第四章 不安

 参謀本部は大騒ぎになっていた。昨日まで続いていた浮かれた空気は一掃され、誰もが緊張感で走り回っていた。家の中に大熊が入り込んだとしても、これほどの騒ぎになることはないだろう。


 そんな参謀本部に帰ってきたクラウスたちは、その足でクラビッツの部屋に向かっていた。波のように走り回る将兵たちをかき分けるように歩き、彼らはクラビッツの所までやって来た。


「閣下!」


 本来なら無礼なことだが、ノックをするのももどかしいクラウスは、その勢いのまま部屋に入った。


 部屋の奥でクラビッツは一人、椅子に座っていた。部屋には彼一人だけで、彼を中心に静寂が漂っていた。参謀本部の騒ぎと隔絶されたようなその静けさに、クラウスはぞくりと寒気を覚えた。


「クラウスくん。それにユリカ大尉もいるな。入りたまえ」


 クラビッツから声がかかる。二人はそのままクラビッツの前まで歩み寄った。二人を前に、クラビッツが静かに語り掛けてきた。


「その様子だと、敵の援軍については報告を受けているようだな」


「はい。シチョフさんから話を聞きました。グラーセン軍が追撃している敵部隊に援軍が確認されたと。参謀本部も大騒ぎになっていますね」


「まあな。無理もないだろう。この援軍が合流すれば、これまでの優位性がなくなるわけだからな」


 そんなことを淡々と語るクラビッツ。敵の援軍が合流することになれば、グラーセン軍との兵力差は逆転することになる。


 それ故に今、参謀本部は大騒ぎになっているのだ。報告を受けた将校たちは目眩を覚え、中にはこれを事実と認めたくないのか、報告を疑う者もいたという。


「シチョフさんの話では、敵の援軍は例のロレーヌ要塞に配備されていた部隊のようだと言っていました」


「間違いないだろう。この状況で援軍に行けるのは要塞にいた部隊だけだからな。おそらく、要塞にいた敵軍のほぼ総兵力が向かっているはずだ。必要最低限の兵力だけ残して、援軍に送ったのだろう」


 参謀本部が掴んだ情報とシチョフがもたらした情報。二つを照らし合わせ、それが事実であることを語ってくれた。


 ただ、報告が事実であるからこそ、クラウスは首を傾げる。それはあり得ないからだ。


「しかし、おかしいのではありませんか? 確かに要塞にいた部隊が一番サンブールの部隊に近いですが、グラーセン軍が敵軍と接敵する前に合流するのは、時間的にも距離的にも不可能のはずです」


 ユリカが口を開く。クラビッツの話ではロレーヌ要塞の部隊がサンブールの部隊と合流する前に、グラーセン軍はサンブールの敵部隊と接敵、これを撃破。その勢いのまま要塞も攻略する計画だった。要塞とサンブール部隊の距離は遠く、援軍に駆けつけるには間に合わない距離だった。だからこそクラビッツたち参謀本部では、野戦でサンブール部隊を撃破するつもりだった。


「まさか相手は、魔法の絨毯でも使ったのかしら?」


 そんなユリカの呟きに、クラビッツは小さく頷いた。


「ふむ……魔法の絨毯ではないが、まあ常識破れなことを相手はやったみたいだぞ」


 そんな風にクラビッツが呟く。どうやら何かを知っている様子のクラビッツに、クラウスたちが視線を向けた。


「閣下。敵は何か奇策でも用いたのですか?」


「奇策というほどではない。だが、さすがに私にも予想できないことだったがね」


 クラビッツはそう言って一瞬沈黙する。それから彼の口から真相が明らかにされた。


「ロレーヌ要塞とサンブール地方に流れるナミュール川。敵はここを使って援軍を送ったようだ」


 ナミュール川。サンブール地方に流れる川で、ロレーヌ要塞や首都・マールにも繋がる河川だった。


 クラウスもユリカも首を傾げた。確かに交易路としてナミュール川は使われているが、大軍が移動するのに使用できるものなのだろうか? 


 それに、クラウスは気になることを口にした。


「閣下。ナミュール川を使ったとはどういうことでしょうか? それに、シチョフさんの話では、要塞の駐留部隊が外に出た様子は確認されなかったと言ってました」


 要塞を監視していたシチョフの部下からは、駐留部隊に動きは見られなかったという。大軍が移動したとなれば、その動きに気付かないはずがない。


 しかし、実際に援軍に駆けつけたのは要塞の駐留部隊だ。一体何が起きたというのか? 


