4-21 王妃が王を殺す理由

 湖のほとりで侍女に運ばせた昼食を食べ終え、ギジェルミーナがイェレと城に戻ったのは午後のまだ明るい時間である。


 春になり、太陽が沈むのも大分遅くなった。


 だがイェレははしゃぎ疲れたのか到着前から熟睡していて、ギジェルミーナは肩を枕として貸さなければならなかった。


「陛下はよくお眠りだ。起こさないようにな」


「はい。かしこまりました」


 馬車が止まった後、供の者に寝ているイェレを寝室まで運ばせる。ギジェルミーナは、その隣をついて歩いた。

 西陽が差し込む寝室では、ヘルベンが待っていた。


「おかえりなさいませ。遠出は楽しかったようですね」


 供の者の手によってベッドに寝かせられるイェレの安らかな顔を、ヘルベンはほっとした表情で見る。


「ああ。この国の春は初めてだが、良い雰囲気だな」


 長椅子に座って足を伸ばし、ギジェルミーナも一息をつく。

 ヘルベンは微妙な顔で笑って、自国を卑下して頷いた。


「自然の美しさだけが、取り柄の国ですから」


 自国に国土を守る力がないことを、大国に庇護を求めなければ立ち行かない国であることを、ヘルベンは恥じている。


 ギジェルミーナはヘルベンと同じ意見ではなく、グラユール王国の自然以外の料理や文化も好きだった。

 だがそのことを伝える前に、ヘルベンが話題を変える。


「草案を頼まれた文書は、書斎に置いてあります」


「わかった。後で確認する」


 頼んだ仕事についての連絡を受けて、ギジェルミーナは軽く返答した。ギジェルミーナも疲れたので、今すぐ文字を読む気にはなれない。


「では、問題がありましたらお知らせください」


 お辞儀をするとヘルベンは、供の者と一緒に部屋を出る。

 ベッドで眠るイェレの寝息だけが聞こえる寝室に、ギジェルミーナは残った。


(少し、のどが渇いた)


 何かを飲みたい気分になって、ギジェルミーナはあたりを見る。

 主のために部屋を整えて待っていたであろうヘルベンはとても気が利いていて、長椅子の近くの丸テーブルの上には、ちょうどよい具合に冷めた茶の入ったポットとカップが載っていた。


 ギジェルミーナはカップに自分の分のお茶を注ぐと、まずは一杯飲み干した。中に入っていたのは、黄金色がきれいなすっきりとした味わいの紅茶である。

 二杯目を注いでもポットにはまだたっぷりのお茶が入っていて、それはイェレのために用意されたものであるはずだった。


(このお茶に毒を入れれば、イェレを殺せるな)


 イェレと二人っきりの部屋に飲み物がある状況にいることに気づいたギジェルミーナは、ドレスに隠し持っていた毒の小瓶を握りしめた。


(おそらく今日の疲れ具合だと、イェレは日が沈む頃には一度起きるだろう。そのときに私がお茶をすすめれば、イェレは絶対にそれを飲む)


 安らかに目を閉じて眠っているイェレを眺めて、ギジェルミーナは殺す手立について考える。


 結婚してから何ヶ月も経っており、ギジェルミーナはイェレがどう行動するのかをかなりの精度で把握していた。

 まだ窓の外は明るく陽が沈むまでは時間があったが、暖かい日の寝起きならきっと、イェレは冷たくなったお茶でも美味しく飲むだろう。


 さらにギジェルミーナは亜麻布のドレスのポケットから小瓶を取り出し、カミロから聞いた毒の効用を思い出す。


(熱病のような症状が出て死ぬ毒なら、悪い風邪がぶり返して死んだことにすれば怪しさも薄れる)


 イェレが先日まで季節の変わり目の風邪で寝込んでいたことと、毒の特性を結びつける。

 殺した際の偽装について結論を下せば、いよいよ本当にもうイェレを殺すだけである。


 冷たい金属製の小瓶を握りしめて、ギジェルミーナはイェレを起こさないようにそっと立ち上がった。

 金細工の天蓋からベッドにかかる薄絹のカーテンを手で寄せて開けて、ギジェルミーナはベッドを覗き込む。


 イェレは絹のガウンを身に着け、真っ白なシーツに包まれて、何も知らずにベッドで眠っていた。

 切り揃えられた髪と同じ亜麻色のまつげが震える寝顔は清らかで、手を胸の上に置いて眠る姿は箱にしまわれた人形か、棺の中の遺体のようにも見える。

 しかしイェレは人形でも遺体でもなく、まだ生きて息をしていた。


 作り物のように美しいイェレの姿を、ギジェルミーナは赤い褐色の瞳に焼き付ける。


 ギジェルミーナはその小さく寝息をたてているイェレのくちびるに、口づけをしたかった。

 しかし起こしてしまっていけないので、代わりにシーツの端を持ち上げて口づけをする。やわらかで清潔なシーツは、甘い香りが焚いてあった。


(私はとうとう、王を殺すんだ)


 自分よりも確実に美しく端正なイェレの目を閉じた顔を見たギジェルミーナは、かつて幼いときに見た兄の即位の儀式を思い出す。


 長兄アルデフォンソは新たな王として、ギジェルミーナよりも綺麗な姿で、ギジェルミーナが絶対に手に入れることのできない王冠を与えられていた。

 ギジェルミーナはその時からずっと、王になって王冠がほしいと思っている。

 だが自分は王になりたいけれどもなれないから、王を殺してしまうのだ。ほしい物が手に入らないのなら、与えられなかった者はそれを壊す。


(イェレだってきっと見知らぬ誰かに殺されるよりも、私に殺された方が幸せだろう)


 自分を正当化して、ギジェルミーナは冷たい小瓶の蓋に手をかける。それはイェレの細く白い首を、両手で掴んだような感覚だった。


 小瓶の蓋を外し、イェレのために紅茶を注いだカップに数滴たらせば、あとはもう一押しである。


 だがギジェルミーナは、完全にイェレを殺す決意を固めたはずなのに、蓋を開けることができなかった。


 そのときギジェルミーナがイェレを殺そうとする手を止めたのは、イェレを愛しているからではない。イェレを殺すことは、ギジェルミーナの思い描いていた王殺しではない気がしたのだ。


(だってイェレは、あまりにも多くのものを奪われている)


 そのときやっとギジェルミーナは、自分がしようとしていることと目指していたもののずれに気がついた。


 愛しているからこそ、イェレを殺せるというのは嘘ではない。しかし本来のギジェルミーナが殺意を抱いていた対象は、自分より恵まれた強者である。


 ギジェルミーナの目の前で眠るイェレは美しい姿をした完璧な王に見えるけれども、実際には精神を大きく損なっていた。過去に長い間幽閉されていた心の傷は癒えることなく、イェレはこの先も大人になれないまま、幼い傀儡の王であり続けるだろう。


 そんな弱く虐げられた存在は、ギジェルミーナが壊そうとしたものではなかった。

 ギジェルミーナが殺したいのは、謝肉祭に捧げられる哀れな羊ではなく、世界のすべてを手に入れた権力者である王なのだ。


(ならば私は、誰を殺すべきか)


 顔を上げれば部屋の中は、真っ赤な夕日に染まっていて、そのまぶしさにイェレも起きる気配を見せていた。


 イェレの首と重ねた小瓶の蓋から手を離し、ギジェルミーナは自分自身に問う。

 これは愛ではなく、ギジェルミーナの自尊心の問題である。


 考えてみれば答えは、最初から決まっていたものだった。

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