第四話 香りの魔女

 あらゆる匂いが判別できるという能力は、日々の生活の中では憂鬱しか感じない。後宮の中、千人を超える女官や侍女、下女がそれぞれ自分の香りをまとっているのだから体調が悪い時にはうんざりする。

 極力、意識して匂いをかがないように気を付けていても、湿度の高い日や雨の日に不意打ちで近づかれると防ぎようが無い。


 季節外れの強い雨の音が後宮の廊下に響き渡り、窓の外には不気味な黒い雲が広がっているのが見える。一昨日撒いた種が流されてしまうかもしれないと、私は竹で出来た被り笠を持って薬草園へと向かっていた。


 雨の日には、壁の無い渡り廊下は濡れて滑りやすくなっているので使えない。遠回りをして複雑な後宮の中を歩いていると、強烈な花の香りとぶつかった。五種類の希少な薔薇を使った贅沢で甘い匂いは、第一公主スイランと宰相の娘ランレイが好んで使用している香り。


 同じ香りをまとっていても、使用者の体臭と混じり合うことでその香りは変化する。間違いなくランレイが近くにいると気が付いても、この廊下を通らなければ薬草園にたどり着けないから回避しようがない。

 小さく深く息を吸い、呼吸を止めて足早に廊下を歩く。部屋の中にいてくれればいい。そんな希望は角を曲がった所で打ち砕かれた。

 煌びやかに着飾ったランレイと数名の侍女がこちらに向かっていて、ランレイが足を止めた。


「お久しぶりですわね、カリン様。お元気そうで何より」

 第一皇子の婚約者ではあるものの、名目上は公主の侍女という立場でありながら負けず劣らず美しく結われた銀髪には瞳の色に合わせた翡翠の髪飾り。銀糸で刺繍された豪華な桃色の深衣に白絹の領巾ひれを羽織る姿は絵巻物に描かれた天女のよう。手にした薄絹の団扇でその口元を隠し、ランレイは嗤う。


「お久しぶりです。申し訳ありませんが、仕事で急いでおります」

 会釈をして通り過ぎようとした私の前に、団扇が投げられた。

「ごめんなさい。手がすべってしまいましたの。わたくし、今、腰を痛めておりますのよ。拾って下さる?」

 あきらかにワザとでも腰を痛めていると言われれば仕方ない。腹立たしいという感情を極力隠し、団扇を拾う為にしゃがむと頭から水が掛けられた。


 その酷い匂いで廊下のあちこちに飾られた花瓶の水であることはすぐに理解できた。毎日水は取り替えられていても、花瓶の水には花の死臭が籠っている。髪から滴る水を払うこともせずに立ち上がると、ランレイの後ろに控えていた侍女が無表情で花と空の花瓶を持っていた。

「申し訳ございません。手がすべりました」

 侍女の平坦な謝罪を無視して、私は団扇をランレイに差し出す。

「どうぞ」

 ランレイは花瓶の水に濡れた団扇を受け取ろうとせず、背後にいた侍女に向かって軽く顎で指示をするだけ。


 侍女に団扇を渡し、あきらかに不満そうな表情をしたランレイを残して、私は足早にその場を離れた。


      ◆


 大粒の雨が薬草園の地面を叩いている。結局私は被り笠を使わず、雨に打たれながら種と土が流れないようにと肥料が入っていた布袋を被せて周囲に石を積む。

 自分の希望通りに皇子の婚約者となってからも、ランレイは何かと私に嫌がらせをして絡んでくる。私はもう婚約者候補でもなく、ただの侍女。可能な限り避け、様々な嫌がらせにも黙って耐えてきた。どうやら他には標的になっている者はいないようで、何故執拗に私だけを狙うのか不明。


 怒った方がいいのか、悲しそうな顔をした方がいいのか、全くわからない。どんな反応をしても、喜ばせるだけのような気がしている。娯楽の少ない後宮での生きた玩具と思われるのは腹立たしい。