 クラウスの疑問を受けて、クラビッツが説明を続けた。


「まず要塞の駐留部隊がどうやって動いたかだが、以前聞いた報告だと、要塞に多くの荷馬車が入っていくのが確認された聞いている」


 それはクラウスたちも耳にしていた。シチョフたちの報告では、要塞へ物資を運び入れるために荷馬車が大量に入っていっているという。そのことからも、アンネル軍は要塞での籠城戦を企図していると考えられていた。


「はい。確かにそのように話を聞いておりますが、それが何か?」


「その荷馬車だが……それは本当に物資を運び入れるためのものだと思うかね?」


 クラビッツの言葉に、クラウスたちは嫌なものを感じた。クラビッツはおかまいなく話を続けた。


「おそらくだが、その荷馬車たちの目的は物資の搬入ではない。要塞から部隊を運び出すことが本当の目的だ」


「な……!」


 クラウスは声を上げ、ユリカは沈黙で驚きを示した。


「で、では敵は荷馬車に乗って要塞を出て行ったということですか!?」


「そういうことになるだろう。我々にバレないように秘密裏に。実際我々は物資の搬入だとずっと思い込んでいたわけだしな」


 淡々と語るクラビッツだが、さすがにクラウスも信じられなかった。確かに不可能ではないが、そんなことを堂々とやってのけるなど、あまりにも大胆だった。


「しかし、そんなことをすればバレてしまうのでは? あり得ないのでは?」


「そうだ。君の言うとおり、あり得ないことだ。そして、その『あり得ない』という考えが、我々の目を欺いたのだ」


 そんな風にクラビッツは呟いた。


「手品と一緒だ。手品師が観客に見せるのは魔法ではなく、種も仕掛けもある手品だ。そして最も優秀な手品とは、シンプルな仕掛けのものだ。何故なら、観客は手品師がそんな簡単な仕掛けをするとは思ってもいないからだ。だから観客は自ら手品を見抜くことができなくなるのだ」


 確かにその通りだ。手品の種明かしをすれば、それは意外なほどシンプルなものだ。そして観客たちは思い込む。そんな簡単な仕掛けのはずがないと。その思い込みこそが手品の種でもあるのだ。


 アンネル軍は見事な手品をやってのけた。クラウスたちはそんな手品を前に、間抜けな観客になってしまったわけである。


 しかし、そこで疑問が浮かぶ。要塞から部隊を運び出すことはそれで説明が付くが、それだけではサンブールの部隊と合流できるはずがない。馬車で走り続けても合流は厳しいし、何よりそれだけ多くの馬車が走っていれば、必ず目に付くはずだ。


 だというのに、援軍はすでにサンブール方面に到着しており、合流も時間の問題だという。そこまでグラーセン軍にバレずに移動できるとは思えない。


「閣下。それですと援軍がサンブールに到着するには時間が足りないはずです。馬車の走る速度ではどうしても厳しいはずです」


 ユリカがその疑問をクラビッツにぶつけた。その答えもわかっているのか、クラビッツは何でもないことのように答えた。


「それについては前線の斥候部隊から報告が来ている。どうやら要塞から出た敵部隊は、途中で貨物船に乗り込んだようだ」


「貨物船、ですか?」


「そうだ。さっき敵はナミュール川を使ったと言っただろう? 敵は要塞を出た後、貨物船に乗り込み、そのままナミュール川を使ってサンブールに向かったのだろう。実際ナミュール川を多くの貨物船が航行するのが目撃されている。そのまま船は前線に向かい、そこで兵士たちを上陸させたらしい」


「ちょっと待ってください」


 そこでクラウスが口を挟む。上官の話に割って入るなど無礼だとはわかっているが、それでもクラウスは口を開いてしまった。


「確かにそれで兵士たちを運ぶことは出来ますが、サンブールに兵士たちを上陸させられるような場所はないはずです。港はもちろん、街すらなかったはずです。一体どうやって……?」


「簡単な話だ。ないものは作ればいいだけだ」


 クラビッツはそれだけ答えた。あまりにシンプルな答えにクラウスは思わず口を閉ざしてしまった。


「斥候の報告だと、敵軍の工兵部隊が簡単な桟橋をナミュール川に作ったらしい。貨物船はそこで兵士たちを降ろしていたようだ。まあ貨物船が相手になるから、相当大きな桟橋だったようだ。かなり無理をしたのだろう」


 確かに工兵がいれば桟橋を設置することも不可能ではないだろう。だが貨物船ほどの大きな船が係留するとなると、簡単な桟橋では無理が生じるはずだ。


 それに部隊を載せた貨物船が到着するまでに時間はあまりなかったはずだ。それを短期間で作り上げるのは、不可能に近かった。


「そんな……なんて無茶なことを」


「そう思うかね? だが、もし立場が逆だったなら、私も同じ作戦を考えていたと思う」


 クラウスの小さな呟きにクラビッツは鋭く答えた。それは作戦を考える参謀将校としての言葉だった。。


「これは戦争だぞ? 法律と人道に反しない限り、あらゆる手段が用いられる戦いなのだ。君の言う無茶というのは、敵にとっては戦争に勝つための手段なのだ。それで戦死者が減り、戦争に勝つことができるのであれば、私は躊躇なく同じ作戦を立案していただろう。これが戦争でなければ、私は素直に相手を誉めていただろう」


