第46話 橘正遠
《一体、正遠とは》
正遠と言えば、楠木正成の父とも伝わる名前ですが、実際のところはどうなんでしょうね。('22/12/04)
一次資料に見られる正遠は、建武政権の武者所の五番、楠木正成と一緒に橘正遠として登場する。本姓しか書かれていないので名字は不明。資料には官位はない(不明)。歴史本には無位無官だったと書かれている。('22/12/04)
一次資料以外で正遠の名が出てくるのが太平記。赤坂城の戦いの行で「舎弟七郎と和田五郎正遠」として登場する。なお、この"弟"が七郎のみならず正遠まで係っているのかは不明です。('22/12/04)
《正成の父??》
正遠が正成の父とするのが14世紀後半に編纂された尊卑分脈の橘氏系図。橘正遠として登場する。もっとも、正成の父の名は正玄、正康、正澄など諸説あります。('22/12/04)
一方、系図纂要の橘氏系図に出てくる正遠は、1304年、鎌倉で42歳で亡くなったとある。正成が10歳のとき、元弘の変より30年近く前のこと。これが正しいのなら、武者所に出仕した橘正遠と、正成の父の橘正遠は別人ということになる。('22/12/04)
《和田正遠》
和泉志に出てくる正遠は、正成の妹(一説には姉)が和田高遠に嫁ぎ産んだ子、つまり甥とされる。さらにその正遠の子が和田高家。高家は正成に命じられて和泉の岸に岸和田城を作ったという伝説がある。しかし、この系図のままでは、高家は正成の孫の世代となるので間違っているのは確か。('22/12/04)
しかし、火のない所に煙は……ということもあるので、あるとすれば、正成の妹ではなく正成の父の妹が高遠に嫁いで産んだのが正遠、もしくは、本来ひとりの人物であった和田高遠と和田正遠を親子としたことで生じた世代のズレではないかと推察します。('22/12/04)
高遠=正遠とするのは通字の不自然さから。高遠・高家親子が偏諱で正遠・正家となり、正家が常陸国に代官として出向き、和田の跡目を弟の正武が継いだとすれば納得もできる。つまり系図(和田高遠→正遠→高家→正武)は親子孫ではなく、単に当主名を並べただけ?!この時代の系図によくある話です。('22/12/04)
《岸和田氏と正遠》
もしかすると河内国玉櫛荘を本拠としてたのは和田正遠の方だったのだろうか。正成の命で河内国玉櫛荘から和泉岸に移り、これが岸和田氏となった……というのは飛躍し過ぎか。('22/12/08)
和田高家が岸に城を作り、岸和田と言われるようになったという伝承が、どうも引っ掛かる。
定智、快智、治氏が岸和田氏と知られるが、当主と思われる定智の諱はわかっていないし。('22/12/08)
そもそも、和田正武の和田氏と、良を通字とする和田氏は別で、正武は岸和田氏じゃないの?ということも考えたが。
しかし、岸和田氏は大中臣氏で、河内玉櫛の正遠は橘氏。結びつけるのはやはり難しい。('22/12/08)
《まさとう?まさはる?》
正遠は何と読むのか。従来「まさとお」と読まれていたが、近年「まさはる」と読むのでは?という提起もある。はるか彼方の「はる」。正成父の候補のひとつ、正玄も「まさはる」と読める。('22/12/08)
この時代、楠木と近しい者に、十市遠高や高木遠盛がいる。「とうたか・とうもり」より「はるたか・はるもり」の方が響きがいい(単に主観ですが 汗)。('22/12/08)
楠木氏が伊予橘氏の末裔なら、「遠」は橘遠保や一族の橘遠茂も使った通字かもしれない。「とおやす・とおもち」と読むのか、「はるやす・はるもち」と読むのか。現代では前者が宛がわれていますが、実際はどうだったんでしょうね。('22/12/08)
南北朝雑記/虚無僧のつぶやき 正田前 次郎 @shoda-j
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