 陛下に相談すれば、何らかの制裁が行われるとわかっているから相談はできない。宰相の家から恨みを買えば、王宮を出た後に報復される可能性が出来てしまう。


 雨は増々強まって、頭から掛けられた花瓶の水の匂いがほぼ消え去った。全身がずぶ濡れでも逆に心地よく感じるのは、私の持つ魔力が風と水の属性だからだろうか。

 石で囲んだお陰で種が流れることはないだろうと安堵の気持ちで立ち上がり、私は薬草園を後にした。


      ◆


 雨が降る庭を歩いて部屋に戻ると、シュンレイとホンファに驚かれてしまった。

庭からひさしがついた廊下に上がる前に上着を脱いで絞ると、びっくりするくらい水が落ちる。

「カリン、どーしたのっ? ずぶ濡れじゃない!」

「この身拭い布タオル使って」

 ホンファに手渡されたタオルで顔を拭うとスッキリした。


「一昨日撒いた種が流れそうだなって思ったから、薬草園に行ってたの」

「え、ごめんっ! 気が付かなかった! 行く前に言ってよー」

「笠も役に立たなかったのね。ごめんなさい」

 うろたえる二人をなだめつつ、服の上からタオルで水を吸い取っていると部屋の奥で談笑していた年長二人が駆け寄って来た。


「待って、種が流れるって何?」

 薄茶色の髪を簡単に結い上げただけの李花リィカと灰水色の波打つ髪を降ろしたままの藍籐ラントウは十九歳で〝薬園の乙女〟の中では最年長。一番貴重な薬草を育てる温室の管理を任されている。


「一昨日、三種類の薬草の種を撒きました。晩夏の大雨の時と違って、まだ根が張っていませんので、土と一緒に流れやすいと思いました」

 この規模の大雨が降るのは晩夏というのが常で、その頃には種を撒くことを避けているし、しっかりと根が張っているから土が流れることもない。


「温室なら、大丈夫なんじゃないですかー?」

 首を傾げたシュンレイに、リィカが顔を青くして答える。

「……昨日、余った種を温室の周りに撒いたの」

「何の種ですか?」

「……コーレイの種」

 その声を聞いた全員の時間が止まった。それは皇帝のみが使用する特別な薬草の一つ。皆はその効能を知らなくても、私はそれが毒薬の材料の一つと知っている。皇帝が毒薬を欲した時、乾燥させた葉を香魔の村へと送って毒薬を作らせていた。


「そ、それは陛下のみが使用できる薬草でしょう!?」

 普段おっとりとしたホンファが悲鳴に近い声を上げた。

「い、一応、女官長に聞いてみたら、後宮では誰も陛下の薬草に手を出さないし、大丈夫じゃないかって……せっかくの種を捨てるよりもいいでしょうって……」


 種は種で別の強力な毒薬になる。カボチャの種に似ていて、一粒でも口にすれば即死するとは全く知られていない。繁殖力が強く、流された先で増殖したら手に負えないと一瞬で想像できた。


「私、温室を見てきます!」

 緊急時に振り切れたホンファの行動は素早い。収納棚の扉を開けて竹の被り笠を掴み、部屋を飛び出す。慌てて私が庭を走り出すと、他の侍女たちも動き始めた。


      ◆


 後宮の中庭、複雑で美しい紋様を描く金の格子に高価なガラスがはめ込まれた温室は、まるで翡翠を閉じ込めた水晶のよう。周囲は壁のない渡り廊下。晴れた日は朱色に塗られた柱や床が映り込み、その華やかさを増す。