 それは参謀将校としてのクラビッツの素直な言葉だった。これほど見事に出し抜かれたのは、クラビッツにとっては悔しいはずだ。だが、悔しさすらも感じないほどに敵の作戦は見事だったのだ。クラビッツは軍人として、素晴らしき敵に敬意を示すのだった。


「まあ、残念ながらこれは戦争で、相手を誉めても勝つことは出来ない。我々も行動しなければならない」


「閣下、それでは我が軍にはこれからどのような指示を出すおつもりでしょうか?」


 このまま敵が合流すれば、兵力の上では敵が有利になる。単純な話、戦争では敵より多くの兵力を用い、敵を撃破するのが常道であり、それが用兵の理想なのだ。そういう意味では、アンネル軍は理想的な状況を作り出すことができるわけである。


 逆に言えば、このままではグラーセン軍は不利な状況を迎えることになる。それをクラビッツはどのように対処するつもりなのか? クラウスの問いかけにクラビッツは答えた。


「前線の部隊にはすでに連絡をしてある。三方向から分散進撃をしていた三個軍団を、すぐに合流するよう指示を出している。これで少なくとも各個撃破の危険はなくなるだろう」


「それでは、これで敵の兵力を上回ることができるわけですね」


 そう問いかけるクラウスに、クラビッツは首を横に振った。


「いや、わずかではあるがまだ敵の方が兵力で上回っている。加えてこちらはサンブールなどで戦った後だ。損耗や疲労も出ているだろう。逆に敵の援軍は損耗なしの状態だ。その差がどう影響するかわからぬ」


 このような悲観的な事態になっても、クラビッツは冷静に状況を分析して見せた。淡々と語る言葉にクラウスたちは肩を落とした。


「そうですか……それでは一旦後退して態勢を整えるということでしょうか?」


 兵力で劣っている状況で敵と真正面から戦うのは避けるべきことだ。クラウスにもそれくらいはわかる。ここまで勝利を重ねてきたが、ここで退くというのは口惜しいことだった。


「いや、後退はできない。このまま敵軍を撃破しなければならない」


 そんなクラウスに、クラビッツは信じられないことを言い放った。クラウスもユリカも耳を疑った。


「しかし閣下。この状況で敵と戦うのは危険なのでは? いえ、決して負けるとは思いませんが、勝ったとしても損害がどれほど出るかわかりません。やはり後退してこちらも援軍を待つべきではないでしょうか?」


「それができるなら私もそうする。だが、状況がそれを許さないのだよ」


「どういうことでしょう?」


 ユリカが問いかける。確かにクラビッツが非合理的な指揮をするとは思えない。一体何が起きているのか、クラビッツはユリカの問いかけに答えた。


「君たちがここに来る前に、敵軍に新たな動きが確認された。アンネル軍は西側に配置している部隊を集結させ、こちらへ移動させようとしているようだ。大部隊の軍勢が集結し、鉄道でこちら側に移動させるつもりらしい」


 アンネル西部。つまりエスコリアル王国に向けられていた部隊をグラーセンとの戦いに投入させようことだ。アンネルはエスコリアルと不可侵の同盟を組んでいる。エスコリアルから攻め込まれる危険がないのなら、その部隊を戦いに投じるのは当然のことだ。


「それは本当なのですか?」


 クラウスが問いかける。クラビッツは動じることなく淡々と言葉を返した。


「間違いないようだ。まだ動員や編成に時間がかかっているが、確実にこちらへやって来るだろう」


 クラビッツが机に広げられた地図に指を置く。その指はアンネル西部にある鉄道から、そのまま東へ鉄道を走り、そうしてサンブールへと向けられた。敵の援軍はそのルートを辿ると暗に伝えていた。


「目の前にいる敵部隊にこの援軍が合流すれば、その兵力差を覆すことは難しくなる。我々は援軍がここに到達する前に、目の前の敵を撃破する必要に迫られているのだ」


 クラビッツの説明にクラウスたちは息を呑んだ。サンブールで対峙する敵だけでも兵力で劣っているのに、これに敵の援軍が合流すれば、その差は絶望的なものとなる。軍事常識として、敵が合流する前に各個撃破するのが理想的だ。


 だが、兵力で上回る相手に戦うというのは危険がある。サンブールの敵部隊に勝ったとしても、どれほどの損害が出るかわからない。その後にやって来るであろう敵の援軍と戦うのは、リスクが高すぎた。


 合流させるわけにはいかない。しかし各個撃破しようにもそのリスクは大きい。


 アンネル領に攻め込んでいるのはこちらなのに、まるでこちらが追い詰められている。目の前の現実にクラウスは卒倒しそうになるのを必死でこらえていた。


「それで閣下。我が軍はこれからどうするのでしょう?」


 沈黙するクラウスの代わりにユリカが問いかける。クラビッツはため息交じりに言葉を紡いだ。


「すでに分散させていた三個軍団の合流を命じている。合流すれば負けはすまいが、戦端を開くのは危険だ。前に出ないよう命じてはいるが、敵の援軍が迫っている状況だ。いずれは戦いに挑まねばならないだろう」


