全に出来上がってしまった。


「さっきの威勢はどこ行った」

「まだまだいけるもん! 見てろよぉ」


 爽葉は酒を猪口に注ごうとするも、どぼどぼと床に全てこぼしている。


「おい、こぼれてんぞ」


 呆れ顔の土方が、盃を持っていない方の手で、爽葉が傾ける徳利を押し上げた。


「なにすんだっ。折角、ふふっ、トシのヤローにしこたま飲ませようと、したのに。ふふふっ」


 怒っているのか、笑っているのか、よくわからない爽葉は、頬を真っ赤にして、今度は土方の盃を奪う。


「おい」

「トシぃ、なんで顔色変わんないのっ」

「そりゃあ、お前より何十倍も強いからな」

「さては、湯を飲んでいるな!」


 土方の制止も聞かず、爽葉は土方の酒をぐいっと飲んだ。


「な、にこれ……あっつ……」


 思わず手拭いに手を伸ばし、爽葉が前傾姿勢で床に手をついた。


 爽葉が飲んでいた酒は土方の飲む酒を四、五倍程度に玉割り*してあった。町の請酒屋うけざかや*で手に入る酒は、酒精度数だけでなく酸味や糖度も高い。爽葉のような下戸が飲めば、一発で酩酊めいていしてしまうであろう。

 因みにこの頃の人々は、清酒や日本酒、焼酎などを、基本は夏でも燗銅壺かんどうこで湯煎して温め、熱燗にして飲むのが常である。


「大丈夫か」


 土方が俯く爽葉の肩を掴む。返事がない。そのまま手に力を込めて彼の姿勢を立て直すと、不安定な爽葉の頭がぐらりと獨楽こまのように回り、土方の方を向いた。


「言わんこっちゃない」


 ぽやん、とした顔で、頬を淡く紅潮させた爽葉が、包帯を透かして土方を見つめていた。


「舌が痺れる……」

「ほら、水を飲め」


 爽葉の手から猪口を取り上げようとした土方に、爽葉が縋り付く。


「待って、まだ」

「少し酔いを醒ませ。後でまた飲めばいいだろ」


 両手で盃を奪い返そうとする爽葉の目元から、緩んだ包帯が滑り落ちた。底に残っていた酒が、跳ねて土方の手を濡らす。

 結局、爽葉の必死の抵抗虚しく、すぐに盃はむしり取られ、彼の手の届かない反対側に置かれてしまった。

 代わりに、水の入った青竹の入れ物を取ろうとした土方の手を、突然、爽葉が下から掴んだ。小さな掌が手の甲するりと滑り、太い手首へと這う。


「ちょっ……なにをして」


 土方が、ぎょっとした声を洩らした。

 爽葉が土方の掌を舐めたのだ。


「おい!」


 爽葉の頭を右手で掴んで押しやろうとするも、爽葉は身体を丸めて土方の腕を抱き込んだ。


 椿のべんの如く赤い舌が、ゆっくりと手首から指の根本へと向かう。爽葉が人差し指を口に含むと、生暖かい体温が冷えた指先をじんわりと溶かした。柔らかな唇の感覚は生々しく、触れる吐息は優しく土方の肌をくすぐる。


 気付けば雨が止んでいた。辺りはしん、と静まり返り、しめやかなときが訪れている。


「爽葉」


 中指の爪の先を甘噛みしながら、淑やかに爽葉が顔を上げた。

 月に映えた爽葉の横顔は婀娜っぽく、肌の煌めきは増して、息を呑むような凄艶さを漂わせていた。

 微かな違和が土方の胸に兆す。名を知らぬ感情が、肌の下を脈打っている。

 生彩なる碧の双眸で土方を捉えながら、彼は薬指を咥えた。獲物を狙う猫のように、子を慈しむ虎のように、爽葉は片時も土方から眼を離しはしなかった。

 爽葉のたてる水音がやけに大きく響く。それは実に淫靡で、妖艶で、土方は戸惑いを隠さないでいた。


「……チビ助」


 漸く土方の手を解放した爽葉は、最後に自分の指に酒をぺろりと舐めると、彼はあまりにも嫋やかに、嫣然と笑う。

 この少年、なかなか侮り難い。土方は彼から顔を逸らし、盃に並々注いだ酒を一口に飲み干すのであった。




 玉割り…水を加えて薄めること

 請酒屋……酒を扱う店

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誠眼の彼女 挿話録 南雲 燦 @SAN_N6

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