 今は激しい雨がガラスの表面を滝のように流れ、周囲に茶色の水たまりを作っている。


 結局〝薬園の乙女〟の十二名全員が駆け付けていた。温室の周囲は、先程私が石で囲んだ範囲よりも遥かに広い。

「どの辺りですかっ?」

「ここからあの柱まで!」

 リィカとラントウが示した場所は、水を含んで泥と化していた。

「これ……根腐れするんじゃ……」

「大丈夫。コーレイは水を与えれば与えるだけ飲むって言われてる」

 だから増殖すると池や泉を枯らしてしまう厄介な存在と、一族には伝わっていた。国中のコーレイは徹底的に焼却処分され、現在はここでしか栽培されていない。


「ここって、区分け用の石とか置いてないんだ……どうしよう……運んでくる?」

「え、それって、大変じゃない? ふるいを使って撒いた種を回収するのはどう?」

「ここ全部の土をふるうの? 範囲が広すぎない?」

「古布で囲うのはどう? 水が流れるでしょ」

「布だけだと弱いから窓の格子か藁か何かを包んで、周りを囲むとか」

「あ、それなら半分土に埋めなきゃダメじゃない?」

 十二名がそれぞれに意見を言い合う間にも、雨は地面を叩いている。布や格子をどう調達するかの話になった時、声を掛けられた。


「どうした? 何か困っていることがあるのなら、手伝おう」

 優しい男性の声に振り向くと、皇帝陛下が渡り廊下に立っていた。金糸銀糸で龍の紋様が刺繍された豪華な服と、その煌びやかさに負けない金色の髪に青玉のような青い瞳。四十六歳とは思えない若々しさと凛々しい美貌が神々しい。


 被り笠を脱いだ全員が泥水に膝をつこうとするのを手で制し、皇帝自らが冠と上着を控えていた女官に渡して白い内着と脚衣姿で中庭に降り立つ。

「陛下……」

 あまりにも想像外の行動を目の当りにして、誰も止める言葉を持ってはいなかった。強い雨は皇帝にも私たちにも平等に降り注ぎ、その装束を濡らしていく。


「雨に打たれるのは久しぶりだ。幼少の頃を思い出すな」

 楽しいと明るく笑いながら、皇帝は私の方へと近づいてきた。

「カリン、皆で何をしているんだ?」

「お、恐れながら申し上げます。土に撒いた種が雨で流されないように対策を講じておりました」


 皇帝は私たちが考えた対策を一つ一つ聞き、やがて頷いた。

「せっかく撒いた種を戻すのは面倒だ。急ぎ古布と藁を持ってこさせよう」

 そう言って懐から出した手巾が白い光を帯び、ハヤブサの姿へと変化して雨を切り裂くように飛び立った。


「作業の間だけ雨は遠慮してもらうとするか」

 少年のように笑う皇帝が空に向かって指を鳴らすと雨がぴたりとやんだ。まるで透明な屋根が作られたようで雨が周囲へ流れていく。

「あれ?」

 誰かの声で、ずぶ濡れだった髪や体が乾いてすっきりと浄化されていくことに気が付いた。これが皇帝が持つ神力。呪文も護符も使わずに、無から有を生み出す奇跡の力。至近距離で見るのも体験するのも初めてて、驚きを隠せない。


くわすきはどこにある?」

 問い掛けられたリィカが顔を真っ赤にしながら、温室の中へと皇帝を案内していく。温室から出てきた皇帝の手には鋤が握られていて、鼻歌混じりで土を掘り始める姿を見た私たちも慌てて道具を持って掘る。


 種を植えた場所の周囲に溝が掘られていく。女の私たちが土を掘るよりも、皇帝一人で掘る方が早い。

「陛下っ? な、何をなさっているのですかっ?」

 男性の声の方を見ると、皇帝陛下の近衛兵が藁束を持って立っていた。肩に担ぐ者、手に持つ者と様々で二十代前半から後半の華やかな美形が五名、濃い紅色の兵服を着用している。


「久しぶりに土いじりだ。楽しいぞ」

 白い内着の袖をまくり上げて鋤を肩に担ぐ皇帝の姿は、あまりにも堂々としていて違和感を粉々に砕いている。もう恐れ多いという感覚が麻痺してしまって格好良いとしか思えない。


 皇帝と近衛兵、私たちで作業すると、短時間で完了した。まだまだ土を耕したいとごねる皇帝を近衛兵の一人が窘める。

「仕方ない。今日はこれで終了だ」

 屋根のある場所に全員が避難した後、皇帝が指を鳴らすと透明な屋根が消えて強い雨が降り注ぐ。古布と藁束で作った囲いからは水だけが流れ出し、種を撒いた箇所の土がせき止められていた。


 全員が作業の成果に歓声を上げる中、静かに近寄ってきた皇帝が私に囁きかけた。

『カリン、何か困ったことはないか?』

『何もありません。お気遣い下さりありがとうございます』

 静かに私が返答すると、皇帝は何故か寂しそうな笑顔で頷いた。

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