 そう。これは時間との戦いでもあるのだ。敵の援軍が合流する前に各個撃破しなければならないのだ。


 これまでグラーセン軍は勝利を重ね、前進を続け、敵を退けてきた。


 全てがうまくいっている。このまま戦争に勝利し、帝国統一が達成される。誰もがそんな未来を夢想していた。


 だが、そんな夢想は一気に消失してしまった。


 何も間違いはなかった。全てが順調で、失敗は何一つとして存在しない。


 ただ敵がこちらを上回っただけなのだ。全ては敵が見事だったとしか言えなかった。


 その時、クラビッツが呟いた。


「戦争は簡単に人の意志を飲み込んでしまう。恐ろしい怪物だよ」



 クラビッツの部屋を出た後、クラウスたちは自分たちの部屋に戻っていた。


 クラウスは先ほどまでのクラビッツとの会話を反芻していた。この不利な状況に彼の思考は目まぐるしく揺れていた。


 どうすればこの状況を打破できるのか。どうすればこの戦いに勝利できるのか。そんな考えが彼の中で駆け巡っていた。


 だが、彼は参謀将校でもなければ将軍でもない。彼はあくまで軍属であり、一個の人間だ。この状況を打破する方法が思い付くはずがなかった。


 答えの出ない思考の繰り返し。クラウスは出口のない迷宮に迷い込んでしまっていた。


「クラウス」


 そんな彼にユリカが声をかける。その声に引っ張られて、クラウスが迷宮から這い出てきた。


「すまない。どうした?」


「眉間にしわが寄ってる」


 振り返るクラウスにユリカが困ったように笑った。


「いつもより怖い顔になってる。いい男が台無しよ」


「む……」


 そんなにひどい顔をしていたのかと、クラウスは顔に手を当てた。その様子にユリカが微笑みを向けた。


「何を考えているかわかるけど、あなた一人が悩んでもしょうがないわ。少しは肩の力を抜いて」


「あ、ああ。そうだな」


 ユリカの言葉が今はありがたかった。彼女がいなければ、このまま思考の迷宮に迷い込んだまま、抜け出せなくなりそうだった。


 しかし、それでもクラウスの顔は堅かった。このままでは前線にいる将兵たちが危ないのだ。何とかできないものかと、彼は深みにはまろうとしていた。


 そんな彼を見て、ユリカは苦笑いを浮かべた。そして、彼女はクラウスの顔に手を当てた。


「そんな顔しないで。今日はもう寝て、明日また考えましょう」


 まるで悩んでいる子供を窘めるような、そんな微笑みだった。


 これまでもそうだった。いつも困ったり悩んだりした時、クラウスは彼女の微笑みに助けられてきた。隣で彼女が笑っている。それだけで心が晴れるのだから、本当に彼女には勝てないと、クラウスは思い知らされるのだ。


「そうだな。もう寝るとするよ。すまないな」


「ううん、いいのよ。今日はゆっくり寝なさいね」


「ありがとう、君もゆっくり休んでくれ」


 そう言ってお互いに手を振ってから、クラウスは自分の部屋に入っていった。


 ユリカはクラウスに手を振り続けてから、一回息を吐いた。そうしてから彼女は振り返って歩き出した。


 ただ、何故か彼女が向かったのは、自分の部屋ではなかった。



 翌朝、いつもの起床ラッパで目覚めるクラウス。身体を起こして窓を開けて深呼吸。身体の中に冷たい空気を入れて、それで意識を覚醒させる。いつもと変わらない朝の始まり。


 しかし、クラウスは自分の中に、嫌なものが漂っているのを感じていた。


 アンネル軍が仕掛けた罠。不利な状況。昨夜クラビッツと話したことが、クラウスの中でぐるぐる回っていた。


 このままでは前線に出ているグラーセン軍に、取り返しのつかない損害が出るかもしれない。かと言って目前の状況から撤退することはできない。状況はあまりにも不利だった。


 このままでは損害が出るばかりか、この戦争に敗北する可能性もあった。


 クラウスは軍団の指揮官でもなければ、作戦を立案する参謀でもない。彼はただの軍属であり、彼一人が悩んでも仕方ないことは、彼自身が理解している。


 それでも悩まずにはいられなかった。前線に出ている仲間に危機が迫っている。彼らをこのまま危険にさらすわけにはいかないのだ。


 と言っても、どうしようもないことはクラウスには痛いほどわかっていた。その悩みが彼の中で暴れ、苦しみをもたらしているのだ。


 その苦しみを吐き出すように溜息を吐くクラウス。それで少しだけ気分が和らいだクラウスは、身支度を整えはじめるのだった。


 そうして身支度を終え、部屋を出ようとしたところ、彼の部屋にノックの音が響いた。


「すいません。失礼します」


 入って来たのはユリカではなくてルシアナだった。珍しい訪問客にクラウスも目を丸くした。


「あれ? ルシアナさん? どうしてこちらに?」


 ルシアナはクラウスたちに朝食を運んでくるのが日課になっていた。ただ彼女が運ぶのはいつもユリカの部屋であって、クラウスの部屋にやって来るのはほとんどなかった。クラウスが戸惑っていると、ルシアナも戸惑い気味に口を開いた。


