誠眼の彼女 挿話録

南雲 燦

残火




 爽葉が咳き込むと、土方が少しだけ心配な素振りをみせてくれる。それがひどく新鮮で、もう少し辛そうなフリでもしていようかと、目論もくろみたくなるほどであった。


「火事の煙を侮っちゃなんねえぞ」

「わかってるよ……」


 喉と頭がずきずきと痛かった。水が今すぐ欲しいし、少し吐き気もする。


「立てるか」

「うん。政虎達は?」

「火消し達が親んところに連れてった。処置は向こうでするだろ」

「そっか」


 安堵からか、かくん、と爽葉の身体が傾ぐ。


「あぶねえ」


 土方が咄嗟に爽葉の腕を掴んだ。


「あー……吐きそうだ。トシの着物にぶち撒けそう」

「おいやめろ」


 言葉とは裏腹に、土方の手はしっかりと爽葉の腰に回され、支えるように強く抱きかかえてくれている。


「今にお前の着物はゲロまみれだ」

「ふざけんな。新調したばっかの服を汚されてたまるか」


 軽口を叩き合うも、爽葉の意識は危ういものだった。最後の大炎上が肺に効いたようである。脚に上手く力が入らずよろめく爽葉を、突然土方が抱きあげた。


「おい……なにすんだ」

「対抗する気力すらねえなら、文句は言わねえこったな」


 普段なら大暴れする爽葉は、抵抗する気も起きず、なされるがままだった。

 土方は火事現場から離れた木陰に爽葉をそっと降ろすと、水桶と手拭いを借りてきて、爽葉を休ませる。甲斐甲斐しいところが、また悔しい。ぐるぐるとするその気持ちを、芹沢の文句にぶつける。


「芹沢のヤロー、覚えてろ……。僕がいなかったら、もっと刑が、重くなってたんだからな……」

「もう喋んな。余計しんどくなるぞ」

「悪態は覚えているうちに吐かないと」

「どういう理屈だ、そりゃあ」


 ふう。と木の幹に寄り掛かる爽葉から、余裕のない、苦しげな息が洩れた。土方が爽葉の汗と煤汚れを拭く。肌に優しく触れる手拭いから伝わる冷気が、気持ち良かった。心なしか和らいだ爽葉の表情を見て、土方の眉間の皺が若干和らぐ。


「としぃ……僕、今日は大活躍だよね」


 薄らと爽葉が目を開けた。


「ああ。今日はでかした。もう休め」

「うん、でも……ご褒美貰わないと……」

「褒美って何だよ」


 爽葉の手が不意に伸ばされ、土方の腕を掴む。そして、急にぐいと強引に引き寄せた。


「おいっ」


 土方は、咄嗟に幹に手をつく。

 真下に爽葉の額がある。


「トシの匂いって、何でこんな安心するんだろう」

「は?」

「匂いがさ……なんて言うんだろう」

「お前また加齢臭なんてほざいたら、ぶっ飛ばすぞ」

「怪我人に容赦ないなあ……」


 そう言いながらもにこつく爽葉が、身体を前のめりに傾けた。何事かと、土方は腕を広げ、彼を受け止めようと膝をつく。だが、それは空振りであった。


「ご褒美、もらうんだ……」


 爽葉が、土方の胸元に頬を当てた。途端、彼は心地良さそうに、静かな寝息を立て始める。

 呆気に取られた土方は、眠りこける爽葉を暫し見下ろしていた。


「結局こいつ、何が欲しかったんだ?」


 自分の羽織を爽葉の肩にかけ、土方は爽葉からゆっくりと身を離し、首を傾げた。

 近藤達が二人の元に駆けつけるのは、この数分後のことである。



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