1-10 聖女が破滅を望む理由(2)

 クルトの藍色の瞳から、一筋の綺麗な涙が流れる。その涙をぬぐわず、クルトは震える両手でシェスティンの手をより強く握りしめる。


 硬く大きな手の感触に、シェスティンの鼓動は高鳴った。


「でもだからこそ今の俺は、昔よりも強くて、誰かを守る力があるはずなんです。シェスティン様が俺を、救ってくださったから」


 精一杯の声と表情で、クルトは男らしく振る舞っていた。


 クルトがシェスティンに救われたと思っているのは、シェスティンが心優しい聖女のふりをしていたからである。そのため実際に優しいわけではないシェスティンは、自分の存在がクルトを救ったと言われてもぴんとこないところがあった。


 だが自分にとっては檻のように煩わしかった退屈な日々が、クルトにとっては幸せで満ち足りた世界だったことはわかっている。

 だからシェスティンはクルトの理想であり続けられるように、とびきりの儚い微笑みで偽った。


「はい。クルトは、とても強くなりましたね」


 普段よりもより一層やわらかな声で、シェスティンはクルトの全てを肯定した。クルトの努力を認めたい気持ちは嘘ではなかったが、本当のところはもっと欲深い愛情を持っている。

 その本音を抑制したシェスティンの言葉に、クルトはぽろぽろと涙を流して頷いた。


「シェスティン様が祈ってくだされば、俺は死んでも負けません」


 そうつぶやいたクルトは、疑うことをまったく知らない瞳をしていた。


 神に愛された聖女には特別な力があるのだと、敵の包囲を前にしてもクルトは本気で信じている。

 頼りになりそうな青年に成長しても本質的なところは変わらないクルトが愛しくて、シェスティンは身体を震わせた。


(私に皆を幸せにする力なんてないと、私は知ってますけどね)


 シェスティンが病も怪我もほとんど知らずに生きてきたのは、もしかするとやはり神に愛されてた聖女だからなのかもしれない。

 しかし定められた通りに祈り続けてきたのにも関わらず平和が脅かされている今、シェスティンは自分に人々が救う力があるとは到底思えなかった。


 もしも聖女が命を捨てて守る価値がない非力な存在であるのなら、クルトがシェスティンのために死ぬ必要はないはずである。


 だからシェスティンは、クルトには死なずに生きていてほしいと願っていた。


 生きて酷い目にあって、これからも可哀想な存在であり続けてほしかった。


 その想いの綺麗なところだけを見せて、シェスティンは握られてない方の手でクルトの短く刈った銀髪の髪を撫でた。


「私はクルトに、死なないでほしいです」


「シェスティン様は、優しいですね」


 素直で控えめなクルトは、シェスティンの真意を勘違いしたまま、これ以上は泣くまいと顔を伏せる。


 シェスティンはそのほどよく硬い髪の感触を指で楽しみ、何もかも捧げて跪いているクルトを愛でた。

 精悍な顎も、太い眉も、優しい目元も、クルトの全てがシェスティンの手の下にある。


(ですけどやはり、私のために死ぬクルトの姿も見てみたいですね。昔みたいに、瀕死でも生きてくれたらいいのですが)


 シェスティンは聖女に仕える騎士として散るクルトの死に様を想像して、胸の奥が熱くなった。クルトのことが好きだからこそ、その死は甘美なものに思える。

 そしてシェスティンはよりクルトを側に感じたいがために、そっと耳打ちするように顔を近づけてクルトにささやいた。


「私は祈って願うことしかできない、無力な聖女ですから」


 その適当な受け答えは、クルトには自己犠牲的な意味に響くのかもしれない。

 しかしシェスティンは、儚く端正な美しさで微笑みながらも、歪な願望を抱えていた。


「シェスティン様……」


 クルトが消え入りそうな声でシェスティンの名前を呼んで、顔を上げる。

 悲壮な覚悟を秘めた眼差しに射抜かれて、シェスティンは一瞬我を忘れた。


(そんな顔されたら、より好きになってしまいます)


 シェスティンは湧き上がった衝動に従って、そのままクルトのくちびるに口づけをした。半分残っている理性は、死が近づきつある今なら多少強引でも許されるのだと冷静に計算している。


 寒い夜の来訪者であるクルトのくちびるはほんのりと冷たく、暖炉で暖まっていたシェスティンには気持ちが良かった。

 何事も相手の意思を優先してくれるクルトは、突然の口づけを受け入れて、目を閉じてシェスティンのか細い身体を抱きしめた。たどたどしくも、力強い抱擁だった。


 勢いに任せてシェスティンは寝台に倒れてみたが、純朴なクルトが相手ではその先は存在はしない。しかしシェスティンはクルトの鍛えられた腕の中にいるだけで、十分に満足することができた。


(私と違ってたくさんの痛みを知ってる、可哀想なクルト)


 シェスティンは暖炉の火に赤く照らされた天井を見上げながら、クルトの背中にあるはずの、まだ見たことがない傷跡を服越しになぞった。


 クルトが声を押し殺して泣いているのは、優しく美しい聖女であるシェスティンが、戦争の犠牲となって無残に死ぬかもしれないことが辛いからである。

 オルキデア帝国の軍がこの神殿に攻め込めば、クルトだけではなく自分の命も危ないことは、戦争を知らないシェスティンもさすがに理解していた。


 しかしシェスティンはクルトと違って、敵に殺されることを恐れてはいない。

 聖女として野蛮なものから遠ざけられて育ったシェスティンは、むしろ暴力を振るわれてみたいとさえ思っていた。


(このまま何も変わらない毎日を生きるよりも、知らないことを知って死にたいですから)


 シェスティンは痛めつけられたことがないので、痛みがどういうものなのかを知りたかった。


 苦痛も恐怖も懊悩も全部、今まで与えられなかったものに触れてみたかった。


 孤島の神殿のしきたりを守って、運命に従順に生きてきたけれども、この狭く退屈な世界を敵が壊してくれるのならそれを歓迎したかった。


(だから私は、怖くはないです)


 シェスティンはクルトの大きな身体のぬくもりに身体を預けて、敵に蹂躙される日のことを考えた。


 もしも自分が敵に残酷な仕打ちを受けるのなら、シェスティンはその姿をクルトに見てほしい。逆にクルトが無慈悲な扱いを受けるのなら、シェスティンがその姿を必ず見たい。

 シェスティンの願望は、そういう類のものだった。


 やがて口づけを終えたシェスティンは、かよわく健気な言葉を選んで目を潤ませた。


「私を守っても、きっと生きてくださいね」


「はい、命を尽くします」


 そう言ってクルトは、シェスティンの長い金の髪を大切そうに撫でた。


 クルトの黒い衣と、シェスティンの白い衣が、やわらかな寝台の上で溶けるように重なる。

 お互いにそれ以上は何も望まず、騎士と聖女は目を閉じ黙って抱き合っていた。


 あとは火の燃える音だけが聞こえて、静寂さを引き立てた。

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