「すいません。実はお嬢様が部屋にいないので、こっちに来たんですけど」


「ユリカがいない?」


 どういうことだろう? 何も聞かされていないクラウスにルシアナが手紙を手渡した。


「今朝食堂にこれが届けられまして。昨日からいないみたいなんです」


 クラウスが手紙を受け取る。それはユリカが書かれたと思われる手紙で、クラウスに宛てられたものだった。


 ユリカは昨夜、クラウスと別れた後にスタールの所へ向かったこと。一日外に出ているので、今日は一人で過ごしてほしいことが書かれていた。


 一体何の用事だろうか? それも自分を置いて一人で行くなんて。思わぬ出来事にクラウスは呆気に取られていた。


「それで料理も出来上がっていたし、こちらに持ってきたんですけど、よかったですか?」


 クラウスが運ばれてきた料理に目を向けた。自分の分と、まだ満足に食べることができないユリカのための軽食もそこにあった。


 ユリカは本当に何も言わずに外出したようだ。何も知らないルシアナとしては、自分の所に来る以外に選択肢はなかったのだろう。


 これ以上困らせても申し訳ないし、クラウスは料理を受け取ることにした。


「ありがとうございます。ユリカの分もいただきます。それと、今日はユリカも帰るのが遅くなると書いているので、昼の食事は作らなくても大丈夫ですので」


「……わかりました。もし何かあったら言ってください。それでは」


 まだ何か言いたそうなルシアナだったが、それ以上何も言わずにそのまま退室するのだった。


 彼女を見送った後、クラウスは受け取った朝食を机に並べ、食事を食べ始めた。


 一人きりの食事なんていつぶりだろうか?  いつもはユリカと一緒に食べるのが当たり前になっていて、こうして一人で食事をするのは久しぶりだった。


 なんだか落ち着かなかった。一人で食事をするのはこんな感じだっただろうかと、クラウスは不思議な感覚に戸惑っていた。


 食事を続ける中、クラウスは外出しているユリカのことを考えた。おそらく昨夜、自分と別れた後に外出したのだろう。スタールの所へ行ったとなると、もしかしたらこの不利な状況を打開しようと動いているのかもしれない。


 そんなことを考えていると、クラウスは変な苛立ちを覚えた。もしそうならありがたいことだが、どうして自分に何も言わずに出て行ったのか。置いてけぼりにされたことにクラウスは頭に血が上るのを感じた。


 とは言え、それが不当な怒りであることもクラウスはすぐに気付いた。別にいつも一緒にいなければならないわけではないし、そもそも彼女が一人で行動するのは自由なのだ。自分がそれに非を唱えるのは筋違いである。そう思ったクラウスは怒りを収めた。


 どうしてそんなことに苛立ってしまったのか、クラウスは正体不明の感情に首を傾げるのだった。


 その時、彼は脇に置かれているスープに目を向けた。それは味覚障害のあるユリカのために作られたスープだった。クラウスはそのスープを口に運んだ。


「……美味いな」


 ユリカのために作られたスープは、確かに美味しかった。味がわからない彼女のために丁寧に作られたものだとわかった。


「……ちゃんと、食べてるかな」


 そんな呟きが口から漏れた。いつもはそんな呟きにも答えが返って来るのに、今日は何も返事がなかった。


 こんな独り言も本当に久しぶりのことだった。



 食事を終えたクラウスは、そのまま仕事に向かった。情報部でユリカの欠席を伝え、それから仕事に入る。ユリカがいないことにまだ戸惑っているが、それでも彼は自分にできる仕事に専念した。


 いつものように参謀本部にもたらされる情報の分析、報告をまとめる。いつもと変わらないことであり、この情報部での自分の役目だった。クラウスは自分に課せられた役目を果たすために、ひたすら仕事に向かった。


 しばらく仕事を続けたところで正午を告げる鐘が鳴った。ユリカがいないので、クラウスは食堂へ向かった。


 他の将兵たちに混じって食べる食事。いつも食事はユリカと二人だったので、こういうところで食べることに慣れていなかった。周りの軍人たちからも、珍しそうな眼を向けられていた。


