1-9 聖女が破滅を望む理由(1)

 対岸の戦場から何とかやって来た伝令の報告によれば、王都からの援軍は約束通りに送られてはいたらしい。ユルハイネン聖国の第二の中心である神殿を守るため、援軍には精鋭が集められていた。


 しかしオルキデア帝国の軍隊も練度が高く、ユルハイネン聖国にはない優れた火薬兵器で武装していた。

 そのため対岸の森で両国の軍が衝突し戦闘が始まった結果、ユルハイネン聖国の兵士たちはオルキデア帝国に完敗し散り散りになってしまったようである。


(ここではないどこかの戦争の結果がどうであれ、私のやるべきことが変わるわけではありませんが)


 結局は儀式と祈祷で過ぎていく一日を終えて、シェスティンは自室で寝台の毛布にもぐった。

 シェスティンの自室は白い石造りの居館の奥にあって、暖炉のぬくもりが行き届く広さの部屋には、細やかな彫刻の装飾が上品な木製のテーブルやチェストが配置されている。

 そして壁にかかった小さな聖画の下に置かれた寝台の上には、藍色の布に金糸で神殿の紋章を刺繍した豪奢な覆いがかかっており、そこで眠る人物は神々しく見えるようになっているはずだった。


(いつも聖女らしい姿でいることが、私の務めですから)


 程よい固さの枕に預けて目を閉じ、シェスティンは他人から見た自分の姿について考えながら眠りについた。

 昨夜と同じ夜であるのなら、シェスティンはそのまま寝て朝を迎えるはずだった。


 だがその夜は毎日過ごしてきた夜と違って、シェスティンが寝入ってしまう前に誰かが扉を叩いた。


 それはためらいがちな、小さな音だった。


「そこにいるのは、どなたですか」


 シェスティンはこれまで、眠りを妨げられたことがなかった。初めて経験する状況に、シェスティンは身体を起こして要件を尋ねた。


「俺です。クルトです。ここに来てはいけないのに、申し訳ありません」


 返ってきたのは聞き間違えるはずのない、声変わりをしてからは毎日聞いているクルトの声である。


 心のどこかで予見していた通りの人物の訪問に、シェスティンは胸元をリボンで結んだ白いガウンのまま寝台を抜け出て扉を開けた。


 暗い廊下にいたクルトは普段と変わらない黒色のサーコートを着て、悲壮な顔をして立っていた。

 シェスティンはクルトの深刻な表情を見て、戦況はいよいよ本当に絶望的なのだと理解した。


「どうしてわざわざ、私の部屋に来てくれたのですか?」


 本来は男性は聖女であるシェスティンの寝室に立ち入ってはいけないのだが、シェスティンはそのことは何も言わずにクルトを部屋に通した。


「わかりません。もうすぐオルキデアと戦うことを考えていたら、急にシェスティン様に会いたくなったんです」


 まるで子供の頃に戻ったように藍色の瞳を潤ませて、クルトは俯いたまま扉の近くに立ちすくむ。


「明日はまだ、きっと普通に会えます。でももうあと何回、生きてシェスティン様と過ごせるかわからないですから」


 そう言ったクルトの瞳から、早くも一粒の涙が落ちる。

 クルトの言う通り、明日はまだ二人で何事もなく会うことができるはずだった。

 敵軍の攻撃により多少の変化があっても、昨日まではそうだった。


 しかし近いうちに訪れるオルキデア帝国の攻撃によってそうした日々が終わることを恐れ、クルトは規則を破ってまでシェスティンの寝室に来たのだった。


(そんなに思い詰められるとちょっと、どきどきしてしまいますね)


 戦火が迫りつつあるからこそ触れることができたクルトの弱さに、シェスティンは心をときめかせた。

 しかしそうした夜の闇に急に孤独を感じる子供のようなクルトの感性が好きだからこそ、シェスティンはその好意を表には出さずに敵に怯えるふりをする。


「かつての平和が二度と戻らないほどに、敵は恐ろしく強いのですか」


 シェスティンはわざと声を震わせて、弱々しくよろめいた。


 するとクルトは慌てて、シェスティンを抱きとめて寝台に座らせる。

 一瞬触れたクルトの腕は、力強くたくましかった。

 そのままシェスティンがクルトの手を握って離さないでいると、クルトは床に跪いた。


「すみません。でも俺たちは、シェスティン様を絶対に死なせません。シェスティン様は生きてこの国のために、祈り続けるべきお方ですから」


 クルトは涙をこらえ、凛々しい表情を作ってシェスティンに誓いをたてる。

 騎士であるクルトがシェスティンを死なせないと誓うのは、クルト個人の忠誠心を示したものでもあり、ユルハイネン聖国全体の信仰に従った結果でもあった。


 聖女であるシェスティンは、絶対に穢れてはならない尊い存在として、一切の傷も負わないように神殿で守られ続けてきた人間である。

 信仰の教義ではとにかく聖女に傷をつける行為は否定されるため、敵に奪われる前に聖女の命を断つ、という選択肢は最初から存在はしない。


 女官は自害したり逃走したりすることを多少は許されていても、聖女は死なずに神殿で生きる努力をすることが求められるし、騎士はそうなるように聖女を守らなくてはいけない。

 だから騎士であるクルトは文字通り、全てを捧げて聖女であるシェスティンを守ってくれるはずだった。


「母さんや妹がオルキデアの連中になぶり殺しにされたとき、俺は痛くて怖くて床で震えてることしかできない子供でした」


 クルトはシェスティンの手を握り返すと、決意を秘めた様子で、悲惨な過去を語り始める。


 それは随分前から知っている話だったけれど、本人の口から聞くのは初めてだったのでシェスティンは嬉しかった。

 だが自分の嗜虐的な趣向を知られたくはないため、沈痛な面持ちで黙り込む。

 跪いているクルトの輪郭を暖炉の光が照らすのを、シェスティンはただ見つめていた。


「刃が人の肉を刻む音を、傷から流れる血の温さと冷たさを、俺は忘れません」


 今までで一番辛そうに声を絞り出し、クルトは敵に襲われた経験を鮮明に述べる。


 家族の情を知らずに育ったシェスティンには想像できないが、親や妹を目の前で殺されるのは普通の子供にとっては悲劇である。背中に深い傷を負いながら、死なずに生きていたのも相当な苦痛だったはずだ。

 だからクルトはシェスティンを真剣に想っているからこそ、思い出すのも苦しい記憶を明かしてくれているのだろう。


(剣で斬られるのは、どれくらい痛かったのでしょうか)


 シェスティンは同情ではなく、純粋な好奇心でクルトの受けた痛みを想像した。


 武器によって与えられる苦痛の大きさに興味を持つほどに、シェスティンは痛みを知らずに育った。


 怪我とも病ともほとんど無縁に、安らぎしかない生活を生きてきたシェスティンにとっては、暴力は退屈を忘れさせてくれる未知のものである。

 この先にどんな未来があるとしても、シェスティンにはクルトの受けた痛みがわからないように、クルトにもシェスティンの倦んだ気持ちがわからないだろう。

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