 居心地が悪かった。まるで一人だけ異国にいるような感覚だった。クラウスは手早く食事を終わらせて、そのまま食堂を後にするのだった。


 それからまた午後には仕事に戻る。いつもと同じ仕事、昨日までと同じことを繰り返している。


 今までと変わらない一日。そのはずなのに、ユリカがいないこの状況にクラウスは調子が狂うのだった。身体が重たいというのか、心が錆びついているというのか。


 クラウスは自分の中の何かが不安定だと気付いていた。



 夕刻近くになり、クラウスは自分の部屋に戻った。この日の仕事もなくなり、自室で休むことにした。


 久しぶりに一人きりで過ごした一日だった。クラウスはそのまま行儀悪く、ソファで横になった。


 変に疲れた気分だった。頭はまだ冴えているし、身体も疲労はしていない。だというのに、これ以上動きたくない気分だった。


 理由はわかっていた。ユリカがいないこの状況に、調子が狂っているのだ。その狂いに心が乱れ、それ以上動くなとわがままを言っているのだ。


 そんな自分の状態に、クラウスは内心で呆れていた。彼女がいないというだけでこんな風になっている自分がおかしく思った。


 それからクラウスは、そのままソファの上でじっとしているのだった。


「…………………………」


 その時、クラウスはいきなりガバっと体を起こした。それからドアに近寄ったかと思うと、そのまま勢いよくドアを開いた。


「ユリカ!」


「きゃっ!」


 ドアを開くと、そこにはユリカではなくルシアナがいた。クラウスの勢いに小さな悲鳴を上げていた。


「あ……失礼、大丈夫ですか?」


「あ、うん。大丈夫です。びっくりしただけですから」


 そこでクラウスは、自分の行いが恥ずかしくなった。ほとんど無意識で動いていた。


 横になっていたクラウスは、小さな足音が部屋に近づくのを感じた。彼はその足音がユリカのものだと思い、何も考えずにドアを開けに走ったのだ。


 ただの足音をユリカのものと勘違いするなど、クラウスは自分に呆れるのだった。


 その時、ルシアナの顔が目に入った。何故か彼女は困ったような笑みをクラウスに向けていた。


「すいません。どうかされましたか?」


「あ、うん。ちょっとお兄さんのことが気になりましてね」


「私が?」


 何のことかと首を傾げるクラウス。何かあっただろうかと考えるクラウスにルシアナが答える。


「いえね。お兄さんが暗い顔をしているって、みんなから聞きまして。心配になって会いに来たんですよ」


 ああ、なるほど。そんなことかとクラウスが溜息を吐いた。


「ああ、申し訳ない。元々愛想の悪い顔ですので。周りから気味悪がられたんでしょう」


 もしかしたら、知らない間に周りを睨んでいたかもしれない。そんな風に思っていると、ルシアナがそうではないと首を横に振った。


「そうじゃないんです。みんな言ってました。お兄さん、寂しそうで、悲しそうだって」


 ルシアナはそう言って、クラウスの顔を覗き込んだ。その時、彼女も辛そうな顔になった。


「お嬢様がいなくて、一人きりで歩くお兄さんが、とても寂しそうだって、みんな心配していました」


 そう言ってルシアナがクラウスを真っ直ぐに見つめた。


「お兄さん、今も悲しそうです」


 そう言ってくるルシアナも、悲しそうな顔をしていた。クラウスの顔を見て、辛そうにしていた。


 正直、自分がどんな顔をしているのか、クラウスにはわからなかった。だけど、彼女にそんな顔をさせるほどに自分はひどい顔をしているのかと思うと、恥ずかしさすら込み上げてきた。


「すいません。心配させてしまったようで」


「ううん。仕方ないですよ。仕方ない」


 そう言って笑みを向けてくるルシアナ。


 自分の部屋だというのに、クラウスは居心地が悪かった。今もひどい顔をしていると思うと、ルシアナに見られるのが恥ずかしくなり、つい口を閉じてしまうのだった。


 沈黙するクラウス。そんな彼にルシアナが声をかけてきた。


「よかったら、少しお話しませんか?」



 二人分の紅茶が机に置かれる。クラウスとルシアナはお互い向かい合う形で席に座った。


 この状況に戸惑うクラウス。いつもならユリカも並んで三人で話すことはあるが、こうしてルシアナと二人きりになるのは珍しいことだった。


「やっぱり、お嬢さんがいなくて寂しいですか?」


 唐突にルシアナが語り掛けてくる。その問いかけにどう答えてよいか、クラウスにはわからなかった。


「正直に言えば、よくわかりません。寂しいとか悲しいとか、そんな風には思っていないんです。ユリカがいなくて、調子がおかしいというのはありますけど、それがどうしてなのか、よくわからないんです」


「そっか……」


 クラウスは今の自分の気持ちを、上手く表現できずにいた。ユリカがいないことで調子が狂っているのはあるが、寂しいとか悲しいといった風には感じていなかった。


 ルシアナに悲しそうと言われた時は、むしろ驚く気持ちの方が強かった。自分が寂しそうな顔をしていたなんて、思ってもいなかった。


 そんなクラウスを見て、ルシアナが楽しそうに笑い出した。

「本当、お二人は面白いですね」


 ルシアナの言葉に目を丸くするクラウス。今の話からどうして面白いという言葉が出てくるのか、理解が及ばなかった。


「えっと、面白いとは、どういう意味ですか?」


「ふふ、ごめんなさい。だけど、本当にお二人ってお似合いだなって、改めて思いましたよ」


 なおも笑い続けるルシアナ。一体どういう意味なのかと、クラウスは無言で問い詰めた。その問いにルシアナが面白そうに口を開いた。


「だって、お二人ともお互いを好きになったりとか、相手がいなくて寂しいとか。そんなことを通り越して、一緒にいるのが当たり前になっているんだなって思って」


 いきなりそんなことを言われて、クラウスは何も答えられずにいた。そんな彼にルシアナはさらに話し続けた。


「普通は誰かを好きになったら、一緒にいられて嬉しかったり、一日でも会えなかったら寂しかったり、そんなことを考えるものなのに、お二人はそんな段階を飛び越して、もう一緒にいるのが当たり前になっている。まるで最初からそうだったみたいに」


 ルシアナの瞳がクラウスを捉える。この世界の素敵なものを見るような、そんな瞳だった。そんな顔で見つめられて、クラウスは戸惑うしかなかった。


「そう、でしょうか?」


 すると、ルシアナがからかうように笑い出した。


「ほら、やっぱり自覚してないし」


 そう言ってルシアナがもう一度クラウスに向き直った。


「だけど、だからこそ私はお兄さんたちが羨ましいって思うんです」


 そう呟くルシアナの言葉に嘘はなかった。それがわかるからこそ、クラウスには疑問だった。一体何が羨ましいというのか。彼は率直に問いかけた。


「羨ましいとは、何がですか?」


「だってそれって、運命みたいだと思いませんか? 私、運命とか宿命とか、そういうことは感じたことはないし、運命の相手がいるなんて、とてもじゃないけどそうは思えないんです。だけど、お二人みたいに最初から一緒にいるのが当たり前みたいになっている。それって、とても素敵だと思うんです」


 そう言って、ルシアナが真っ直ぐにクラウスを見つめた。


「たぶん、運命の二人ってお兄さんたちみたいな関係なんだろうなって思うんです。だから、私はお二人が羨ましいんです」


 ルシアナはそう言って紅茶を口に含んだ。


「実は私、あの人に会うまでは誰とも付き合ったことがないんです」


「え? そうなんですか?」


 クラウスが驚きの声を上げる。ルシアナは参謀本部でも有名人だし、器量良しの人気者だ。今までに色んな人が彼女に声をかけてきたはずだ。そんな彼女が誰とも付き合ったことがないのは、クラウスは素直に驚いた。


「今まで声をかけてきたり、いいと思った人はいなかったのですか?」


「そうですね。確かに色んな人がいましたよ。将来有望な将校さんだったり、貴族の跡取りだったり、裕福な資産家の人とか。色んな人から声をかけられました。だけど、どうしてか私は付き合いたいとか、誰かを好きになったりすることはありませんでした」


 そう語るルシアナは寂しそうに笑った。誰も好きになったことがないということが、彼女にとっては寂しいものだったのだろう。


「そんな風に生きてきたから、このまま誰も好きにならないままなのかなって、そんな風に思っていました。だけど、あの人に出会って、私は初めて人を好きになりました」


 ルシアナが笑った。その顔はとても幸せそうな顔で、好きという気持ちを語る彼女の微笑みにクラウスは見惚れていた。とても幸せそうで、美しかったから。


「あの人と出会って、私はとても幸せになりました。あの人と会うのが楽しくて、あの人が笑うのが今はとても嬉しい。だけど、今でも不安になるんです。私はあの人を好きだけど、あの人は私を好きでいてくれるのだろうか。いつか離れ離れになったりしないかって」


 そこまで言い終えて、ルシアナがクラウスを見た。


「だからお二人が羨ましいんです。最初から出会うことが決まっていて、まるで運命の相手みたいに見えるから。きっと、お二人が離れ離れになることはないんだろうなって」


 そんなことを語るルシアナだが、正直クラウスにはよくわからなかった。運命とか言われても、ユリカとの出会いが運命だとは思ってはいなかった。少なくとも、女の子が夢見るような、お伽話みたいな素敵なものではなかったと思う。


 だからルシアナから羨ましいと言われても、クラウスは首を傾げるしかなかった。


 だけど、クラウスには一つだけ思うことがあった。さっきルシアナが言ったように、自分とユリカが離れ離れになる。そんな未来だけは、どうしても想像できなかった。


「だから大丈夫。今は一緒じゃないけど、きっとお嬢様は帰ってきます。だって、お二人は運命の二人なんですから」


 あまりに当たり前に言うものだから、クラウスも呆気に取られた。何故ルシアナがこうまで言ってくれるのか、気になるクラウスはつい問い返した。


「どうして運命だと思うんですか?」


 そう問いかけると、ルシアナは悪戯っぽく笑った。


「乙女の勘です」


 根拠も保証もない、不確定要素しかない不安定な答えだった。


 だけどクラウスは知っている。女の勘はよく当たるということを。


「なるほど、それなら間違いなさそうですね」


 そう言いながら笑みを零すクラウス。その微笑みを見て、ルシアナも嬉しそうに笑うのだった。


「だけど、やっぱり羨ましいな。お二人って運命みたいにお似合いですから」


 そんなことを呟くルシアナ。するとそんな彼女にクラウスが笑いかけた。


「私からすれば、ルシアナさんたちこそお似合いだと思いますよ」


 それはクラウスから見た素直な感想だった。ルシアナたちを見ていると、二人は本当に素敵なカップルだと思っていた。


 すると、そんなことを呟いたクラウスをルシアナはまじまじと見つめた。そうしてから、彼女はまた笑い出した。


「本当に、お兄さんとお嬢様って面白いですね」


「えっと……今度は何です?」


 いきなり笑い出すルシアナにクラウスは戸惑いを見せる。そんな彼にルシアナが答えた。


「だってそれ、お嬢様と同じことを言ってますよ。二人とも同じことを言うもんだから、おかしくて」


 まだまだ笑い続けるルシアナ。そんな彼女の言葉にクラウスも苦笑いを浮かべるのだった。




 ルシアナが退室してから、クラウスは一人ぼんやりとしていた。その間、彼はルシアナとの会話を反芻していた。


 ユリカと一緒にいること。彼の中では、それが当たり前になっているとルシアナは言っていた。自覚はしていないが、おそらくそうなのだろうとクラウスは思った。


 確かに彼の生活は、ユリカを中心に回っていた。朝起きて、最初に彼女に会いに行って、今日は何をするのか、それを話し合うことから始まる。


 彼女と会わない間も、彼女と何をするのか。これから彼女とどんなことをするのか。それを考える毎日だった。


 彼の中では今日も明日も、その先も彼女がいることが前提になっている。


 以前の彼ならそんなことはなかった。いつも一人でいるのが普通で、誰かと一緒にいることはほとんどなかった。そんな自分の横に誰かがいるというのは、以前ならあり得ないことだった。


 だけど今はユリカが横にいる。自分はそんな彼女の横に並んで共に歩いている。何よりそのことが心地良く、楽しいとクラウスは思っていた。


「……なるほど、確かにルシアナさんの言うとおりだな」


 そんなことを呟きながら、一人苦笑いを浮かべてるクラウス。彼女にはいつも振り回されていると思っているのに、本当は彼女がいるのが当たり前に思っている自分がいる。過去の自分が見ていたら、呆れて溜息を吐いていただろう。


 だけど、逆に今の自分が過去の自分に会ったらこう言うのだろう。そんな生活も悪くないぞと。


「まだ帰ってこないのかな」


 自然と零れる呟き。彼女の帰りを待つクラウス。彼女が帰ってきたらどんな話をしようか。そんなことをぼんやりと考えるのだった。



「……ん」


 ふと目を覚ますクラウス。気が付くとすでに夜になっていた。どうやら知らない間に寝てしまっていたようだった。


 どれくらい寝ていたのだろうか。外の様子からかなり時間が経っているようだった。


 そうしていると、彼はユリカのことを思い出した。さすがにこんな時間なら帰っているはずだ。


 もしかしたら部屋にいるかもしれない。そう思った彼はユリカの部屋に行くことにした。


「そういえば、一体何をしに行ったんだ?」


 確かスタールの所に行くと伝言を受けていたが、どんな用件だったのだろうか。もしかしたらこの不利な状況を打開するために何か行動を起こしているのかもしれない。


 ユリカに会ったらそのことを話し合おう。そう思ったクラウスは足早にユリカの部屋に向かった。


 ユリカの部屋に着いたクラウス。彼はいつものようにノックした。


「ユリカ。戻っているか?」


 返ってきたのは沈黙だった。返事も何もなく、無音が辺りに広がった。


 首を傾げるクラウス。いくら何でもこんな時間まで外に出ているとは考えにくかった。


 まだ体調も万全ではないし、中で寝ているのかもしれない。そう思ったクラウスは失礼と思いつつも、部屋に入ることにした。


「ユリカ。入るぞ」


 部屋に入るクラウス。そうしてクラウスが見たのは、誰もいない部屋だった。


 それだけならクラウスも何も思わなかっただろう。だが部屋の様子を見た瞬間、彼はその光景に目を疑った。


 誰もいない。それだけではなかった。部屋には何もなかったのだ。いや、正確には『部屋には何も残されていなかった』のだ。


 ユリカの生活のための道具や調度品など、それら一切がどこにも残されていなかった。まるで最初からそうであるかのような在り方だった。


 クラウスの中に嫌な不安がよぎる。彼の中で初めて恐怖が湧き起っていた。


 今目の前で何が起きているのか、クラウスは混乱していた。


「ユリカ……?」


 そう呼びかけるが、返事があるはずもない。そのことがクラウスの不安をますます搔き立てていた。


 その時、部屋の奥の机にあるものが置かれていた。


 クラウスが近寄ると、それは手紙だった。しかもそれはクラウスに宛てた手紙だった。


 クラウスはその手紙を手に取り、恐る恐る中を開いた。


 手紙の中身を読み始めるクラウス。そうしてしばらくして、彼はそのまま部屋を飛び出した。


 彼の中の不安が爆発したのだった。

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